第5話 初めての敗北
第5話です。
大河はついに、格闘バトル素手限定のローランカー枠へ挑戦します。
相手はロックフィッシャー所属のローランカー。
初めての実戦で、大河はランキング世界の厳しさを知ることになります。
翌朝のランキング協会は、昨日よりも少しだけ騒がしく感じられた。石造りの大きな建物の中には、朝の冷えた空気と、人の熱気が混ざり合っている。受付ホールを行き交うランカーたちの足音、壁一面に浮かぶランキング掲示の淡い光、どこか遠くの闘技場から漏れてくる歓声。そのすべてが、大河の胸の奥を静かに揺らしていた。
今日は見るだけではない。
自分が戦う日だ。
大河は格闘バトル素手限定の受付前に立ち、指先でランカーカードの縁をなぞった。カードは薄く、掌に収まるほど小さい。それなのに、この世界ではそれ一枚に生活も順位も未来も繋がっている。昨日までの大河なら、その重みをまだ実感しきれていなかったかもしれない。だが今は違う。部屋代も食費も、借金の返済も、ランキングの数字と無関係ではないことを知っている。
ポルポルは大河の肩の少し上をふわふわと飛んでいた。いつもなら朝食の話をしていてもおかしくない時間だが、今日は妙に静かだった。ピンクに近い紫色の尻尾はゆっくり揺れ、大きな瞳は受付の奥にある申請用の水晶板を見つめている。
「本当に申請するのですね」
ポルポルの声は小さかった。止めるための言葉ではない。ただ、最後に確認しているのだと大河には分かった。
「ああ」
大河は短く答えた。喉の奥が少し乾いている。緊張しているのだろう。昨日の模擬戦で手応えはあった。朝のトレーニングでも、身体は少しずつ異世界の感覚に馴染んできている。それでも実戦は違う。昨日観戦したローランカー戦の鈍い打撃音、挑戦者が膝をついた時の砂の匂い、観客の熱を思い出すと、腹の底に重たいものが沈んだ。
それでも、足は引かなかった。
受付の女性が大河のカードを受け取り、水晶板の上にそっと置いた。透明な板の中を淡い光が走り、空中に文字が浮かぶ。
「格闘バトル、素手限定。ランキング外からのローランカー枠挑戦でよろしいですね」
「お願いします」
「対戦相手は選べません。ローランカー側で承認した者のうち、最初に承認が確定した相手との対戦になります。敗北時はランキング外のまま、ボーナスポイントがマイナス十となります」
受付の女性は慣れた声で説明した。言葉は事務的だったが、「マイナス十」という響きは大河の耳に重く残った。ボーナスポイントはランキングポイントとは別に精算される。つまり、今負ければ次の月に十万マール分のマイナスが生まれる。今の大河にとって、十万マールは軽い金ではない。
大河は静かに息を吸った。
「大丈夫です」
その声が自分でも思ったより落ち着いていたので、少しだけ救われた気がした。
受付の女性が申請を確定すると、空中に「承認待ち」の文字が浮かんだ。薄い青色の文字は、まるで水面に落ちた月明かりのように揺れている。大河はその表示を見つめた。誰が出てくるかは分からない。五百位台かもしれない。九百位台かもしれない。昨日見た八百十二位の男くらいか、それ以上か。相手を選べないというルールが、数字以上の重さを持って大河の胸にのしかかる。
待つ時間は長く感じられた。受付ホールの喧騒が妙に遠い。近くで剣を持った男たちが笑い合っている声も、掲示板の更新音も、どこか幕の向こう側から聞こえてくるようだった。
ふいに、水晶板が強く光った。
承認成立。
その文字が浮かんだ瞬間、ポルポルの耳がぴんと立った。受付の女性が表示を確認し、少しだけ表情を引き締める。
「対戦相手が決まりました。格闘バトル素手限定、ローランカー七百五十二位。ノーマント・フロック選手です」
七百五十二位。
大河は無意識に奥歯を噛んだ。昨日見た八百十二位より上だ。数字だけで強さがすべて決まるわけではないだろうが、少なくとも下ではない。
受付の女性はさらに表示を見て、言葉を続けた。
「所属グループ、ロックフィッシャー」
「ロックフィッシャー?」
大河が聞き返すと、ポルポルの尻尾がわずかに止まった。彼女はいつもの調子ではなく、少し声を落として答える。
「三大派閥の一つなのです。個人ランキングとは別に、グループランキングというものがあるのです」
「グループランキング?」
「団体戦や所属選手の成績を合わせたランキングなのです。トップ十に入るグループは、それぞれ国を治める権利を持っています。今の一位は王が作ったスターエルミナス。二位がアイナルファイター。そして三位が、ドクロのマークを掲げるロックフィッシャーなのです」
ポルポルの説明は短かったが、それだけで十分だった。個人で王を目指すだけではない。この世界には、国を動かすほどの巨大な団体があり、その一つの選手が今から自分の前に立つ。大河はまだランキング外の新人にすぎない。相手はローランカーとはいえ、三大派閥の看板を背負っている。
受付の女性が転移陣を示した。
「試合場へ転移します。準備ができましたら中央へ」
大河はカードを受け取り、掌に収めた。金属の温かさが皮膚に伝わる。ポルポルが横に浮かび、心配そうに覗き込んできた。
「大河さん」
「大丈夫だ」
そう言ったものの、完全に不安が消えたわけではない。だが、その不安の奥で、別の感情も確かに膨らんでいた。どんな相手なのか。自分の動きがどこまで通じるのか。昨日の模擬戦で掴みかけた感覚が、実戦でどこまで使えるのか。
怖い。
だが、それ以上に知りたかった。
大河は転移陣の中央へ足を踏み入れた。淡い光が足元から立ち上がり、受付ホールの景色が水に溶けるように歪む。次の瞬間、鼻先に砂と汗の匂いが触れた。
闘技場だった。
昨日観戦した場所と同じ、円形の石造りの観客席に囲まれた砂のリング。だが、今日は客席の見え方がまるで違っていた。自分が見下ろす側ではなく、見られる側に立っている。高い位置から注がれる視線が、肌の上にざらりと乗る。観客の数は多くない。それでも、ざわめきの一つ一つが身体の奥へ入り込んでくるようだった。
リングの向こう側に、一人の男が立っていた。
ノーマント・フロック。
大河より少し背が高く、引き締まった体つきをしている。短く刈られた黒髪、頬に走る薄い傷跡、口元に浮かぶ余裕のある笑み。派手な筋肉ではない。だが立ち姿に無駄がなかった。肩の力は抜け、膝はわずかに緩み、いつでも動き出せるように重心が整っている。胸元には、小さなドクロの印が縫い込まれていた。
ロックフィッシャー。
そのマークを見た瞬間、ポルポルの説明が頭の中で重なった。三大派閥。国を治める権利を争うグループ。その末端にいるローランカーでさえ、目の前に立つだけで空気が変わる。
「新人か」
ノーマントが口を開いた。声は低く、軽い笑いを含んでいる。見下しているというより、退屈しのぎを見つけたような響きだった。
「ランキング外からの挑戦なんて久しぶりだな。悪いが、こっちもボーナスが欲しいんでね」
大河は返事をしなかった。言い返す言葉を探すより、相手の立ち方を見る方が大事だった。足幅、腕の位置、視線の置き方。ノーマントの目は大河の顔ではなく、肩と腰を見ている。こちらの動き出しを読むつもりなのだろう。
審判が二人の中央に立った。
「格闘バトル素手限定。魔法、スキル、武器の使用は禁止。降参、戦闘不能、または審判判断により決着とする」
砂の上に立つ足裏が、じんわりと熱を持つ。大河は軽く拳を握った。昨日の模擬ゴーレムとは違う。目の前の相手は呼吸をしている。こちらを見て、考え、騙し、壊しに来る。胸の奥で心臓が強く鳴った。
ポルポルはリング外で両前足を握りしめていた。大きな瞳が大河を見つめている。
「始め」
審判の声が落ちた瞬間、ノーマントの姿がぶれた。
速い。
大河は反射的に半歩下がった。目の前に拳が走り、風が頬を裂くように通り過ぎる。避けた。だが、避けただけだった。ノーマントは一発で終わらない。踏み込みの勢いを殺さず、次の拳を低い角度から差し込んでくる。大河は腕で弾き、横へ逃げる。砂が足元で跳ねた。
観客席から短い歓声が上がる。
大河は呼吸を整えようとした。距離を取れば見える。見えれば対応できる。そう思った瞬間、ノーマントが笑った。
「反応は悪くないな」
言葉の終わりと同時に、ノーマントの肩が動く。右か。大河はわずかに身体を傾けた。だが、それは誘いだった。実際に飛んできたのは左。低く、鋭く、腹を抉るような一撃だった。
「ぐっ」
空気が抜けた。腹の奥に鈍い衝撃が沈み込み、膝が一瞬だけ揺れる。大河は歯を食いしばり、後ろへ下がろうとした。だが、その一瞬の乱れをノーマントは逃さなかった。
右拳が頬を打った。視界が揺れる。次に胸元へ短い拳。さらに側頭部をかすめるような打撃。大河は腕を上げて守ろうとしたが、相手の連打は隙間を縫うように入ってくる。速いだけではない。こちらの防御が遅れる場所を、正確に叩いてくる。
砂が靴の下で滑った。身体の軸が崩れる。昨日の模擬戦なら、ここで踏み直せた。だが実戦の圧力は違う。観客の声、拳の痛み、息の詰まり、相手の視線。そのすべてが判断を削っていく。
大河は苦し紛れに拳を出した。だがノーマントは首を少し傾けただけでそれを避け、内側へ滑り込んできた。肩がぶつかる。次の瞬間、足元を払われた。
天地が傾いた。
背中が砂に叩きつけられ、肺から空気が漏れる。起き上がろうとしたが、ノーマントの膝がすぐ近くに落ち、拳が大河の顔の横の砂を叩いた。直撃ではない。だが、それ以上動けば次は当てるという意思がはっきり伝わってきた。
審判の声が響いた。
「そこまで。勝者、ノーマント・フロック」
闘技場のざわめきが、一瞬遅れて大河の耳に戻ってきた。拍手と歓声。誰かが「まあ、新人にしては動いたな」と笑っている声が聞こえた。大河は砂の上に仰向けになったまま、青く切り取られた空を見上げていた。腹が痛い。頬が熱い。口の中に鉄の味が広がっている。
負けた。
あまりに明確な敗北だった。
ノーマントが立ち上がり、軽く肩を回した。息はほとんど乱れていない。彼は大河を見下ろすと、少しだけ口元を緩めた。
「悪くはなかったぜ。だが、ローランカーは練習用の人形じゃない」
その言葉を残し、ノーマントはリングを降りていった。胸元のドクロマークが観客席の光を受け、一瞬だけ白く浮かび上がる。大河はそれを見送りながら、拳を握ろうとして、指先にうまく力が入らないことに気づいた。
ポルポルが飛んできた。大きな瞳に心配の色を浮かべ、砂まみれの大河の顔を覗き込む。
「大河さん、大丈夫なのです?」
「……負けたんだな」
大河がそう呟くと、ポルポルは一瞬だけ言葉を詰まらせた。慰めの言葉を探しているようだったが、すぐに首を横に振る。
「はい。負けたのです」
はっきり言われると、胸に刺さる。だが、その方がよかった。曖昧に誤魔化されるより、ずっといい。
係員に肩を貸され、医務室へ移動した。協会の医務室は白い石壁の小さな部屋で、薬草の匂いが濃く漂っていた。大河は椅子に座り、治療係に頬の傷と腹の打撲を確認される。大きな怪我ではないらしい。薬草を潰した湿布のようなものを貼られると、ひんやりとした感触が肌に広がった。
痛みが少し落ち着いた頃、ポルポルがカードに魔力を流した。空中に表示が浮かぶ。
格闘バトル素手限定、ランキング外。
ボーナスポイント、マイナス十。
その数字を見た瞬間、大河は口元を歪めた。ランキングポイントではない。大河はまだ格闘ランキングに入れていない。だから順位はない。ただ、敗北によるボーナスポイントのマイナスだけが残った。
「次の月に十万マール分のマイナスか」
声にすると、数字はさらに重くなった。十万マール。昨日までなら想像しにくい額だったが、今は違う。部屋代四万三千マール、食費、訓練費。生活の形を知った後では、十万という数字がどれほど大きいかよく分かる。
大河は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。勝つつもりでいた。少なくとも、対応はできると思っていた。だが現実は、最初のフェイントで崩された。相手の速さに目はついていった。途中までは避けられた。けれど、それだけでは足りなかった。実戦の間合い、圧力、騙し方。自分には足りないものが多すぎる。
「大河さん」
ポルポルの声が、すぐ近くで聞こえた。大河が視線を戻すと、彼女は不思議なくらい暗い顔をしていなかった。心配はしている。けれど、落ち込んでいる様子ではない。むしろ何かを確かめるように、大河の動きをじっと見ていた。
「なんだよ。思ったより弱かったか?」
「違うのです」
ポルポルはきっぱり言った。尻尾が小さく揺れる。
「思ったより、ずっと動けていたのです」
大河は眉をひそめた。敗北の痛みが残る身体では、その言葉を素直には受け取れなかった。
「あれで?」
「あれで、なのです。最初の二発、ちゃんと見えていました。昨日の模擬戦の時より、身体が反応していたのです。朝の訓練でもそうでした。大河さんの身体は、異世界の身体に少しずつ馴染んできているのです」
ポルポルはカードを操作し、別の表示を出した。五十メートル走ランキング。大河の名前の横に、新しい順位が浮かぶ。
八十六位。
十五ポイント。
大河は息を止めた。最初に走った時は七十八位で二十三ポイントだった。それが数日の間に八つ落ち、ポイントは十五まで下がっている。基礎体力部門の順位変動の怖さが、数字として目の前に突きつけられた。
「うわっ、こっちも落ちてるじゃん、最悪だ」
大河の声は掠れていた。ボーナスポイントはマイナス十。五十メートル走は十五ポイント。差し引けば、現時点で次の月に見込める金は五万マールほど。部屋代だけで四万三千マールが消える。残りは七千マール。食費を考えれば、とても余裕はない。
しかしポルポルは、そこで小さく首を横に振った。
「でも、今走ればもっと上を狙えるのです」
「今?」
「はいなのです。最初に五十メートルを走った時、大河さんはまだ異世界の身体に慣れていませんでした。力が上に逃げていました。接地もずれていました。でも今朝の動きは違ったのです。さっきの試合でも、負けはしましたが反応は良くなっていました」
ポルポルは大河の目の前まで飛んできた。紫色の毛並みが、医務室の窓から入る光を受けて柔らかく輝く。
「ポルポルは、手応えを感じているのです」
その言葉は、慰めではなかった。小さな相棒の瞳には、確信に近い光があった。大河は黙ってその瞳を見つめた。負けた痛みは消えない。腹の奥にはまだ重い痛みが残っている。頬も熱い。けれど、その痛みの隙間から、別の感覚が少しずつ顔を出していた。
最初の二発は見えた。
腹を打たれるまでは、確かに対応できていた。
そして、ノーマントの強さも分かった。自分に何が足りないのかも、少しだけ見えた。
「まだ一か月近くあるんだったな」
大河が呟くと、ポルポルは大きく頷いた。
「はいなのです。月末までにポイントを増やせばいいのです。今日の負けは痛いです。でも、終わりではないのです」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのです」
ポルポルはそこで少しだけ笑った。
「だから、やる価値があるのです」
大河は椅子の背から身体を起こした。腹が少し痛んだが、動けないほどではない。窓の外では、協会の中庭を行き交うランカーたちの姿が見えた。誰もがカードを持ち、数字を追い、勝つために動いている。この世界では、負けた者が立ち止まれば、数字は容赦なく下がっていく。だが、立ち上がれば取り返す機会もある。
大河はカードを手に取った。表示された十五ポイントと、ボーナスポイントマイナス十。その数字は惨めだった。けれど、ゼロではない。負けてもなお、まだ次の一歩を選ぶ余地は残っている。
「次は、もう一回走るか」
大河がそう言うと、ポルポルの耳がぴんと立った。
「五十メートル走、再挑戦なのです?」
「そうだな。負けっぱなしで終わるのは嫌だ。まずは、今の身体でどれだけ走れるか確かめる」
ポルポルは嬉しそうに空中で一回転した。医務室の白い壁に、紫色の毛並みが小さな影を作る。
「それがいいのです! 今の大河さんなら、きっと記録更新できるのです!」
「期待しすぎるなよ」
「期待はするのです。ポルポルはトレーナーなのです」
大河は小さく笑った。頬の傷が少し引きつったが、その痛みさえ今は悪くなかった。ノーマントに負けた悔しさは、胸の奥でまだ熱を持っている。だが、その熱はただ沈むためのものではない。次に進むための燃料にできる。
医務室を出ると、闘技場の方からまた歓声が聞こえてきた。誰かが勝ち、誰かが負けている。そのたびに順位が動き、金が動き、人生が動く。ランキング世界の鼓動は、敗者を待ってはくれない。
大河は痛む腹を押さえながら、協会の通路を歩き出した。隣ではポルポルが、いつものようにふわふわと飛んでいる。ただ、その瞳は朝よりも少しだけ強く輝いていた。
初めてのバトルは、敗北に終わった。
だが大河の中で、何かが確かに噛み合い始めていた。
第5話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河の初バトルは、悔しい敗北となりました。
模擬戦では掴めた手応えも、実戦では簡単には通用しません。
ローランカーの壁、そしてマイナスポイントの重さを、大河は身をもって知ることになりました。
ですが、負けたことで見えたものもあります。
次回、大河はもう一度、自分の原点である走りへ向き合います。
ここからの巻き返しを見守っていただけると嬉しいです。




