第42話 一か月の変化
第42話です。
ワイナとの修行が始まってから、一か月。
大河だけではなく、アイやライズもそれぞれの場所で少しずつ前へ進んでいました。
料理ランキング、学院、魔法、素手格闘。
それぞれが積み重ねた一か月の成果が、少しずつ形になっていきます。
そして大河にも、次の挑戦の時がやってきます。
それから一か月が過ぎた。
昼休みを告げる鐘が学院中に響くと、教室から吐き出された生徒たちが、いくつもの流れとなって食堂へ向かっていった。開け放たれた窓から入る風には、ひと月前よりもわずかに温かさが混じっている。大河も教科書を鞄へ押し込み、机の脇で浮かんでいたポルポルとともに廊下へ出た。
「今日の昼ご飯は何なのです?」
大河の顔の横を漂いながら、ポルポルが鼻をひくつかせる。食堂の方角から流れてくる肉の焼ける匂いを嗅ぎつけたらしく、小さな翼の動きがいつもより速い。
「着いてからのお楽しみだな」
「ポルポルは、着く前から楽しむタイプなのです」
「便利な性格だな」
そんなやり取りをしながら食堂へ入ると、広い室内はすでに大勢の生徒で埋まりかけていた。皿と食器が触れ合う音に椅子を引く音が重なり、天井近くまで賑やかな声が満ちている。配膳台には焼き色のついた肉と野菜の煮込みが並び、湯気の向こうで職員たちが慌ただしく手を動かしていた。
大河が料理を受け取り、空いている席を探していた時だった。すぐ近くの卓から聞こえた名前に、足が止まった。
「料理ランキング九位になった子、まだ十歳なんだってな」
「マイラ食堂のアイだろ。先週のランキング戦で、また上の料理人に勝ったらしいぞ」
「十歳で上位十人って、どうなってるんだよ。店もかなり混んでるらしい」
大河は盆を手にしたまま、声のした方へ顔を向けた。話しているのは見覚えのない生徒たちだったが、興奮した様子で身を乗り出し、街中に広がった話題を語り合っている。
「アイが、九位……」
口からこぼれた声に反応し、ポルポルが大きく目を見開いた。
「九位なのですか!?」
「ああ。聞き間違いじゃなければな」
大河の脳裏に、厨房で鍋を見つめるアイの姿が浮かんだ。小さな手で包丁を握り、何度失敗しても諦めず、味を確かめるたびに真剣な顔で首を傾げていた。借金を返すために始めたランキング戦だったが、その料理はもう、事情を知らない者たちまで惹きつける場所へ届いている。
胸の奥に、温かなものがゆっくりと広がった。
「アイちゃん、すごいのです。帰ったらすぐにお祝いへ行くのですよ」
「今日は学院があるだろ」
「では、授業が終わったら行くのです」
「今日はワイナ先生との訓練もある」
ポルポルは少し考えるように宙で止まり、やがて両手を胸の前で組んだ。
「それなら、今度のお休みに行くのです。お祝いには、お腹を空かせていくのが礼儀なのですよ」
「それはお前だけの礼儀だろ」
言い返しながら、大河はわずかに視線を落とした。この一か月、学院の授業に加えてワイナとの鍛錬が続き、休日にはエリカから魔法を教わっていた。毎日を追いかけることに精いっぱいで、マイラ食堂には一度も顔を出せていない。
アイが九位になるまでに、どんな料理を作り、どんな相手と戦ったのか。その場にいなかったことが、今になって少し惜しく思えた。
「次の休みには顔を出そう。マイラさんにも、しばらく会ってないからな」
「決まりなのです。ポルポルは全品食べて応援するのですよ」
「店の邪魔だけはするなよ」
「応援と注文は別なのです」
胸を張るポルポルを横目に、大河が席へ向かおうとしたところで、正面から歩いてくる一団が目に入った。その中央にいた青年がこちらに気づき、片手を上げる。
「よう、大河」
「ライズ」
ひと月前までは仮入学の立場だったライズの胸元に、今は正式な学院生であることを示す徽章が留められていた。新しい制服にもすっかり馴染み、周囲を歩く中級クラスの生徒たちとも自然に言葉を交わしている。ただし、袖口から覗く手には硬くなった皮膚と、小さく潰れた豆の跡が残っていた。
「もう中級クラスにも慣れたみたいだな」
大河が徽章へ目を向けると、ライズはそこへ指を触れ、少し照れくさそうに笑った。
「慣れたというより、置いていかれないように食らいついてるだけだ。正式に入れたからって、急に強くなれるわけじゃないからな」
「それでも、前よりいい顔をしてるのです」
ポルポルが大河の肩越しから覗き込むと、ライズは眉を上げた。
「そうか?」
「ちょっとだけ偉そうになったのです」
「そこは褒めてないだろ」
ライズの仲間たちから笑いが漏れた。本人も苦笑しながら肩をすくめたが、その表情には以前のような焦りだけではなく、自分の居場所を掴み始めた者の落ち着きがあった。
「大河はどうなんだ? 相変わらず特別指導か」
「ああ。まだまだだけどな」
「その割には、立ち方が変わった気がする」
不意にそう言われ、大河は自分の足元を見た。普段どおり立っているつもりだったが、この一か月、ワイナから何度も重心の置き方を直されてきた。相手に動きを悟らせず、どの方向にも踏み出せる姿勢を身体へ馴染ませるため、立っているだけで足を払われた日もある。
「毎日転がされてる成果かもしれないな」
「俺も負けてられないな。次に戦う時は、前みたいにはいかないぞ」
ライズの目に、冗談だけではない光が宿った。大河もそれを正面から受け止め、口元を緩める。
「望むところだ」
二人は軽く拳を合わせた。ほんの一瞬のことだったが、互いに過ごした一か月の重みが、その小さな音に込められているように感じられた。
仲間に呼ばれたライズが去っていくと、大河はその背中をしばらく見送った。アイもライズも、自分の知らない場所で前へ進んでいる。忙しさの中では見えにくかった変化が、今日になって一度に目の前へ現れたようだった。
「大河も早く食べないと、午後の授業に遅れるのです」
ポルポルの声で我に返る。見ると、自分の皿へ熱い視線が注がれていた。
「お前が食べたいだけだろ」
「冷めるのは料理に失礼なのですよ」
大河は笑いながら席に着いた。
数日後の休日、大河はエリカと並んで朝の街を歩いていた。学院へ向かう日より人通りは穏やかで、通り沿いの店からは焼きたてのパンや菓子の甘い香りが漂っている。エリカは杖を片手にゆっくりと進み、その少し前をポルポルが機嫌よく飛んでいた。
「今日は火魔法の仕上げじゃ。うまくできれば、次へ進んでもよかろう」
「ずいぶん時間がかかりましたね」
大河が自分の右手を見つめると、エリカは横目でその様子を眺め、細い眉をわずかに上げた。
「一か月で基礎を身につけておいて、何を言うておる。魔法を甘く見るでないぞい」
「エリカは簡単そうに使うから、感覚が狂うんですよ」
「わしを基準にするのが間違いじゃ」
当然のように言い切ったエリカの横で、ポルポルが何度も頷く。
「エリカは何百年も生きているのです」
「余計なことを言うでない!」
杖の先がポルポルの尻尾を追いかけ、ポルポルは笑いながら大河の背後へ逃げ込んだ。朝の通りにエリカの声が響き、行き交う人々が何事かと振り返る。大河はその視線から顔を背けながらも、同じ家から三人で出かける光景が、いつの間にか当たり前になっていることに気づいた。
ランキング協会の魔法訓練所へ入ると、石造りの広い室内には冷たい空気が溜まっていた。壁や床には魔法の衝撃を受け止めるための術式が刻まれ、いくつもの訓練区画から炎が弾ける音や、風が壁を叩く低い響きが聞こえてくる。
空いている区画へ入ると、エリカは大河から距離を取り、杖の先で正面の標的を示した。
「まずは火じゃ。大きさは求めぬ。途中で消さず、狙った場所まで届かせてみよ」
大河は頷き、右手を前へ差し出した。掌へ意識を集めると、腕の内側を熱がゆっくりと這い上がってくる。初めの頃は、この熱を急いで外へ押し出そうとして何度も失敗した。今は焦らず、内側に生まれた流れを指先まで導いていく。
掌の上に赤い火が灯った。
炎は小さいながらも形を崩さず、呼吸に合わせるように静かに揺れている。大河が標的へ意識を向けると、火の玉は手を離れ、まっすぐに飛んだ。乾いた音とともに標的へ当たり、赤い火花が散る。
少し離れた場所で見ていたエリカが、満足そうに顎を引いた。
「よかろう。まだ威力は低いが、戦いの最中に相手の注意を逸らす程度なら使える。火魔法の基礎は、これで終わりじゃ」
大河は掌を握ったり開いたりしながら、わずかに残った熱を確かめた。派手な炎ではない。だが、最初は火花すら安定して出せなかったことを思えば、この小さな炎にも一か月分の重みがあった。
「やったのです!」
ポルポルが頭の上を一周し、大河の肩へ降りる。
「これで寒い日も安心なのですよ」
「暖房代わりに覚えたんじゃないぞ」
「料理にも使えるのです」
「大河くんに店を焼かせるつもりかえ」
エリカは呆れたように息を吐くと、杖を横へ振った。その先に透明な水が集まり、拳ほどの球となって宙へ浮かぶ。揺れる水面に訓練所の灯りが映り込み、小さな光が内部を泳いだ。
「次は水じゃ。火のように熱を生み、外へ放つだけでは動かぬ。形を保ち、流れを意識する必要がある」
大河が手を伸ばすと、水球はわずかに形を変え、指先を避けるように揺れた。
「難しそうですね」
「だから教えるのじゃ。今日から、これを動かせるようになるまで付き合ってもらうぞい」
エリカの口元には、少し楽しそうな笑みが浮かんでいた。火魔法を覚えたばかりだというのに、もう次の課題が目の前に置かれている。大河は苦笑しながらも、水球から目を離さずに頷いた。
さらに数日後、放課後の訓練場には夕方の光が斜めに差し込んでいた。大河の額から落ちた汗が床へ染みを作り、荒くなった呼吸が静かな室内へ響いている。向かいに立つワイナは、ほとんど息を乱していなかった。
大河は一歩踏み込み、正面へ拳を放った。ワイナの身体がわずかに横へずれ、拳が空を切る。以前ならそのまま体勢を崩していたが、今は踏み込んだ足へ力を残し、すぐに身体をひねって次の攻撃へつなげた。
続けて放った拳もかわされたものの、ワイナの髪が風圧で揺れた。
「そこまで」
静かな声がかかり、大河は拳を止めた。肩を上下させながら姿勢を戻すと、ワイナは少しだけ目を細めた。
「最初の頃なら、最初の一撃をかわした時点で背中を取れていたわ。でも今は、次の動きを考えながら踏み込めている」
大河は袖で額の汗を拭った。この一か月、何度倒されたか分からない。間合いを読まれ、重心を崩され、攻撃を出す前に床へ転がされたことも一度や二度ではなかった。それでも、身体は少しずつ相手の動きを追えるようになっていた。
「まだ一度も当てられてませんけどね」
「私に当てることが、この訓練の目的ではないわ」
ワイナはそう言いながら、大河との距離を詰めた。厳しさの奥にあった鋭い視線が、今日はわずかに和らいでいる。
「基礎として教えられることは、もう十分身についた。ここから先は、決まった相手との訓練だけでは得られないものがある」
大河は乱れていた呼吸を整え、ワイナの顔を見た。
「実戦ですか?」
「ええ。ローやミドルの相手では、今のあなたが何を身につけたのか確かめるには足りないわ」
ワイナは一度視線を落とし、床に残った大河の足跡を見た。その後、ゆっくりと顔を上げる。
「次は、ハイランカーへ挑戦しなさい」
その言葉を聞いた瞬間、大河の胸の奥に、ひと月前とは異なる緊張が走った。格上の相手へ挑む怖さが消えたわけではない。けれど、その怖さの向こうに、自分の力がどこまで通じるのか確かめたいという思いがあった。
肩の近くで見守っていたポルポルが、拳を高く掲げる。
「ついにハイランカーなのです! 一か月の特訓の成果を見せるのですよ!」
大河はポルポルを見てから、もう一度ワイナへ視線を戻した。
「分かりました。挑戦します」
ワイナはその返事を聞くと、満足そうに小さく頷いた。
一か月の間に、アイは料理ランキングの上位へ駆け上がり、ライズは正式な学院生として新たな場所を歩き始めた。大河もまた、火魔法を身につけ、ワイナとの鍛錬に一区切りをつけた。
それぞれが前へ進んだ一か月を経て、次に待つのは、これまでよりも高い場所に立つ相手との戦いだった。
第42話です。
ワイナとの修行が始まってから、一か月。
大河だけではなく、アイやライズもそれぞれの場所で少しずつ前へ進んでいました。
料理ランキング、学院、魔法、素手格闘。
それぞれが積み重ねた一か月の成果が、少しずつ形になっていきます。
そして大河にも、次の挑戦の時がやってきます。




