第46話 ハイランカーへの挑戦
第46話です。
ハイランカー祭で、世界の頂点に立つロベルト・カイザーの戦いを目にした大河。
その数日後、今度は自分自身が次の階級へ挑みます。
相手は素手格闘ランキング九十五位、ハイランカーのサムパレス。
これまでより明確に格上の相手を前に、大河は何度も投げられ、関節技まで極められます。
それでも、この一か月ワイナから叩き込まれてきた技術は、確かに大河の中へ残っていました。
力で勝つのではなく、相手の力を利用する。
その成果を試す、ハイランカー昇格戦です。
ハイランカー祭から数日後の朝、大河はランキング協会の正面広場に立っていた。
祭りの日には屋台と人波で埋め尽くされていた石畳も、今は普段の落ち着きを取り戻している。朝の冷たい風が建物の間を抜け、協会の高い壁に掲げられた旗をゆっくり揺らしていた。開け放たれた正面扉からは、受付係の呼び声や靴音が絶え間なく流れ出し、今日も多くのランカーが新たな順位を求めて行き交っている。
大河は扉の上に刻まれた協会の紋章を見上げた。
脳裏に浮かぶのは、ロベルト・カイザーとモレラの戦いだった。四属性の魔法や、空を埋め尽くした光の剣も強く印象に残っている。けれど今、大河の胸の奥で繰り返されているのは、最後の攻防だった。
相手の攻撃を力で押し返さず、流れを見極める。わずかに立つ位置を変え、重心を崩し、勝負を決める。
あの技術なら、この一か月、大河もワイナから何度となく身体へ叩き込まれてきた。
「大河さん、固まっているのです」
頬の横へ飛んできたポルポルが、丸い目で大河の顔を覗き込んだ。朝食を済ませたばかりだというのに、短い腕には紙袋が抱えられている。中から甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
「少し緊張してるだけだよ」
「笑うと緊張が逃げるのですよ」
「試合前から笑っていたら、相手に変な奴だと思われるだろ」
「カイザーさんは笑っていたのです」
「王と一緒にするな」
大河が口元を緩めると、ポルポルは自分の助言が効いたと言わんばかりに胸を張った。
少し後ろでは、エリカが赤い竜のマントを朝風に揺らしながら、心配そうに大河の背中を見つめていた。白い指が杖の柄を何度も撫でている。大河が振り返ると、エリカは慌てて表情を整えたものの、視線だけは大河の腕や足元を落ち着きなく往復していた。
「大河くん、本当に今日でよいのかえ?」
「申請した時から、今日のつもりでしたよ」
「それはそうじゃが……相手はハイランカーなのであろう? 痛い思いをするかもしれぬぞ」
「素手格闘ですから、多少は覚悟しています」
大河が軽く笑うと、エリカは唇を尖らせた。
「大河くんはすぐにそうやって無茶をする。顔に傷でもついたらどうするのじゃ」
「顔だけの心配ですか?」
「身体もじゃ! 全部大事に決まっておろう。大河くんは将来、わしの夫になるかもしれぬのだからな」
「まだその予定はありません」
「今は、じゃろう?」
エリカの瞳が期待を帯びて輝く。大河が返事に困っていると、隣に立っていたワイナが片手を頬へ添え、やれやれと首を傾けた。
「試合前に結婚話で追い詰めないの。望月くんが戦う前から疲れちゃうでしょう?」
淡い紫色の上着を着たワイナは、細身ではあるが、立っているだけで周囲と異なる空気をまとっていた。男性らしい骨格を持ちながら、仕草や言葉遣いは柔らかい。形の整った眉の下で、大河を見る目だけが静かに研ぎ澄まされている。
「ワイナは気楽でよいのう。戦うのは大河くんなのじゃぞ」
「あたしだって心配してるわよ。でも、心配している顔を見せたって望月くんの足が軽くなるわけじゃないもの」
ワイナは大河へ視線を戻すと、人差し指を軽く立てた。
「今日、あなたがすることは一つだけ。覚えている?」
「相手を見ることです」
「そう。勝とうとして慌てない。ハイランカー祭で世界一の戦いを見たからといって、いきなりカイザーになろうとしないこと。あなたはあなたの戦いをしなさい」
「はい」
短く答えると、ワイナの口元に小さな笑みが浮かんだ。
四人は人の流れに混じり、ランキング協会の中へ入った。
数日前、大河はこの受付で、素手格闘部門のハイランカー帯への挑戦を申請している。挑戦者が個人を指名することはできない。対象となるランク帯へ申請が送られ、その通知を見たランカーの中で、最初に承認した者が対戦相手となる。
返答は、申請を出してからそれほど時間を置かずに届いた。
対戦相手は、素手格闘部門九十五位のサムパレス。
二十歳ほどの若さでハイランカーへ上り詰めた、グループランキング七位グリーデン所属の実力者だった。
挑戦受付へ着くと、窓口の向こうにいた女性職員が大河のランカーカードを受け取った。細い確認具を表面へ触れさせると、淡い光とともに空中へ文字が浮かび上がる。
「望月大河選手ですね。素手格闘部門、ハイランカー帯への挑戦申請を確認いたしました」
職員は表示された内容へ目を走らせ、続けた。
「最初に申請を承認したのは、現在九十五位のサムパレス選手です。本日の第三闘技場、午前十一時より公式戦を行います」
大河は静かに頷いた。
「勝利した場合、望月選手が九十五位となり、素手格闘部門のハイランカーへ昇格します。敗北した場合、順位は変わりません。ボーナスポイントはマイナス10となり、月末の報酬が10万マール減額されます。」
「分かりました」
返されたカードを受け取ると、指先に硬い感触が伝わった。
九十五位。
数字としてはワイナの八十八位と七つしか違わない。だが、同じランク帯に入るためには、まず目の前の一勝を手にしなければならない。
「サムパレスさん、承認が速かったのです?」
大河の肩越しに受付を覗いていたポルポルが尋ねた。
職員は困ったように笑ったが、回答できない内容ではないらしく、空中の表示を確認した。
「申請通知が送られてから、ほとんど間を置かずに承認されていますね」
「大河さんと戦いたかったのです!」
「どうかしらね」
ワイナが細い顎へ指を添えた。
「四百位台のミドルランカーからの挑戦でしょう? 自分なら危険はないと思った可能性もあるわ」
「油断してるってことですか」
「少しはね。でも、油断している相手ほど、途中から本気になった時が怖いのよ」
大河はランカーカードを握り直した。
相手がどんな気持ちで承認したかは、舞台へ上がれば分かるだろう。
転移室へ入り、床に刻まれた魔法陣の中央へ立つ。ワイナ、エリカ、ポルポルが観戦用の転移陣へ移動すると、足元から白い光が立ち上がった。身体が一瞬だけ浮くような感覚のあと、鼻先を乾いた汗と革の匂いがかすめる。
第三闘技場は、ハイランカー祭の大闘技場と比べれば小さい。それでも円形の舞台を囲む観客席には、すでに数十人の姿があった。天井近くの窓から差し込む朝の光が、床へ残る無数の擦り傷を白く浮かび上がらせている。
舞台の反対側に、サムパレスが立っていた。
黒褐色の肌に、短く刈り込まれた黒髪。大河とさほど変わらない背丈だが、肩と胸板は厚く、袖のない訓練着から伸びる腕には硬く鍛えられた筋肉が浮かんでいる。若い顔立ちの中で、細められた目だけが大河を観察するように動いていた。
観客席の一角では、緑色の衣服をそろえた数人の男女が座っている。胸元にはグリーデンの紋章が見えた。
大河が舞台へ上がると、サムパレスは組んでいた腕をほどいた。
「君が望月大河か」
「はい。今日はよろしくお願いします」
頭を下げると、サムパレスは少し意外そうに眉を上げた。
「礼儀正しいんだな。四百位台からハイランカーへ挑むくらいだから、もっと勢い任せの男かと思っていたよ」
「勢いだけで勝てる相手ではないと思っています」
「分かっているなら結構だ」
サムパレスは肩を回しながら、口元へ若々しい笑みを浮かべた。見下した態度ではない。ただ、その表情にも立ち姿にも、負けるかもしれないという緊張は見えなかった。
「申請を見た時、ちょうど月の試合を済ませたいと思っていたんだ。ミドルランカーが相手なら、いい調整になると思ってね」
観客席のグリーデンの仲間から、小さな笑い声が漏れた。
大河は言い返さず、サムパレスの足元へ視線を落とした。
両足へ均等に体重が乗り、肩にも余計な力はない。言葉には余裕があるが、構えには隙が見えなかった。
「それでは、調整で終わらないようにします」
大河が顔を上げると、サムパレスの笑みがわずかに深くなった。
「そうこなくちゃ面白くない」
審判が中央へ進み、二人を開始位置まで下がらせる。
「素手格闘部門公式ランキング戦。ハイランカー帯への挑戦者、望月大河選手。対するは九十五位、サムパレス選手。打撃、投げ技、関節技、絞め技を認めます。降参、戦闘不能、または審判による続行不可能の判断で決着とします」
大河は左足を前へ出し、腰を落とした。
拳を顔の前へ上げる。乾いた空気が指の間を抜け、足裏には床の硬さと細かな凹凸が伝わってくる。呼吸を整えるほど、周囲の声が遠のいていった。
サムパレスは両腕を低く構え、顎をわずかに引いた。
その姿が、初めてワイナと向かい合った日の記憶と重なる。
審判の腕が上がった。
「始め!」
合図と同時に、大河は床を蹴った。
一気に間合いへ入り、左の拳を顔へ伸ばす。反応を見るための牽制だったが、サムパレスは上体を少し傾けるだけでかわし、大河の手首へ指を添えた。
その瞬間、腕が斜め下へ導かれる。
足を止めようとした時には、サムパレスの肩が胸元へ入り込んでいた。腰が浮き、視界が反転する。
大河は床へ落ちる直前に腕を広げ、背中全体で衝撃を逃がした。乾いた音が舞台へ響き、肺から短く息が漏れる。
「まず一回」
サムパレスは追撃せず、軽い足取りで距離を取った。
「立てるだろ?」
大河は床へ手をつき、呼吸を整えながら立ち上がった。背中には鈍い痛みが残っているが、受け身は取れている。
「大河くん!」
観客席からエリカの声が飛ぶ。
振り向かなくても、椅子から立ち上がっている姿が想像できた。
「大丈夫です!」
大河が声を返すと、エリカは胸元へ手を当てたまま、ゆっくり座り直した。
「ほら、大丈夫だって言ってるでしょう?」
隣からワイナの落ち着いた声が聞こえる。
「でも、痛そうではないか!」
「素手格闘で一度も倒れずに勝とうなんて甘いわよ。望月くんは受け身を取れている。今は見守りなさい」
「分かっておる……分かっておるが、心配なのじゃ」
エリカの声が小さくなった。
大河は再び構えた。
最初の投げは見えていた。腕を取られ、肩を入れられたところまで分かっていた。それでも、踏み込んだ勢いを止めきれなかった。
見えたからといって、対応できるとは限らない。
今度は歩幅を小さくし、重心を中央へ残したまま距離を詰める。
サムパレスは動かずに待っていた。大河が間合いの外で止まると、片方の眉がわずかに上がる。
「今度は慎重だな」
大河は返事をせず、左拳を小さく突き出した。
サムパレスが外側へ払う。大河は拳を途中で引き、右足を踏み込んで脇腹へ蹴りを放った。
しかし、サムパレスは肘と膝を寄せて受け止める。蹴りを戻すより早く、拳が大河の頬へ迫った。
首を振ると、拳が耳元をかすめる。次の一撃が腹へ突き刺さり、身体の奥から息が押し出された。
大河が後ろへ下がると、サムパレスは逃がさずに踏み込んでくる。
左右の拳が次々に飛び、腕で受けるたびに骨の奥へ鈍い振動が残った。防御の隙間へ低い蹴りが入り、太腿へ熱い痛みが走る。
「さっきの威勢はどうした!」
サムパレスの右拳が大河の防御を弾いた。
胸元へ肩からぶつかられ、身体が後方へ流れる。踏ん張ろうとした足を払われ、再び床へ倒された。
今度はサムパレスも一緒に倒れ込み、大河の右腕を両脚で挟んだ。
肘が伸び、関節へ鋭い圧力がかかる。
「大河さん!」
ポルポルの声が高い天井へ響いた。
痛みに任せて腕を引けば、さらに深く極められる。大河は歯を食いしばりながら、サムパレスの腰と足の位置を見た。
ワイナとの訓練で、何度も同じ形へ持ち込まれている。
腕を逃がすのではない。肩ごと圧力の方向へ動かす。
大河はサムパレスの身体へ向かって腰を回し、片膝を立てた。肘にかかっていた力がわずかに緩む。
サムパレスの目が細くなった。
「知っているのか」
大河は空いた手で相手の足首をつかみ、身体を前へ預けた。力で押すのではなく、サムパレスが腕を極めようとして後ろへ引く力へ重ねる。
二人の身体が横へ転がり、位置が入れ替わった。
大河は右腕を引き抜くと、すぐに立ち上がって距離を取った。
肘の奥には熱が残り、指先を握ると痛みが走る。それでも腕は動いた。
サムパレスも立ち上がった。先ほどまで口元へ浮かんでいた笑みが消えている。
「誰に教わった?」
大河は答える代わりに、観客席へ一瞬だけ視線を向けた。
サムパレスもその先を追う。淡い紫色の上着を着て座るワイナを見つけると、小さく鼻を鳴らした。
「八十八位のワイナか」
ワイナは席に座ったまま、指先を軽く振った。
「あら、気づいてくれたのね」
男らしい低さを残しながらも、柔らかく伸びる声が舞台へ届く。
「望月くんを軽く見ると、足元をすくわれるわよ」
サムパレスの眉がわずかに寄った。
「最初から、そのつもりだったのか?」
「あたしは何もしてないわ。挑戦を承認したのはあなたでしょう?」
ワイナは形の整った唇へ笑みを浮かべた。
「自分で選んだ相手なら、最後までしっかり味わいなさいな」
観客席から小さな笑いが広がる。
サムパレスは一度俯き、短く息を吐いた。その後、肩を回しながら大河へ向き直る。
「悪かった。四百位台だからと、少し軽く見ていた」
両拳が顔の前まで上がる。
足の開き方が変わり、重心がわずかに前へ移った。目の奥から余裕が消え、周囲の空気まで一段重くなったように感じられる。
「ここからは、ハイランカーとして戦う」
サムパレスが床を蹴った。
先ほどまでより速い。
大河が拳を警戒して腕を上げると、踏み込んできた肩がわずかに沈んだ。次の瞬間、低い蹴りが太腿へ食い込み、足全体へ痺れが走る。
体勢が崩れたところへ左拳が飛ぶ。
大河は頭を下げてかわしたが、サムパレスの腕が首へ巻きついた。強く引き寄せられ、腹へ膝が迫る。
両腕で受け止めた衝撃に、肺が縮んだ。
サムパレスは首を抱えたまま腰を入れ、投げへ移る。大河の足が床から浮きかけた。
その瞬間、大河は相手の腰へ手を添えた。
力で止めようとはしない。
サムパレスが踏み込み、腰へ体重を乗せた方向を探る。
ワイナの声が頭の奥によみがえった。
人は動けば、必ず重心が移る。その流れを、ほんの少し手伝えばいい。
大河は足を半歩ずらした。腰へ置いた手を斜め下へ導きながら、自分の身体だけを相手の正面から外す。
投げようとしていた力の行き先が消えた。
サムパレスの上半身が前へ流れる。
大河は首へ巻かれていた腕を外し、その手首を両手でつかんだ。相手が前へ進む力を利用しながら身体を回すと、鍛え上げられた身体が宙へ浮いた。
観客席からどよめきが上がる。
サムパレスの背中が床へ落ちた。大河は手首を離さず、相手の肩を押さえて膝をつく。
しかし、サムパレスは腰を強くひねり、大河の身体ごと横へ転がした。
押さえ込みが外れ、二人はほぼ同時に立ち上がった。
大河の呼吸は荒く、太腿には蹴られた痛みが残っている。右肘も完全には伸びない。サムパレスの額からも汗が流れ、黒褐色の頬を伝って顎から落ちた。
二人は構えたまま、すぐには動かなかった。
静かな時間が舞台へ落ちる。
先に出れば、その動きを利用される。待ちすぎれば、間合いを奪われる。
大河はサムパレスの拳ではなく、肩、腰、足へ順に視線を走らせた。
ハイランカー祭で見たカイザーの姿が、ふと脳裏をよぎる。
世界の頂点に立つ男でさえ、最後に勝負を決めたのは、力任せの一撃ではなかった。相手の動きを見て、その一瞬を待った。
大河にできることも、それしかない。
いや、それならできる。
この一か月、何度も倒されながら覚えてきた。
大河は拳をわずかに下げた。
サムパレスの視線が動く。
防御が下がったと判断したのか、右足が床を強く踏んだ。肩が前へ入り、拳が一直線に大河の顔へ伸びてくる。
大河は動かなかった。
拳が届く寸前まで待ち、上体をわずかに横へずらす。頬へ風圧が走り、サムパレスの拳が耳の横を通り過ぎた。
同時に、大河は相手の肘へ片手を添える。
前へ出た勢いを止めず、さらに進ませる。反対の手を肩へ置き、踏ん張ろうとした足の外側へ自分の足を滑り込ませた。
サムパレスの目が見開かれる。
身体が傾く。
大河は肩を押し込まなかった。相手自身が前へ進む力へ、ほんの少し方向を加えただけだった。
サムパレスの足が床を離れ、身体が大きく回転する。
背中が床へ落ちると同時に、大河はその上へ跨がった。左膝で腕を押さえ、右拳を振り上げる。
サムパレスが顔を守ろうと腕を動かすが、大河の膝の下から抜けない。
拳が振り下ろされる。
顔の寸前で止まった。
大河の拳から落ちた汗が、サムパレスの頬へ小さな染みを作る。
二人の荒い呼吸だけが、静まり返った闘技場へ響いていた。
審判が押さえ込まれたサムパレスと、大河の拳を確かめる。
短い沈黙のあと、腕が高く掲げられた。
「そこまで!」
大河は拳を下ろし、ゆっくりと立ち上がる。
「勝者、望月大河!」
宣言が響いた瞬間、観客席からポルポルの叫び声が飛んだ。
「勝ったのですー!」
小さな身体が手すりを越え、大河の顔へ勢いよく抱きつく。紫色の毛で視界が塞がれ、大河はよろめきながらも受け止めた。
「大河さんがハイランカーなのです! 九十五位なのですよ!」
「分かったから、顔から離れてくれ」
「今日は離れないのです!」
ポルポルを引き剥がそうとしていると、今度はエリカが舞台へ駆け上がってきた。普段の落ち着いた歩き方はどこへやら、赤いマントを大きく翻し、大河の腕を両手でつかむ。
「大河くん、腕を見せるのじゃ! ほかに痛いところはないかえ? 顔は? 肋骨は折れておらぬか?」
「大丈夫ですよ。少し肘と足が痛むくらいです」
「少しでも痛いなら大丈夫ではない!」
エリカは大河の右腕を抱えるように支え、眉を下げながら肘の周囲へ指を這わせた。淡い光が掌から広がり、関節に残っていた熱が少しずつ和らいでいく。
「もう、心配したのじゃぞ。二度も投げられて、腕まであんな方向へ曲げられて……」
「勝てましたから」
「勝ったからよいという話ではない。わしの寿命が縮んだらどうするのじゃ」
「数百年生きてるなら、少しくらい大丈夫でしょう」
「大河くんと過ごす時間は一日たりとも減らしたくないのじゃ!」
あまりにも真っすぐな言葉に、大河は返事を失った。
エリカは自分が何を口にしたのか遅れて気づいたらしく、頬を赤く染めながら治療へ視線を落とした。それでも大河の腕を放そうとはしなかった。
「試合後の二人だけの世界は、そのくらいにしてちょうだい」
ワイナが舞台へ上がり、腰へ手を当てた。呆れたような口調だったが、目元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「望月くん、最後の崩しはよかったわよ」
「ありがとうございます」
「相手を投げようとして力んだら、あんなにきれいには倒れなかった。ちゃんと相手の踏み込みを使えていたわ」
ワイナは大河の足元へ視線を落とし、次にサムパレスが倒れた位置を見た。
「ただし、その前はひどかったわね。顔ばかり見て蹴りをもらうし、関節を極められる前の反応も遅い。合格点にはまだ遠いわ」
「勝った直後くらい、もう少し褒めてくれてもいいんじゃないですか」
「あら、褒めたでしょう? 最後はよかったって」
ワイナは人差し指を唇へ添え、楽しそうに首を傾けた。
「あたしの褒め言葉は貴重なの。大切に受け取りなさい」
床へ座っていたサムパレスが、ゆっくり片膝を立てた。
グリーデンの仲間たちが舞台へ降りようとしたが、彼は片手を上げて止める。自分で立ち上がると、大河の前まで歩いてきた。
顔には悔しさが残っていた。けれど、それを笑顔で隠そうとはしていない。
「最後の技、最初に俺が君を投げた時と同じだったな」
「相手の力を使った、という意味なら」
「俺が踏み込んだ分だけ、きれいに返された」
サムパレスは一度ワイナを見たあと、大河へ拳を差し出した。
「今日は俺の負けだ。四百位台だからと軽く見た時点で、もう負け始めていたのかもしれない」
大河は差し出された拳へ自分の拳を合わせた。
「途中からは、本当に強かったです」
「慰めはいらないよ」
サムパレスは口元をわずかに歪めた。
「九十五位が自分のものになったと思うな。次は俺が挑戦する側になる」
「待っています」
拳が離れる。
サムパレスはグリーデンの仲間たちの元へ戻っていった。仲間たちは責めることも過剰に慰めることもせず、彼の肩を軽く叩きながら囲んだ。
その時、ポルポルが抱えていたランカーカードへ光が走った。
「変わったのです!」
両手で掲げられたカードの表面で、文字がゆっくり形を変えていく。
素手格闘部門、九十五位。
ハイランカー。
大河はカードを受け取り、浮かび上がった文字を見つめた。
四百位台から、一度の勝利で百位以内へ。
数字だけを見れば大きな飛躍だった。だが、身体に残る痛みと、何度も床へ叩きつけられた感触が、その場所が決して軽くはないことを伝えている。
「これで、ワイナさんと同じハイランカーですね」
大河が顔を上げると、ワイナは腕を組んだまま、形の整った眉を上げた。
「同じランク帯には入ったわね」
「順位はあと七つです」
「あら、あたしがいつまでも八十八位にいると思ってるの?」
ワイナは肩越しに大河を見ながら、紫色の上着を翻した。
「あたしだって次へ行くわよ。追いつきたいなら、のんびりしている暇はないわ」
「そのつもりです」
「よろしい」
ワイナは満足そうに笑い、先に出口へ向かって歩き出した。
大河も後を追おうとしたが、エリカはまだ右腕を抱えたまま離れない。
「エリカ、もう治りましたよ」
「念のためじゃ。今日は帰るまで、わしが支える」
「普通に歩けます」
「夫を支えるのは妻の役目じゃ」
「まだ夫婦じゃないです」
「予行練習じゃな」
腕へ身体を寄せてくるエリカを見て、ポルポルが大河の肩へ降りた。
「大河さんはハイランカーになって、エリカは妻になったのです?」
「後半はなってない」
「時間の問題じゃ」
すぐ横から返ってきた声に、大河は苦笑するしかなかった。
闘技場の出口へ向かいながら、もう一度カードへ目を落とす。
九十五位。
ワイナまでは七つ。その先にはシルバーランカー、ゴールドランカー、そして世界の頂点に立つロベルト・カイザーがいる。
一つ目の扉を開いただけにすぎない。
けれど、その扉は確かに大河自身の力で開いた。
「ここからだな」
小さく呟くと、肩の上のポルポルが勢いよく拳を掲げた。
「ここからなのです! 次は一気に一位なのですよ!」
「飛びすぎだ」
「では、ワイナさんの八十八位なのです!」
少し前を歩いていたワイナが振り返り、細い目をさらに細める。
「あら。簡単に取れると思っているなら、あたしが直接教えてあげてもいいわよ?」
「それはまだ遠慮しておきます」
「賢明ね」
軽やかな笑い声が、朝の光が差し込む通路へ広がった。
大河の手の中では、九十五という新しい数字が、歩くたびに淡く輝いていた。
第46話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、大河のハイランカー昇格戦でした。
一か月前までの大河なら、サムパレスへ速さと力で真正面からぶつかっていたと思います。
ですが今回は、ワイナから教わった「崩し」や「相手の力を利用する」という技術が、ようやく実戦の中で形になりました。
もちろん、まだ完成にはほど遠いです。
何度も投げられ、蹴りを受け、関節技にも捕まっています。
それでも最後は、自分の力ではなく、サムパレス自身の踏み込みを利用して勝負を決めました。
そして大河は、素手格闘ランキング九十五位。
ついにハイランカーです。
とはいえ、ワイナは八十八位。
その先にはシルバー、ゴールド、そしてランキング王ロベルト・カイザーが待っています。
まだまだ先は長いですが、大河はまた一つ、確かな階段を上りました。
次は九十五位から、どこまで上へ進めるのか。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




