第6話 料理ランキング
第6話です。
初めてのバトルで敗北した大河は、傷を抱えたまま一日休むことになります。
そんな中で訪れた料理ランキングの会場で、大河は一人の少女と出会います。
朝、目を覚ました瞬間、大河は自分の身体がまだ昨日の闘技場に置き去りにされているような感覚を覚えた。
薄い窓硝子の向こうでは、すでに街が動き始めている。荷車の車輪が石畳を転がる音、遠くで水を汲む音、パンを焼く店から漂ってくる香ばしい匂い。それらはいつも通り穏やかな朝の気配を運んでくるのに、大河の身体だけがその流れから取り残されていた。寝台から起き上がろうとしただけで、腹の奥に鈍い痛みが走る。頬は熱を持ち、肩から腕にかけて重い筋肉痛がまとわりついていた。
昨日のノーマント・フロックとの試合が、夢ではなかったことを身体が証明している。砂の匂い、拳を受けた瞬間の衝撃、肺から空気が抜けた苦しさ。思い出すと、腹の奥が痛みとは別の熱を帯びた。
「……痛いな」
大河が小さく呟くと、枕元で丸くなっていたポルポルが耳をぴくりと動かした。ピンクに近い紫色の毛並みが朝日を受けて柔らかく光り、眠そうな瞳がゆっくりと開く。
「大河さん、起きたのです?」
「ああ。身体中が抗議してる」
軽く笑おうとしたが、頬の傷が引きつって顔が歪んだ。ポルポルはその様子を見て、慌てて空中へ浮かび上がった。小さな前足を胸の前で組むようにし、いつになく真剣な顔になる。
「今日はランキング参加はやめた方がいいのです」
「だろうな。走れる気がしない」
大河は寝台の端に腰を下ろした。床板に足をつけるだけで、腿の裏にじわりと痛みが広がる。昨日は気を張っていたから気づかなかったが、打撲だけでなく、全身の筋肉が普段とは違う疲れ方をしていた。実戦で動くというのは、練習とはまるで違う。攻撃を避け、受け、崩され、転がされる。そのたびに、普段使わない場所へ細かな負荷がかかっていたのだろう。
ポルポルは大河の前に浮かぶと、小さな身体を少しだけ震わせた。すると、彼女の毛並みの奥から淡い紫色の光が滲み出した。柔らかい光は朝の埃を照らしながら、大河の頬と腹のあたりへ降りてくる。
「回復魔法をかけるのです。ただし、ポルポルの魔法は初歩レベルなのです。痛みを少し和らげるくらいしかできないのです」
「それでも助かる」
光が肌に触れると、冷たい水に指を浸した時のような感覚が広がった。頬の熱がわずかに引き、腹の奥の重さも少しだけ軽くなる。劇的に治るわけではない。骨の奥に残った痛みや、筋肉の張りはまだそこにある。それでも、寝台から立ち上がって歩くくらいなら何とかなりそうだった。
ポルポルは魔法を終えると、ふうと小さく息を吐いた。大した魔法ではないと言いながらも、彼女なりに力を使ったらしい。額のあたりの毛が少し乱れている。
「ありがとう。普通に生活するくらいなら大丈夫そうだ」
「それならよかったのです。でも今日は無理は禁止なのです。戦うのも走るのも駄目なのです」
「分かってる。今日は休む」
大河がそう言うと、ポルポルは安心したように頷いた。その直後、彼女の腹が小さく鳴った。本人は一瞬だけ固まり、すぐに何事もなかったように目を逸らす。
「……朝ごはんは必要なのです」
大河は思わず笑った。頬が少し痛んだが、今度は構わなかった。
「そうだな。腹が減っては何とやら、だ」
「何とやらなのです!」
「意味分かってないだろ」
財布代わりのランカーカードを手に取り、大河は残高を確認した。ボーナスポイントのマイナス十、五十メートル走の順位低下、部屋代、食費。考え始めれば、数字は暗い顔をしてこちらを睨んでくる。けれど、身体を治すにも、次へ進むにも、まずは食べなければならない。空腹のまま計算しても、ろくな答えは出ない。
大河はポルポルを連れて通りへ出た。朝の街は昨日よりも鮮やかに見えた。青い果物を並べる露店、湯気を上げる粥の屋台、石窯から焼き上がったパンを取り出す職人。店先に置かれた鉄鍋からは、肉と野菜を煮込んだ匂いが広がっている。ポルポルは匂いの流れに合わせてふわふわと軌道を変え、まるで鼻先に見えない糸でも結ばれているようだった。
結局、二人が入ったのは協会近くの小さな食堂だった。木の扉を開けると、香草を混ぜたスープの匂いと、焼いた肉の香ばしい匂いが迎えてくれる。店内には朝食を取るランカーたちが数組いて、カードを覗き込みながら今日挑むランキングの話をしていた。誰もが数字を気にしている。誰もが勝ち方を探している。この街では、朝食の湯気の中にさえ順位の匂いが混ざっていた。
大河は肉入りの粥とパンを注文し、ポルポルは当然のように肉皿を追加した。運ばれてきた料理は温かく、素朴な塩気が疲れた身体に染みた。昨夜から残っていた痛みが完全に消えるわけではないが、熱いスープを飲み込むたび、腹の奥に力が戻ってくる。
ポルポルは自分の身体より大きいのではないかと思うほどの肉を、器用に小さな口で食べていた。尻尾が幸せそうに揺れている。
「お前、本当に食費がかかるな」
「サポートには栄養が必要なのです」
「説得力があるようで、ただ食べたいだけにも聞こえる」
「両方なのです」
悪びれずに答えるポルポルを見て、大河は肩の力を抜いた。昨日の敗北は重い。数字も厳しい。だが、こうして飯を食べ、相棒とくだらない会話をしていると、まだ終わっていないのだと思えた。負けた翌日の朝にも腹は減る。それは少し残酷で、同時に救いでもあった。
食事を終えた頃には、身体の痛みもいくらか和らいでいた。ランキングに挑む状態ではないが、歩き回るくらいなら問題ない。大河は協会へ向かうことにした。ポルポルは最初、休むと言ったのに協会へ行くのですかと頬を膨らませたが、大河が「見るだけだ」と言うと、すぐに納得したように頷いた。
「見るだけなら、料理ランキングがおすすめなのです」
「料理か」
大河は以前、魚料理の店で食べた味を思い出した。悪くはなかった。だが、地球の料理と比べると、どこか単調に感じたのも事実だ。もちろん自分が料理人というわけではない。だが、地球で当たり前だった味付けや調理法が、この世界では珍しい可能性がある。そこにランキングの隙間があるかもしれなかった。
協会の中は相変わらず賑やかだったが、料理ランキングの会場へ近づくにつれて、空気の質が変わった。剣や格闘の区画にあった汗と革の匂いではなく、香辛料、焼けた油、煮込まれた野菜、甘い果実の香りが複雑に混ざり合っている。扉の向こうからは、包丁がまな板を叩く軽快な音や、鍋の中で何かが沸き立つ音が聞こえてきた。
会場は広い厨房と審査場が一体になったような場所だった。中央には十台の調理台が並び、それぞれの前に挑戦者が立つ。奥には長い審査席があり、白い服を着た審査員たちが静かに準備を進めていた。観客席は闘技場ほど大きくないが、それでも多くの人が集まり、料理人たちの動きに視線を注いでいる。
ポルポルは大河の耳元で小さく説明した。
「料理ランキングは採点式なのです。基本は十組が同時に挑戦して、審査員が点数をつけるのです。味、見た目、調理工程、手際、斬新さ。部門によって細かい項目は違いますが、合計点で順位が決まるのです」
「記録じゃなくて点数か」
「はいなのです。たとえば今の十位が八十五点なら、新しく八十六点を取った人が十位に入るのです。元の十位は一つ下がります。同点なら順位タイになる場合もあるのです」
大河は頷きながら、並んだ調理台を見渡した。プロの料理人らしき者が多い。白い帽子を被った中年の男、腕まくりをして肉の塊を確認している大柄な女性、香辛料の瓶を何本も並べた細身の青年。誰もが慣れた手つきで道具を整え、火加減や食材の状態を確かめている。戦場は違うが、ここにも勝負の空気があった。
その中で、一人だけ明らかに異質な存在がいた。
十歳くらいの女の子だった。
背は調理台に届くか届かないかで、足元には木の踏み台が置かれている。髪は肩のあたりで切り揃えられ、少し大きすぎる料理服の袖を肘まで折っていた。周囲の大人たちに比べれば、あまりにも小さい。観客席の何人かも彼女に気づき、ひそひそと声を交わしている。
「子供……?」
大河は思わず呟いた。
女の子は周囲の視線に気づいているのかいないのか、じっと自分の調理台を見つめていた。そこに並んでいる食材は豪華ではない。小さな魚、根菜、少量の香草、薄い粉のようなもの。隣の料理人が高級そうな肉や色鮮やかな果実を並べているのに比べると、むしろ質素に見えた。
けれど、彼女の手が動き始めた瞬間、大河は目を奪われた。
包丁を握る小さな手は、幼さに似合わないほど迷いがなかった。魚の腹を開く動きは速く、骨に沿って刃を滑らせる角度も正確だった。踏み台の上でバランスを取りながら、彼女は必要な動きだけを選んでいる。隣の料理人のような派手さはない。だが、手元の静けさが妙に印象に残る。
「……うまいな」
大河が呟くと、ポルポルも黙って頷いた。いつもなら料理の匂いに目を輝かせる彼女が、この時だけは女の子の手元を真剣に見つめていた。
「アイという名前みたいなのです」
ポルポルがカードに表示された参加者一覧を見ながら言った。
「アイ……」
大河はその名前を心の中で繰り返した。アイは表情をほとんど変えない。魚を焼き、根菜を刻み、鍋に水を張る。その動きは年齢を考えれば驚くほど滑らかだったが、時折、火加減を確かめる時にほんの少し迷いが出る。香草を入れるタイミングでも、わずかに手が止まった。
才能はある。だが、経験が足りない。
大河は料理人ではない。それでも、競技をしていた人間として分かるものがあった。身体に染み込んだ動きと、判断に迷う瞬間の差。練習で磨いた技術と、実戦でしか埋まらない経験の溝。アイの調理には、まさにその両方が見えていた。
周囲の大人たちは余裕のある手つきで皿を仕上げていく。肉に艶のあるソースをかける者、果物を花の形に飾る者、香辛料を炎で炙って香りを立てる者。会場には次々と濃厚な匂いが広がり、観客席から小さな歓声が漏れた。
アイの料理は、それらに比べると地味だった。焼いた魚に、根菜の煮込み。皿の上の色も派手ではない。けれど湯気の立ち方は柔らかく、魚の皮はきれいに焼けていた。彼女は皿を審査台へ運ぶ時、ほんの一瞬だけ唇を結んだ。緊張しているのだろう。小さな指が皿の縁を強く掴んでいた。
審査が始まると、会場は静かになった。審査員たちは一皿ずつ料理を確認し、香りを嗅ぎ、口に運び、手元の板に点数を記していく。大河はその光景を見ながら、料理ランキングというものがただの食事ではないことを改めて感じた。味だけではない。見た目、工程、発想、手際。そのすべてが数字になり、順位になり、金になる。
やがて結果発表の時間になった。空中に十人の挑戦者の名前と点数が順に浮かび上がる。観客席がざわめく。高得点を取った料理人が拳を握り、点が伸びなかった者は肩を落とす。
アイの名前は、後半に表示された。
七十九点。
順位は上位ではない。だが、十歳ほどの子供がプロの料理人たちに混じって取る点数としては、明らかに異様だった。周囲の観客からも、感心と驚きが混じった声が上がる。
「子供で七十九点かよ」
「あの子、どこの店の子だ?」
「手際だけなら下手な大人より上だな」
そんな声が耳に届いた。だがアイは、褒め言葉に反応しなかった。点数を見ても喜ばず、悔しがりもせず、ただ小さく頷いた。そして使った道具を素早く片づけると、踏み台を抱えるようにして調理台から離れた。
大河はその背中を目で追った。小さな背中だった。大人たちの間をすり抜けるように歩く姿は、会場の熱気の中でひどく頼りなく見える。それなのに、歩く速度だけは迷いがなかった。誰かに話しかけられる前に、早く帰らなければならないとでもいうように。
「気になるのです?」
ポルポルが横から尋ねた。
大河はすぐに答えなかった。アイの姿は、会場の扉の向こうへ消えていく。事情は何も分からない。なぜ子供が料理ランキングに出ているのかも、誰のために料理をしているのかも、今の大河には知りようがない。
それでも、あの小さな手が包丁を握る姿が目に残っていた。周囲の大人たちに囲まれながら、踏み台の上で背伸びするように調理していた姿。点数を見ても笑わなかった横顔。まるで料理そのものより、その先にある何かを必死に掴もうとしているようだった。
「少しな」
大河はようやくそう答えた。
「子供なのに、ずいぶん真剣だった」
「この世界では、子供でもランキングに出ることはあるのです。けれど、あの子は少し違う気がするのです」
ポルポルも扉の方を見つめていた。食いしん坊の相棒にしては珍しく、料理そのものより料理人を気にしている顔だった。
大河はもう一度、審査席の方を見た。料理ランキングの掲示板では、点数と順位が淡く更新されている。戦うだけがランキングではない。走るだけが勝負ではない。料理も、技術も、知識も、すべてがこの世界では人生を動かす力になる。
昨日、拳で負けた。
今日は、料理の会場で小さな少女を見た。
どちらも同じランキングの世界の一部だった。強い者だけが上に行くわけではない。だが、何かを持っている者は、子供であってもこの場所へ立つ。立たざるを得ない事情があるのかもしれない。
大河はカードを握り直した。十五ポイントと、ボーナスポイントマイナス十。その数字はまだ重い。けれど、料理ランキングの熱気と、アイという少女の姿が、別の道もあるのだと教えてくれた気がした。
「ポルポル」
「はいなのです?」
「この世界、思ったより広いな」
ポルポルは少しだけ目を丸くした後、嬉しそうに尻尾を揺らした。
「はいなのです。ランキングは千以上あるのです。大河さんがまだ知らない勝ち方も、きっとたくさんあるのです」
会場の奥では、次の十人の挑戦者たちが調理台へ向かっていた。火が入り、鍋が鳴り、包丁の音がまたリズムを刻み始める。香辛料の匂いが新しく立ち上り、観客席の空気がゆっくり熱を取り戻していく。
大河はその音を聞きながら、アイが消えていった扉をもう一度だけ見た。
自分はまだ、あの少女の名前しか知らない。
けれどその名前は、不思議と胸の奥に残った。
第6話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、バトルの後の小休止となる回でした。
大河はまだポイント的にも生活的にも苦しい状況ですが、料理ランキングの会場で、アイという少女の存在を知ります。
走ること、戦うことだけがランキングではない。
この世界には、まだ大河の知らない勝ち方がたくさんあります。
アイが今後どのように関わってくるのか、続きを楽しみにしていただけると嬉しいです。




