第43話 十歳の料理人
第43話です。
今回は、料理ランキング九位まで駆け上がったアイのお祝い回です。
学院で忙しくしていた大河たちも、久しぶりにマイラ食堂へ。
しばらく会わない間に、アイも店も大きく変わっていました。
そして夜は、元料理ランキング一位のダッカスの店へ。
十歳の料理人と、長年頂点を走ってきた料理人。
二人の新しい縁にも注目していただけたら嬉しいです。
休日の朝、ランキング協会の魔法訓練所には、まだ人の姿がまばらだった。高い窓から差し込む光は白く、床へ刻まれた魔法陣の縁を淡く浮かび上がらせている。隣の区画から時折、炎の弾ける音や風が壁を叩く低い響きが届くものの、三人が使っている一角には、水の揺れるかすかな音だけが残っていた。
大河の掌の上では、拳ほどの水が不格好に震えていた。
透明な塊は丸くなりかけては片側へ崩れ、こぼれそうになるたび、大河は指先へ意識を集め直す。火魔法とは違い、力を込めれば込めるほど、水は手の中から逃げようとするようだった。
「押さえつけるでない。流れを止めず、形だけを導くのじゃ」
正面に立つエリカが杖の先で小さな円を描く。その動きに合わせ、彼女の周囲へ集まった水滴が滑らかな球を形作った。表面には窓からの光が映り、揺れるたびに細かな輝きが内部を走っている。
「言葉では分かるんですけどね」
大河が眉間へしわを寄せた直後、掌の水が大きく傾いた。指の隙間から冷たい雫がこぼれ、袖口を濡らしていく。
「また逃げたのです」
少し離れた場所へ浮かんでいたポルポルが、濡れた大河の手元を覗き込んだ。
「水は自由なのです。ポルポルと同じなのですよ」
「お前は自由というより、食べ物の方へ勝手に飛んでいくだけだろ」
「それも自由なのです」
胸を張るポルポルの横で、エリカが口元をほころばせた。大河は濡れた袖を軽く絞ると、もう一度掌を上へ向ける。
「今日はこのくらいにしておくかの」
「まだ始めたばかりですよ」
「昼から用があるのであろう? 祝いに行く前から魔力を使い切っては、アイに心配されるぞい」
そう言われ、大河は掌に残った水滴を振り払った。今日は、料理ランキング九位になったアイを祝うため、久しぶりにマイラ食堂へ向かうことになっている。学院の食堂で噂を耳にしてから数日しか経っていないが、ポルポルは毎朝のように「お祝いはまだなのです?」と尋ねていた。
「では行くのです!」
話が終わったと察したポルポルは、誰よりも早く出口へ向かって飛び始めた。
「まだ片付けが残ってるだろ」
「お祝いは逃げるかもしれないのです!」
「料理は逃げんじゃろうに」
エリカが呆れたように杖を肩へ担ぐ。大河は訓練用の布で床へ落ちた水を拭き取りながら、先に扉の前で待っているポルポルへ目を向けた。その小さな身体は、もう昼食のことでいっぱいらしい。
訓練所を出る頃には、街は休日らしい賑わいに包まれていた。通りには露店が並び、焼いた肉や甘い菓子の匂いが風に混ざっている。大河とエリカが並んで石畳を歩き、その少し前をポルポルが行ったり来たりしながら飛んでいた。
「それにしても、九位とは大したものじゃの」
エリカが人混みの向こうへ目を細める。
「まだ十歳ですからね」
「年齢だけで料理の味は決まらぬが、あの歳で上位十人へ入るのは並の才ではない。マイラも鼻が高かろう」
大河は頷きながら、アイが初めてランキング戦へ挑んだ頃を思い返した。借金を返すためとはいえ、幼い少女が大勢の前で料理を作り、審査を受ける。その重さを感じさせないほど、アイはいつも厨房で真っすぐ料理へ向き合っていた。
やがて見慣れた看板が通りの先に現れた。
以前よりも店の前に人が多い。入口近くには順番を待つ客が数人並び、開いた扉から料理の香りと食器の触れ合う音が絶えず流れ出している。
「本当に繁盛しているのです」
ポルポルが目を丸くした。
三人が列の最後へ並ぼうとした時、店内から料理を運んできたマイラが大河たちへ気づいた。盆を持ったまま足を止め、その顔に驚きが広がったあと、柔らかな笑みへ変わっていく。
「大河さん。エリカさんも、久しぶりですね」
「ご無沙汰しています。ずっと来られなくて、すみません」
「学院が忙しいって聞いていましたから。気にしないでください」
マイラはそう答えながらも、大河の顔を確かめるように見つめた。頬には忙しさからか薄く汗が浮かんでいるが、以前より明るい表情をしている。
「アイは厨房ですか?」
大河が尋ねると、マイラは店の奥へ振り返った。
「アイちゃん、お客さんよ」
厨房から包丁の音が止まり、間もなく小さな姿が顔を覗かせた。頭に布を巻き、袖を肘まで上げたアイは、大河たちを見つけた瞬間に瞳を大きく開いた。
「大河さん! ポルポルちゃんも、エリカさんも!」
アイは手にしていた布で慌てて指先を拭きながら、厨房から駆け寄ってきた。その頬には熱気で赤みが差し、額には細かな汗が浮かんでいる。
「ランキング九位、おめでとう」
大河がそう告げると、アイの足がわずかに止まった。店内の客から向けられる視線を意識したのか、肩をすぼめながら目を伏せる。
「ありがとうございます。でも、まだ九位ですから」
「十歳で九位になっておいて、まだと言えるのがすごいのです」
ポルポルがアイの周囲を一周し、短い手をぱちぱちと叩く。
「アイちゃんは街中で有名人なのですよ。学院でもみんな噂していたのです」
「学院でも……?」
アイの頬がさらに赤くなる。マイラは娘の背中へそっと手を添え、困ったように笑った。
「この子、店のお客さんに褒められるたびに厨房へ隠れようとするんですよ」
「だって、恥ずかしいもん」
アイは母の袖を軽くつまみながら、小さな声で答えた。それでも口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「今日はお祝いをしようと思って来たんだ」
「お祝いですか?」
「夜、みんなでダッカスさんの店へ行かないか? 俺がごちそうするよ」
アイは驚いたようにマイラを見上げた。マイラも目を瞬かせたあと、店内へ視線を巡らせる。
「でも、夜の営業が……」
「今日は早めに閉めたらどうじゃ。九位になった祝いくらい、母娘でゆっくりしても罰は当たるまい」
エリカが穏やかに言うと、近くの席にいた常連らしい男が声を上げた。
「今日は休んでこいよ、マイラ。俺たちだってアイちゃんの祝いなら文句は言わないさ」
周囲からも笑い声と賛同の声が重なった。マイラは申し訳なさそうに頭を下げたあと、アイへ目を向ける。
「それじゃあ、お言葉に甘えようか」
「うん!」
アイが大きく頷く。その横でポルポルも両手を上げた。
「夜もごちそうなのです!」
「昼飯を食べる前から夜の心配か」
「お祝いは一日に何度あってもいいのです」
昼の営業を終えたあと、マイラとアイは一度支度を整え、夕暮れの街で大河たちと合流した。西へ傾いた陽射しが石壁を赤く染め、昼間の賑わいが少しずつ落ち着き始めている。アイはいつもの仕事着ではなく、淡い色の服へ着替えていた。慣れない外出着が気になるのか、歩きながら何度も裾へ手を添えている。
ダッカスの店へ近づくにつれ、焼いた肉と香草を使ったソースの深い香りが漂ってきた。ポルポルは匂いへ引かれるように前へ進み、大河が尻尾をつかんで止める。
「まだ勝手に入るなよ」
「お腹だけ先に挨拶したいのです」
「お腹は喋らないだろ」
扉を開けると、磨き込まれた木の床と柔らかな灯りが一行を迎えた。店内は落ち着いた賑わいに包まれ、奥の厨房からは鍋を動かす音や、炎が立ち上がる音が聞こえてくる。
大河たちの姿を見つけたダッカスが、白い布で手を拭きながら厨房から出てきた。
「また来たか、エリカ。今日は随分と大所帯だな」
「祝いじゃ。よいものを食わせてやってくれ」
エリカがアイの肩へ手を置くと、ダッカスの視線が少女へ止まった。太い眉がわずかに上がり、確かめるようにアイの顔と手元を見比べる。
「その子が、噂の料理人か」
アイは一瞬だけマイラの陰へ半歩下がった。
「アイといいます」
「料理ランキング九位。しかも十歳。最近は料理人が集まれば、必ずお嬢ちゃんの話になる」
ダッカスは腕を組み、改めてアイを眺めた。その視線に威圧するものはなかったが、長年厨房へ立ってきた料理人らしい鋭さがある。
「手を見せてみな」
アイは戸惑いながらも、両手を差し出した。小さな指には刃物でついたらしい細かな傷や、熱い鍋へ触れた跡が薄く残っている。ダッカスはその手をじっと見たあと、満足そうに鼻を鳴らした。
「順位だけの子じゃないらしいな」
マイラの表情がわずかに緩む。アイは褒められたことがまだ信じられないように、自分の手へ目を落とした。
「一度、お嬢ちゃんが料理しているところを見てみたいもんだ。どうだ、うちの厨房へ来ないか?」
「えっ?」
アイの顔が上がる。
「ここで働けば、もっと上まで行けるかもしれないぞ」
ダッカスが真面目な顔で続けると、アイは困ったようにマイラと店の厨房を交互に見た。しばらく迷った末、小さな手を胸の前で握り、ダッカスへ向き直る。
「ごめんなさい。私は、お母さんの店を手伝いたいです」
マイラの目がわずかに見開かれた。アイは母の顔を見上げ、恥ずかしそうに笑う。
「お母さんと一緒に、もっといいお店にしたいから」
マイラは何も言わず、娘の頭へそっと手を置いた。指先が髪を撫でるたび、その目元が柔らかくほどけていく。
数秒の沈黙のあと、ダッカスが腹の底から笑った。
「はははっ、いい返事だ! 安心しろ、半分は冗談だ」
「半分は本気だったのです?」
ポルポルが即座に聞き返す。
「もちろんだ。十歳で九位の料理人を欲しがらない店があるものか」
ダッカスは笑いながらアイへ指を向けた。
「だが、今の返事を聞いてもっと興味が湧いた。今度、マイラ食堂へ食べに行かせてもらう。お嬢ちゃんの料理を、客として確かめたい」
アイは緊張した表情のまま、それでも力強く頷いた。
「はい。頑張って作ります」
「今から頑張りすぎるな。今日は祝われる側だ」
ダッカスが厨房へ戻ると、ほどなく最初の皿が運ばれてきた。薄く切られた魚には淡い色のソースが添えられ、香草の青い香りが湯気とともに立ち上る。
ポルポルは料理が置かれた瞬間に皿へ顔を近づけた。
「きれいなのです。ですが少ないのです」
「コース料理だから次が来る」
「前もそう言われて待ったのです。待つ時間が一番長いのですよ」
大河の隣では、エリカが当然のように椅子を寄せている。肩が触れそうな距離まで近づきながら、グラスへ注がれた飲み物を満足そうに眺めていた。
「アイの祝いとはいえ、大河くんと食事ができるなら、わしにとっても祝いじゃな」
「毎日一緒にご飯を食べてるでしょう」
「家での食事と、こうして外で並んで食べるのは別じゃ。新婚夫婦のようでよい」
「まだ結婚してません」
「まだ、ということは」
「その話は前にもしましたよ」
二人のやり取りを聞いていたマイラが口元を押さえて笑い、アイも緊張が解けたように小さく肩を揺らした。
やがて魚、野菜、魔物の肉を使った料理が順に運ばれてくる。アイは口へ運ぶたびに目を閉じ、舌の上へ残る味を確かめるようにゆっくり噛んでいた。ソースの香りや焼き加減を考えているのか、時折皿へ顔を近づけては真剣な表情を浮かべる。
「祝いの席でも勉強しておるの」
エリカが笑うと、アイは我に返ったように顔を上げた。
「だって、食べたことのない味ばかりだから……」
「それでこそ料理人だ」
厨房から様子を見ていたダッカスが、低い声で応じた。
「九位で満足する顔じゃないな」
アイは膝の上で小さく拳を握った。
「もっと、おいしい料理を作れるようになりたいです」
その声を聞き、マイラは何も言わずに娘の横顔を見つめていた。大河もまた、目の前の少女がランキングへ挑み始めた頃より、少しだけ頼もしく見えることに気づいた。
十歳の料理人がつかんだ九位は、終着点ではない。
アイにとっては、その先へ続く道の途中なのだろう。
「次は一位なのです!」
ポルポルが肉を頬張ったまま腕を上げた。
「食べてから喋れ」
「アイちゃんならできるのです!」
大河が布でポルポルの口元を拭うと、テーブルへ笑い声が広がった。
窓の外では夜の街に明かりが灯り始めている。穏やかな食事の時間は、次に待つ戦いをしばし忘れさせるように、ゆっくりと流れていった。
第43話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は久しぶりに、アイとマイラを中心にしたお話でした。
料理ランキング九位。
最初は借金を返すために始めた挑戦でしたが、今ではアイ自身が「もっとおいしい料理を作りたい」と思うようになっています。
そして今回は、ダッカスとも本格的に顔を合わせました。
長年料理ランキング一位だったダッカスと、十歳で九位まで上がったアイ。
すぐに師弟関係になるわけではありませんが、料理人として互いに少し興味を持ち始めた感じです。
大河たちも久しぶりにゆっくり食事を楽しめましたが、次に待っているのはハイランカーへの挑戦。
穏やかな時間のあと、大河の戦いもまた動き始めます。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




