第49話 五日間の基礎
第49話です。
剣術修行を始めた大河ですが、キルギスの授業はかなり独特です。
振り下ろし、足運び、重心、踏み込み。
一日ごとに一つだけ教えて、あとはほとんど放置。
本当にこれで剣術が身につくのか、大河たちも疑いながら練習を続けます。
そして今回は、タイラ、ユニオン、ベイとの距離も少しずつ縮まっていきます。
素手格闘ではハイランカーの大河も、剣術では三人に教えてもらう側。
そんな新しい関係も楽しんでもらえたら嬉しいです。
翌朝、大河が剣術訓練場へ入ると、昨日と同じ乾いた木の匂いが鼻をくすぐった。高い窓から斜めに差し込む朝日が床板に細長い光を作り、その中を生徒たちが歩くたび、わずかに舞い上がった埃が金色にきらめいている。壁際には練習用の木剣が整然と並び、すでに来ていた生徒たちは思い思いに一本を選んでいた。
大河も昨日使ったものと同じ長さの木剣を手に取る。掌に伝わってくる硬さも、先端へ引かれるような重さも、まだ自分の身体の一部とは思えない。
「おはようなのです!」
ポルポルが元気よく声を響かせると、少し離れたところにいたベイが手を上げた。
「おっ、ポルポル。今日も来たのか」
「大河さんの修行を見守るのは大切なお仕事なのです」
「昨日は途中から寝てただろ」
「目を閉じて集中していたのです」
「それを寝てるって言うんだよ」
ベイが笑う横では、ユニオンが木剣を握り、ゆっくりと素振りを繰り返していた。タイラはその向かいで足の位置を確かめており、昨日とは違って三人とも訓練場へ入った時点から自然に身体を動かしている。
大河はその様子を眺めながら、自分の木剣を両手で握った。
昨日、キルギスに教えられたことを思い出して構えてみる。しかし、これで正しいのかという感覚がまるでない。拳なら足の位置を数センチ変えただけでも動きやすさの違いが分かるのに、剣を持つと身体の先にもう一つ関節が増えたようで、どこを基準にすればいいのかさえ曖昧だった。
「大河、右手強すぎ」
横を通ったタイラが、大河の手元を指した。
「またか?」
「昨日も先生に言われてただろ」
大河が右手の指を緩めると、今度は剣先がわずかに下がった。
「こうか?」
「いや、今度は緩すぎ」
「難しいな……」
「ハイランカーにも分からないことがあるんだな」
タイラはどこか嬉しそうに笑うと、自分の場所へ戻っていった。
その直後、入口から大きなあくびが聞こえた。
「朝から元気だな、お前ら」
キルギスだった。
今日も髪は適当に後ろへ流しただけで、学院教師とは思えないほど気の抜けた顔をしている。片手で首筋を掻きながら訓練場の中央まで来ると、壁から木剣を一本取った。
「集まれ」
生徒たちが半円を作る。
キルギスは木剣を身体の正面へ構えた。
「今日はこれだ」
それだけ言うと、ゆっくりと剣を頭上へ持ち上げた。
足は動かさない。
剣先を後ろへ倒しすぎず、両腕も伸ばし切らない。そのまま真っすぐ振り下ろし、胸の前で止める。
昨日も見た基本の振り下ろしだった。
キルギスはもう一度やった。
そして三度目。
「これを繰り返せ」
木剣を壁へ戻す。
大河は思わず口を開いた。
「あの、先生」
「あ?」
「今日はこれだけですか?」
「そうだ」
「何回くらい?」
キルギスは少し考えるように天井を見た。
「数えられるうちは足りねぇな」
「え?」
「じゃあな」
片手を上げ、そのまま出口へ向かって歩き出す。
「先生!」
タイラが呼び止めた。
「どこ行くんですか?」
「用事」
「授業は?」
「今教えただろ」
「一分も経ってませんけど!」
「長くしゃべったら剣が上手くなるのか?」
タイラが言葉に詰まる。
キルギスは満足そうに頷き、そのまま訓練場を出ていった。
扉が閉まる音が妙に大きく響く。
残された生徒たちは、しばらく誰も動かなかった。
「……いなくなったのです」
ポルポルがぽつりと言った。
「本当に帰ったな」
大河も扉を見つめる。
初めて剣術を習う自分にとっては、分からないことだらけだった。剣を上げる高さはどこまでなのか。肘はどれくらい曲げるのか。振り下ろす時に腰はどう使うのか。それ以前に、握り方すら昨日注意されたばかりだ。
「いつもあんな感じなのか?」
大河がタイラへ尋ねると、タイラは呆れたように肩をすくめた。
「ここまでひどくはないけど……先生、説明少ないんだよ」
「『やれば分かる』が多いよな」
ベイが木剣を肩へ乗せる。
ユニオンだけはすでにキルギスが見せた動作を始めていた。
「でも、やれって言われたんだからやるしかないだろ」
大河も木剣を構えた。
見よう見まねで頭上へ上げる。
「そこ違う」
タイラの声が飛んできた。
「もう?」
「剣先が後ろに倒れすぎ。そこから振ったら大きくなりすぎる」
タイラが自分の木剣を上げて見せる。
「このくらい」
「なるほど」
真似してみる。
「右手」
「強い?」
「強い」
「分かった」
もう一度。
今度はユニオンが横から声をかけた。
「肩にも力入ってるよ」
「肩も?」
「腕だけで振ろうとしてるからだと思う」
「昨日から全部言われてるな、俺」
大河が苦笑すると、ベイが楽しそうに近づいてきた。
「俺たちの方が先輩だからな」
「頼りにしてるよ、先輩」
「お、おう」
素直に言われるとは思っていなかったのか、ベイは鼻の下を指で擦りながらタイラの方を見た。
「聞いたか? ハイランカーに先輩って言われたぞ」
「調子に乗るなよ」
「ポルポルも先輩なのです?」
「お前は何も習ってないだろ」
木剣が空気を切る音が、少しずつ訓練場へ満ちていった。
大河は何度も同じ動きを繰り返した。
上げる。振り下ろす。止める。
最初のうちは一回ごとにタイラたちから何かしら指摘された。握りが強い。肩が上がっている。剣先がぶれる。身体が前へ流れている。
そのたびに直し、また振る。
「百九十八、百九十九、二百なのです!」
途中からポルポルが回数を数え始めた。
「二百一、二百二……二百五十七」
「飛んだぞ」
「気のせいなのです」
「五十回くらい飛んだだろ」
「細かいことを気にしたら強くなれないのですよ」
「お前が言うな」
笑いながらも、大河の腕は止まらなかった。
やがて窓から差し込む光の角度が変わり、額から落ちた汗が床へ小さな染みを作る頃には、最初ほど剣先が暴れなくなっていた。
翌日、キルギスが見せたのは剣ではなく足の動きだった。
「今日はこれ」
左足を前へ出し、右足を追わせる。後ろへ戻り、また前へ。
「剣は?」
タイラが聞く。
「持たなくていい」
「これだけ?」
「これだけ」
そして、やはりキルギスは消えた。
「またなのです……」
ポルポルが扉を見送りながら首を傾げる。
大河たちは木剣さえ持たず、ひたすら床の上を前後に動いた。
初日はまだ剣を振っていた。二日目は歩くだけ。
大河も途中から、本当にこれで剣術が上達するのだろうかと思い始めた。
それでも足を止めなかった。
ワイナとの修行でも、意味が分からないことは何度もあった。分からないなら、まずやってみる。そのあとで身体が答えを教えてくれることもある。
三日目。
「今日は重心だ」
キルギスは腰を落とし、身体の軸を崩さず左右へ重心を移す動きを見せた。
「以上」
「早いのです!」
ポルポルが叫んだ時には、もう背中を向けている。
四日目は、踏み込み。
前足が床へ触れる瞬間に身体を前へ運ぶ。勢いだけで突っ込めば上体が流れ、止まろうとすれば腰が残る。
「タイラ、速すぎる」
「分かってる」
「ベイ、身体が前に倒れてる」
「ユニオンは?」
「たぶん一番まとも」
「なんだよそれ」
三人のやり取りを横で聞きながら、大河も何度も床を蹴った。
少しずつ会話も増えていた。
休憩になれば四人で壁際へ座り、ポルポルが誰かの水を欲しがる。ベイが菓子を持ってくれば真っ先に奪われ、タイラが大河の素手格闘について質問することもあった。
「サムパレスって、やっぱり強かった?」
「強かったよ」
「九十五位だもんな」
「俺も何度も危なかった」
「それでも勝ったんだろ?」
タイラは自分の木剣へ視線を落とした。
「俺も早くランキング戦に出たい」
その声には、いつもの張り合うような響きがなかった。
大河は何かを言おうとして、やめた。
代わりに木剣を拾い上げる。
「じゃあ、もう少しやろうか」
タイラが顔を上げる。
「望むところだ」
「ポルポルは休憩を続けるのです」
「お前も少し動け」
「応援で疲れたのですよ」
五日目の朝。
キルギスはいつもと同じように訓練場へ現れた。
だが、その日は新しい動きを見せなかった。
「初日にやったこと、覚えてるか?」
「振り下ろしですよね」
ユニオンが答える。
「二日目は?」
「足運び」
「三日目は重心。四日目は踏み込み」
タイラが続ける。
キルギスは小さく頷いた。
「今日は全部やれ」
それだけだった。
大河は木剣を握った。
構える。
五日前なら、ここで右手に力が入っていた。
今は指先をわずかに緩める。
足を置く。
何百回と繰り返した位置へ、考えるより先に足が収まった。
腰を落とし、身体の中心を感じる。
前へ。
左足が床を捉えた瞬間、腰が動く。
その動きに肩がつながり、最後に腕がついてくる。
木剣を振り下ろした。
ヒュッ。
短く鋭い音が耳の横を抜けた。
大河は動きを止めた。
「……あれ?」
自分の木剣を見る。
昨日までとは違った。
力を入れた感覚はむしろ少ない。それなのに剣先は今までより速く、真っすぐ落ちた。
「もう一回」
誰に言われたわけでもなく、大河は構え直した。
足。
重心。
踏み込み。
腰。
剣。
再び、鋭い風切り音が響いた。
「大河、今の……」
タイラも振る。
ユニオン、ベイも続く。
訓練場のあちこちから、それまでとは違う音が聞こえ始めた。
大河は木剣を下ろし、数日間を思い返した。
初日の振り下ろし。二日目の足運び。三日目の重心。四日目の踏み込み。
別々の練習だと思っていた。
違った。
「全部、一つの動きだったのか……」
呟いた声を、少し離れたところにいたキルギスが聞いていた。
大河が顔を向ける。
キルギスはいつもの眠そうな目でこちらを見ただけだった。
「先生、最初からこれを?」
「さあな」
あっさりと背を向ける。
「今日は終わりだ」
「え、もう?」
ベイが窓を見る。まだ昼にもなっていない。
「明日と明後日は学院も休みだ。各自で好きにしろ」
「復習は?」
タイラが尋ねる。
「したけりゃしろ」
「しなくてもいいんですか?」
「お前の剣だろ。俺に聞くな」
キルギスは壁際へ置いていた上着を肩へ引っかけた。
大河はその背中を見つめる。
五日間、キルギスが訓練場にいた時間を全部合わせても、それほど長くない。ほとんど何も教えてもらっていないようにさえ感じる。
けれど、五日前とは木剣の音が違う。
タイラたちも同じだった。
「先生」
ユニオンが呼び止めた。
「俺たちがちゃんと練習してたか、ほとんど見てませんよね?」
キルギスの足が止まった。
「見なくていい」
「でも……」
振り返ったキルギスの口元には、わずかな笑みがあった。
「来週は実戦だ」
訓練場の空気が一瞬止まる。
タイラの目が輝き、ベイが思わず木剣を握り直した。ユニオンも表情を引き締める。
大河だけは、手の中に残る木剣の感触を確かめていた。
「ちゃんとやったかどうかなんて、剣を合わせりゃ分かる」
それだけ言い残し、キルギスは訓練場を出ていった。
扉が閉まる。
数秒の沈黙のあと、ポルポルが大河の肩へ降りてきた。
「大河さん」
「ん?」
「来週、戦うのです?」
「みたいだな」
「大丈夫なのです?」
大河は答えず、木剣を構え直した。
五日間で覚えた動きを、一つずつ身体の中でつなげていく。
前へ踏み込む。
腰が回る。
木剣が空気を切り、乾いた音が訓練場に残った。
まだ剣術を始めて六日。
自分がどこまでできるのか、大河自身にも分からない。
ただ、来週になれば嫌でも分かる。
大河はもう一度木剣を持ち上げた。
「休みの二日も、少しやっておくか」
「じゃあ俺もやる」
タイラがすぐに隣へ並ぶ。
「俺も」
ユニオンが木剣を拾い、ベイも慌ててその横へ走った。
「お前らがやるなら俺もやるよ」
「ポルポルは?」
大河が尋ねると、ポルポルは少し考え、訓練場の隅へ飛んでいった。
「みんなの回数を数えるのです!」
「それ、一番信用できないやつだろ」
笑い声のあと、四本の木剣が再び持ち上がった。
来週の実戦がどんなものになるのか、まだ誰も知らなかった。
第49話 後書き
第49話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はキルギス流の剣術修行でした。
一日目は振り下ろし。
二日目は足運び。
三日目は重心。
四日目は踏み込み。
一つずつでは地味に見えた練習が、最後に全部つながり、一つの剣の動きになる。
大河もようやく、キルギスが何を教えようとしていたのか少し理解できました。
そしてタイラ、ユニオン、ベイとも、ただ同じ授業を受けるだけではなく、教え合い、一緒に練習する仲間になりつつあります。
ほとんど授業にいないキルギスですが、ちゃんと考えているのか、単に自由すぎるだけなのか……そのあたりも今後少しずつ見えてくると思います。
剣術を始めてまだ六日ほどの大河が、実際に剣を合わせた時どこまで通用するのか。
次回もよろしくお願いします。




