第47話 一千万マールのその先へ
第47話です。
サムパレスとの激戦を制し、ついに素手格闘ランキング九十五位。
大河はハイランカーへ昇格しました。
総合ポイントも千を超え、異世界へ来たばかりの頃から考えると、大きく前へ進んだことになります。
今回はそんな昇格のお祝いとともに、一か月にわたって大河を鍛えてきたワイナとの修行にも、一つの区切りが訪れます。
素手格闘でハイランカーまでたどり着いた大河が、次に選ぶ道は何なのか。
新しい一歩の始まりです。
ランキング戦を終えた大河たちが転移魔法で協会へ戻ると、窓の外では午後の陽射しが石造りの街並みを白く照らしていた。
試合前には冷たく感じられた広間の床も、今は行き交う人々の靴音と体温を吸い込み、わずかにぬくもりを帯びている。受付の前には次の試合を待つランカーたちが集まり、空中に映し出された順位表を見上げながら、低い声で言葉を交わしていた。
大河は右肘を軽く曲げ伸ばししながら、更新窓口の前に立っていた。エリカの回復魔法によって痛みはほとんど引いているものの、床へ叩きつけられた背中や蹴られた太腿には、まだ重い疲労が残っている。身体を動かすたび、サムパレスの拳や投げの感触が皮膚の内側から蘇った。
勝ったという実感よりも、よく最後まで立っていられたという感覚の方が強かった。
「望月大河選手、更新が完了しました」
窓口の女性職員が差し出したランカーカードには、見慣れない数字が淡い光をまとって浮かんでいた。
素手格闘部門、九十五位。
その下には、ハイランカーの文字が刻まれている。
大河がカードを受け取ろうとすると、横から小さな両手が伸び、職員との間へ割り込んだ。
「ポルポルが確認するのです!」
「俺のカードなんだけどな」
「大事な数字は二人で確認するのですよ」
ポルポルはカードを両腕で抱えると、ふわりと空中へ浮かび上がった。丸い目を細め、表面に並んだ数字を上から順番に追っていく。
「五十メートル走は一位で、百ポイントなのです」
「そうだね」
「素手格闘は九十五位で……九百六ポイントなのです」
そこまで読み上げたポルポルは、空中で動きを止めた。
小さな羽だけが一定の速さで動き続け、ふわふわした身体を同じ高さに保っている。視線はカードへ向いたまま、口がゆっくり開いていった。
「百と、九百六を足すと……」
「千六だな」
大河が何気なく答えると、ポルポルは勢いよく顔を上げた。
「千六ポイントなのです!」
甲高い声が広間の天井へ突き抜けた。
近くにいたランカーたちが一斉に振り返る。受付係も驚いて肩を揺らしたが、ポルポルは周囲の視線など気にする様子もなく、カードを頭上へ掲げた。
「一ポイントは一万マールだから、月末には一千六万マールなのですよ!」
「まだ月末じゃないぞ」
「でも入るのです!」
「予定ではな」
「入ると決まっているなら、もう入ったのと同じなのです!」
「同じではないだろ」
大河がカードを取り返そうと手を伸ばすと、ポルポルは届かない高さまで逃げた。紫がかったピンク色の毛並みを陽気に揺らしながら、広間の上を小さく旋回する。
「大河さんは大金持ちなのです! 一千万マールを超えたのです!」
「超えるのは月末だって言ってるだろ」
「お祝いにお肉を百本食べるのです!」
「俺の金の祝い方がお前の食事なのか?」
ポルポルの声に混じり、近くで忍び笑いが漏れた。大河が恥ずかしさに額を押さえていると、エリカが杖へ手を重ねながら、楽しそうに目を細めた。
「よいではないか。大河くんが頑張って得たものじゃ。今くらい騒いでも罰は当たらぬ」
「エリカさんまで煽らないでください」
「わしも嬉しいのじゃ。これで大河くんとの新婚生活にも困らぬからの」
「まだ結婚してません」
「一千万マールあれば、式も盛大にできるぞい」
「使い道を勝手に決めないでください」
エリカは冗談めかして笑っていたが、その瞳は大河のカードへ向いたまま柔らかく細められていた。大河が異世界へ来たばかりの頃、宿代すら気にしていたことを知っているからこそ、この数字の重さを誰より理解しているのかもしれない。
少し離れた場所で腕を組んでいたワイナが、軽く息を吐いた。
「もう、三人とも。協会の中でそんなに騒いだら、月末になる前にお金持ちとして有名になっちゃうわよ」
「有名になれば、ポルポルのグッズも売れるのです!」
「またその話か」
大河がようやくカードを取り戻すと、表面には合計ポイントがはっきりと表示されていた。
千六ポイント。
王の五千九百五十七ポイントには、まだ遥かに届かない。けれど、異世界へ来たばかりの頃には想像もできなかった数字だった。
最初に五十メートルを走った日、得られた二十三ポイントを見て、ゼロではなくなったことだけで胸が熱くなった。それから走り直し、学院へ入り、何度も床へ倒され、ようやく素手格闘で百位以内へ入った。
カードへ刻まれた数字は、ただの順位や金額ではない。ここまで歩いてきた時間そのものが、小さな光となって表面へ残っているように見えた。
「望月くん」
ワイナの声に、大河は顔を上げた。
「その顔なら、少しくらいお祝いしてもよさそうね」
唇の端を持ち上げるワイナへ、大河も小さく笑い返した。
「みんなのおかげですから。今日は俺がご馳走します」
ポルポルが再び歓声を上げる前に、大河はすぐ付け加えた。
「ただし、まだ一千六万マールは入ってないから、常識の範囲でな」
「百本ではなく、五十本にするのです」
「常識の範囲を知らないのか?」
夕暮れ前、大河たちはダッカスの店を訪れた。
石畳の通りには仕事を終えた人々が増え始め、店先へ吊るされた明かりが、一つ、また一つと灯っている。焼いた肉や煮込み料理の匂いが風に乗り、昼間とは違う柔らかなざわめきが街全体を包んでいた。
ダッカスの店の前には、開店を待つ客がすでに数組並んでいた。扉の向こうからは食器を並べる音が聞こえ、磨かれた窓硝子には薄い橙色の空が映り込んでいる。
「予約もしていないのに入れるのかしら」
ワイナが列を眺めて眉を上げると、エリカは自信満々に胸を張った。
「わしが一緒なら問題ないぞい」
「それ、ただの顔パスじゃない」
「長く生きておれば、顔も広くなるものじゃ」
エリカが扉を開けると、料理の香りと温かな空気が一度に流れ出してきた。
店内では白い衣服を着た料理人たちが忙しく行き交い、客席には真新しい布が敷かれている。奥から現れたダッカスは、白髪をきれいに整え、相変わらず一点の汚れもないコック服を身につけていた。
大河たちの顔を見ると、落ち着いた目をわずかに細める。
「今日はずいぶん賑やかな客が来たな」
「ハイランカー様のお出ましなのです!」
ポルポルが大河より先に宣言すると、ダッカスの視線が大河へ移った。
「聞いたぞ。九十五位になったそうだな」
「噂が早いですね」
「この街でランキングの話が広がる速さを甘く見るな。特に、四百位台から一気に百位以内へ入ったとなれば、料理の焦げた匂いより早く広まる」
ダッカスは大河の肩を軽く叩いた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
短い言葉だったが、重ねられた手のひらから、職人らしい硬さと温かさが伝わってきた。
「それと大河さんは、月末には一千六万マールのお金持ちになるのです!」
ポルポルが胸を張ると、ダッカスは片方の眉を上げた。
「未来の金で今日の代金を払うつもりか?」
「大河さんならツケもできるのです」
「できない」
ダッカスの即答に、ポルポルの耳がぺたりと下がった。
「まだ何も頼んでいないのですよ」
「頼む前に釘を刺しただけだ」
ワイナが口元を手で隠しながら笑い、エリカも肩を揺らす。大河はポルポルを抱えて用意された席へ向かった。
案内されたのは店の奥にある、少し広めの円卓だった。磨かれた木の表面にはランプの光が柔らかく揺れ、厨房からは肉を焼く音と、バターに似た香りが漂ってくる。
大河の右隣には、当然のようにエリカが腰を下ろした。反対側へポルポルが座ろうとしたが、椅子の高さが合わず、結局大河の肩へ戻ってくる。
「大河くんの隣はわしじゃ」
エリカが小さく宣言すると、向かいの席に座ったワイナが呆れたように頬杖をついた。
「誰も取り合っていないわよ」
「油断はできぬ。大河くんは優しいから、すぐに誰かに好かれてしまう」
「その理屈なら、本人を縛っておくしかないんじゃない?」
「それは名案じゃ」
「採用しないでください」
大河が口を挟むと、エリカは残念そうに唇を尖らせた。
やがて運ばれてきたのは、香草をまとわせて焼いた肉と、鮮やかな野菜を煮込んだスープだった。肉の表面には薄く焼き色がつき、ナイフを入れると中から透明な肉汁が溢れ出す。湯気とともに立ち上る香りへ、ポルポルの丸い目が吸い寄せられた。
「これを五十皿なのです」
「一皿食べてから言え」
ポルポルは返事をするより先に、小さな口で肉へかぶりついた。頬を膨らませ、羽を細かく震わせながら、声にならない喜びを全身で表している。
大河も肉を口へ運ぶと、柔らかな食感のあとから香草の爽やかな風味が広がった。試合後の空腹もあり、一口ごとに身体へ力が戻ってくるようだった。
「勝ったあとの料理は格別じゃろう?」
エリカが自分の皿から肉を一切れ、大河の皿へ移した。
「大河くんはたくさん食べて、早く身体を治すのじゃ」
「もう十分治してもらいましたよ」
「それとこれとは別じゃ。もっと身体が大きくなれば、わしを軽々と抱き上げられるからの」
「抱き上げる予定はありません」
「まだ、じゃな」
隙を見つけては未来の話へ持っていくエリカに、大河は苦笑しながら肉を口へ運んだ。
食事が進み、最初の賑やかさが少し落ち着いた頃、ワイナがナイフとフォークを皿の上へ静かに置いた。
「望月くん」
それまでの柔らかな空気とは違う響きに、大河も手を止めた。
ワイナはランプの明かりを受けたグラスへ指を添えながら、しばらく大河の顔を見つめていた。
「素手格闘コースは、今日で修了よ」
ポルポルが咀嚼する音まで止まり、円卓の周囲に短い静けさが落ちた。
「修了……ですか」
「学院の専門コースは、ハイランカーへ到達した時点で一区切りなの。基礎技術も、上へ進むために必要な考え方も、学院が教えられるものは一通り身につけたと判断されるわ」
ワイナは指先でグラスをゆっくり回した。透明な飲み物の表面が揺れ、ランプの光を細かく砕いている。
「もちろん、あなたの素手格闘が完成したという意味じゃない。むしろ、ここからが本当の始まりよ」
大河は黙って耳を傾けた。
「百位以内には、それぞれ自分の戦い方を持っている者しか残れない。誰かに教えられた技をそのまま使うだけでは、いずれ通用しなくなるわ。相手を研究し、自分の身体を知り、勝ち方を自分で作っていく。その段階に入ったの」
「ワイナさんには、もう教えてもらえないんですか?」
口にした途端、自分でも少し子どもじみた質問だと思った。
けれど、一か月とはいえ、ワイナと二人で過ごした訓練場の時間は濃かった。毎日床へ転がされ、同じ動きを何度もやり直し、それでも見放されずに教えてもらった。その日々が突然終わるのだと思うと、胸の奥に小さな空白が生まれた。
ワイナはそんな大河の表情を見て、優しく目を細めた。
「分からないことがあれば、いつでも聞きに来なさい。試合を見てほしいなら見るし、組み手だってしてあげる。でも、毎日あたしの答えを待つのは今日で終わり」
「自分で答えを探せ、ということですね」
「そういうこと」
ワイナは頷き、口元にいつもの笑みを浮かべた。
「それに、同じハイランカー帯へ入った相手へ、いつまでも先生の顔をしているのも格好悪いでしょう?」
「ワイナさんは八十八位です。まだ俺より上ですよ」
「あら、七つしか違わないと思っているなら甘いわね。あたしも次の試合で上へ行くつもりよ」
「だったら、追いかけます」
「いい返事ね」
ワイナの笑みに、どこか挑戦的な色が混じった。教師としてではなく、同じランキングを登るランカーとして向けられた視線に、大河の背筋が自然と伸びる。
「それで、次はどうするつもり?」
問いかけられ、大河は皿の上へ目を落とした。
素手格闘ではハイランカーへ到達した。火魔法はある程度使えるようになり、休日には水魔法の修行も始まっている。
けれど、ハイランカー祭で見たカイザーとモレラは、剣を中心に魔法やスキルを組み合わせて戦っていた。
バトル総合部門。
武器も魔法もスキルも、使用できるものをすべて使って世界最強を決める場所。そこで一位になるためには、拳だけに頼るわけにはいかない。
「剣術を学びたいと思っています」
大河が顔を上げると、ワイナは予想していたように頷いた。
「そう言うと思ったわ。バトル総合で上を目指すなら、剣と魔法は避けて通れないもの」
厨房から戻ってきたダッカスが、空いた皿を下げながら会話を聞きつけたらしい。
「今度は剣か。忙しい男だな」
「王になるまで一年しかありませんから」
「焦って指を落とすなよ。包丁も剣も、持ち方を間違えれば自分を傷つける」
料理人らしい言葉に、大河は真面目に頷いた。
「剣術なら初級クラスからね」
ワイナの言葉に、ポルポルが肉から顔を上げた。
「大河さんはハイランカーなのに、初級なのです?」
「素手格闘ではね。剣術ではランキング圏外どころか、まともに習った経験もないでしょう?」
「はい」
「それなら初心者よ。変な見栄を張らず、一番下から学びなさい」
大河に異論はなかった。
素手格闘の経験があっても、剣の扱いまで自然に分かるわけではない。むしろ身体能力に頼って自己流で振り回せば、変な癖がつく可能性もある。
「大河くんなら、剣を持っても格好よいに決まっておる」
エリカが頬を染め、すでに何かを想像するように遠くへ目を向けた。
「赤い竜のマントを翻しながら剣を振る大河くん……うむ、最高じゃ」
「授業でマントは着ませんよ」
「では、わしが見学に行く」
「剣術の授業ですよ」
「大河くんを見るのに授業の内容は関係ないぞい」
ワイナが深いため息をつき、ポルポルは何度も頷いた。
「ポルポルも見に行くのです。大河さんが剣を落としたら拾うのですよ」
「落とす前提にするな」
円卓へ笑い声が広がり、先ほどまでの静かな余韻が、再び温かな賑わいへ溶けていった。
翌朝、大河は学院の剣術訓練場に立っていた。
高い窓から差し込む朝日が、壁に並べられた木剣の表面を淡く照らしている。床には細長い傷が無数に走り、乾いた木と汗、手入れに使われた油の匂いが空気に混じっていた。
訓練場には十数人の生徒が集まっていた。まだ幼さの残る者もいれば、大河と同じくらいの年齢に見える者もいる。皆、手にした木剣を確かめたり、緊張した面持ちで教師の到着を待ったりしていた。
大河が入ってくると、近くにいた生徒たちの会話が小さくなる。
「望月大河じゃないか?」
「素手格闘でハイランカーになった人だろ」
「なんで初級クラスに?」
向けられる視線には好奇心と戸惑いが混じっていた。
大河は気づかないふりをして壁際へ進み、用意されていた木剣を一本手に取った。
思っていたより重い。
柄を握ると、硬い木の感触が掌へ食い込み、重さが先端へ偏っているのが分かる。拳とは違う。腕を伸ばせば届く距離も変わり、身体の中心から離れた場所に重さが生まれる。
試しに構えようとしたが、どこへ足を置き、どの高さへ剣先を向ければよいのかさえ分からなかった。
素手格闘九十五位。
ハイランカー。
その肩書きは、この場所では何の答えにもならない。
大河は木剣を両手で握り直し、胸の前へ静かに立てた。
やがて教官が訓練場へ入り、生徒たちへ整列を促す。大河も列の端へ並ぶと、周囲の視線を受けながら深く頭を下げた。
「望月大河です。剣術は初心者です」
顔を上げ、手の中の木剣へ一度だけ目を落とす。
「今日から、よろしくお願いします」
新しい扉の向こう側には、まだ知らない技術と、まだ出会っていない強者たちが待っている。
大河は木剣の重さを掌で確かめながら、教官の最初の言葉を待った。
第47話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河はついに素手格闘ランキング九十五位。
五十メートル走と合わせて総合千六ポイントとなり、月末のランキング報酬も一千万マールを超えるところまで来ました。
最初は宿代さえ気にしていたことを考えると、かなり遠くまで来たなと思います。
そして今回は、ワイナとの素手格闘修行にも一区切りです。
もちろん、素手格闘が完成したわけではありません。
むしろワイナの言葉どおり、百位以内からは「教わった技を使う」だけではなく、自分自身の戦い方を作っていく段階になります。
先生だったワイナが、ここからは同じハイランカーとして追いかける相手になっていくのも、大河にとって大きな変化です。
そして次に選んだのは剣術。
素手格闘ではハイランカーでも、剣を握れば完全な初心者です。
また一番下からのスタートになります。
大河が剣術でどんな戦い方を身につけていくのか。
次回から、新しい修行が始まります。




