第40話 上級者コース
第40話です。
正式な学院生となり、上級者コースへ進むことになった大河。
そこで待っていたのは、これまでの教室とは違う、実力者ばかりが集まる張り詰めた空気でした。
そして大河の素手格闘を担当するのは、独特な雰囲気を持つワイナ。
素手格闘ランキング八十八位の教官から、大河は初めて本格的な格闘技術を学び始めます。
扉の向こうに広がっていたのは、これまで大河が通っていた仮入学クラスとは、まるで異なる空間だった。
北棟の教室は天井が高く、灰色の石壁には細長い窓が等間隔に並んでいる。雨上がりの淡い光が斜めに差し込み、磨かれた床へ白い帯を落としていた。壁際には木剣や杖、練習用の盾が種類ごとに整然と掛けられ、その下には細かな傷の刻まれた革製の防具が並んでいる。新しい道具の匂いではない。汗や油、乾いた革が長い年月をかけて染み込んだ、訓練場に近い匂いだった。
並べられた机は十ほどしかなく、その大半にはすでに学生が座っていた。剣を立て掛けた青年、机の上へ黒い杖を置いた女、胸元にいくつもの小さな魔石を下げた少年。年齢も服装もばらばらだったが、誰もが周囲の空気へ自然に溶け込むような落ち着きを持っている。仮入学クラスで見かけた学生たちのように、大声で笑う者も、仲間同士で机を寄せ合う者もいない。低く交わされていた会話さえ、大河が扉を開いた瞬間にわずかに細くなった。
視線が集まる。
正門や仮入学クラスで浴びた、好奇心に満ちた眼差しとは違っていた。顔や服装を見るのではなく、立ち方や肩の位置、扉へ添えた手の形まで測られているような感覚がある。数人は一度だけ大河を見たあと、興味を失ったように手元へ視線を戻したが、その短い一瞥の鋭さがかえって肌へ残った。
「静かな教室なのです」
肩の横へ浮かんでいたポルポルが、普段より声を抑えて囁いた。小さな翼の羽ばたきまで遠慮しているのか、身体がいつもより低い位置に浮かんでいる。
「みんな、こっちを見てるな」
「大河さんが有名だからなのです」
「そういう見方じゃない気がするけどな」
大河は扉から手を離し、室内へ一歩足を踏み入れた。靴底が床へ触れた音が、思った以上に大きく響く。背後で重い扉がゆっくり閉じると、外の風や中庭のざわめきが遠ざかり、教室の中だけが石壁に切り取られた別の場所になった。
窓際の席に座っていた大柄な青年が、組んでいた腕をほどいた。短く刈り込まれた黒髪の下から、大河の腰や足元へ視線を滑らせる。その隣では、長い銀髪を背中へ垂らした女性が、細い指で杖の先端をなぞりながらこちらを見ていた。表情は穏やかだったが、瞳の奥には冷たい水面のような静けさがある。
「望月大河か」
教室の奥から、低い声が届いた。
黒板の前には、いつからそこに立っていたのか分からないほど気配の薄い男がいた。年齢は四十代ほどだろうか。焦げ茶色の髪にはわずかに白いものが混じり、濃紺の学院服を隙なく着込んでいる。細身ながら背筋は真っすぐに伸び、片手には数枚の書類が握られていた。
「はい」
大河が答えると、男は書類へ一度目を落とし、すぐに顔を上げた。
「今日から上級者コースへ所属することになった、望月大河だ。仮入学期間中に三度のランキング戦へ出場し、現在は四百三十六位。専門は素手格闘」
抑揚の少ない紹介が教室へ流れる。
大河は自分の順位を他人の口から聞きながら、背中にいくつもの視線が刺さるのを感じていた。正門で向けられた驚きとは違う。ここにいる者たちは、四百三十六という数字だけで判断していない。その順位を得るまでに何をしたのか、どの程度の力を持っているのかを、それぞれの目で確かめようとしている。
黒髪の青年が、わずかに眉を上げた。
「セレナを倒したっていう新人か」
独り言に近い声だったが、静かな教室でははっきり聞こえた。
別の席から、小さく鼻を鳴らす音がする。
「試合は見てない。順位だけじゃ分からないだろ」
机へ片肘をついていた赤髪の青年が、窓の外を見たまま言った。その口調に敵意はなかった。ただ、噂よりも自分の目を信じることが当然だという響きがある。
大河は言葉を返さず、空いている席へ視線を向けた。ここでは、セレナに勝ったという事実だけで歓迎されることも、特別扱いされることもないらしい。そのことに胸の奥がわずかに緩む一方で、足元から冷たいものが這い上がってくるような感覚もあった。
ここでは、結果を出し続けなければならない。
そんな言葉が、誰かに告げられたわけでもないのに自然と浮かんだ。
「空いている席へ座れ」
教官に促され、大河は教室の後方へ向かった。ポルポルもその後を追うように浮かんでくる。椅子を引くと、脚が床を擦る乾いた音が響き、近くにいた銀髪の女性が一瞬だけ大河へ目を向けた。
「よろしく」
小さく頭を下げると、女性は無言のまま、ほんのわずかに顎を引いた。
大河が席へ腰を下ろした直後、教室の扉が再び開いた。
今度は、柔らかな香りが空気へ混じった。汗や革の匂いに満ちていた室内へ、ほのかに甘い花の香りが差し込んでくる。
入ってきた男は、周囲の学生たちより少し年上に見えた。背は高く、無駄な肉のない身体を淡い紫色の上着が包んでいる。長めの髪は丁寧に後ろへ流され、指先まで手入れが行き届いていた。戦いを教える者というより、街の高級店からそのまま歩いてきたような姿だったが、床へ落ちる足音には妙な軽さがあり、歩くたびに衣服の裾だけが静かに揺れた。
男は教室を見回したあと、大河を見つけると足を止めた。
細められた目が、頭から足元までゆっくり降りていく。
「あら」
口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「あなたが望月くんね」
その声には柔らかさがあったが、視線の奥には細い刃物のような鋭さが潜んでいた。
ポルポルが大河の耳元へそっと近づく。
「なんだか、不思議な人なのです」
囁いたつもりだったのだろう。
だが男の眉が、わずかに動いた。
「あら、聞こえてるわよ」
ポルポルの身体が空中でぴたりと止まった。短い手で口元を押さえ、丸い目を大きく見開く。
「聞こえてしまったのです……」
教室のあちこちから、押し殺した笑い声が漏れた。それまで張りつめていた空気がわずかに揺らぎ、大河も口元を押さえながら男へ頭を下げた。
「すみません」
「いいのよ。初対面なら、そう思うでしょうし」
男は気にした様子もなく髪を指先で整え、それから黒板の前にいる教官へ顔を向けた。
「この子が、今日からあたしの担当?」
「ああ。素手格闘の受講生は現在、望月一人だけだ」
その言葉を聞いた大河は、思わず顔を上げた。
「一人だけなんですか?」
男は大河へ向き直り、腰へ片手を添えた。笑みは消えていない。けれど先ほどまでの柔らかな印象とは違い、立っているだけで周囲の空気が薄く引き締まる。
「そうよ。剣や魔法、スキルを選ぶ子は多いけれど、素手で戦いたがる変わり者は少ないの」
細い目が楽しそうに弧を描く。
「だから安心なさい。今日から、あたしがたっぷり相手をしてあげるわ」
ポルポルが大河の肩へそっと降り、耳元で小さく呟いた。
「逃げ場がなさそうなのです」
大河は返事をせず、目の前の男を見つめた。
まだ名前すら聞いていない。それでも、セレナと向き合った時とは違う種類の圧が、皮膚の上を静かに撫でていた。柔らかな笑みの奥に隠されたものが何なのか、大河にはまだ分からない。
男はそんな大河の視線を受け止め、形の整った眉をわずかに上げた。
「自己紹介がまだだったわね」
胸元へ片手を添え、ゆっくりと笑みを深める。
「あたしはワイナ。素手格闘ランキング、八十八位よ」
教室の中が静まり返った。
ワイナが名乗った瞬間、誰一人として驚く様子を見せなかったのは、この教室にいる学生たちにとって、その肩書きが日常の一部だからなのだろう。
だが、大河だけは違った。
素手格闘ランキング八十八位。
数字だけを見れば、自分とはまだ何百人もの差がある。これまで戦ったセレナも強かった。しかし、目の前に立つ男から感じる圧は、それともまた違っていた。派手な威圧感ではない。静かな湖面の下に、底知れない深さが隠れているような気配だった。
ワイナは大河の表情を見つめ、口元をゆるく緩めた。
「そんなに身構えなくても大丈夫よ。今日は食べたりしないから」
「いや、それは思ってませんけど……」
「でも、ちょっと警戒したでしょう?」
図星だった。
思わず視線を逸らした大河を見て、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れる。
ポルポルは肩の上で胸を撫で下ろした。
「食べられないなら安心なのです」
「あなたも面白い子ねぇ」
ワイナはくすりと笑うと、教官へ軽く手を振った。
「じゃあ、この子借りていくわね」
「ああ。今日は実力確認だけでいい」
教官は短く答えると、教室の学生たちへ向き直った。
「残りは通常訓練を開始する」
その一言で教室が動き始める。
剣士たちは木剣を肩へ担ぎ、魔法を専門とする学生は杖や魔石を手に取って立ち上がる。誰も無駄口を叩かず、それぞれが当然のように訓練場へ向かっていく。
大河も席を立つと、ワイナが顎で廊下を示した。
「こっちよ」
北棟の廊下は、外から見た以上に広かった。
高い天井を支える石柱が一定の間隔で並び、窓から吹き込む風が磨かれた床を静かに撫でていく。壁には歴代の学院生と思われる肖像画や、大会で優秀な成績を残した者たちの名が刻まれた金属板が並んでいた。
大河は歩きながら、その一枚一枚へ目を向ける。
名前だけでは誰なのか分からない。
それでも、この学院で積み重ねられてきた時間だけは、石壁の重みと共に静かに伝わってきた。
「緊張してる?」
前を歩くワイナが振り返らずに尋ねた。
「少しは」
「いいことよ。」
ワイナは窓の外へ目を向けながら歩みを緩める。
「緊張しなくなったら、人は成長しなくなるもの。」
その言葉は冗談ではなかった。
柔らかな口調の奥に、長年戦い続けてきた者だけが持つ重みが滲んでいる。
大河は自然と背筋を伸ばした。
やがて三人は建物の奥にある訓練場へ辿り着いた。
分厚い木製の扉が開くと、乾いた空気が頬を撫でる。
広い室内には淡い陽射しが差し込み、床一面には転倒しても怪我をしにくい弾力のある敷物が敷かれていた。壁際には木人や砂袋、丸太を削った打ち込み台が整然と並び、どれも長年使い込まれた跡が残っている。
剣術場のような金属音も、魔法訓練場の爆ぜる音も聞こえない。
ここには人の呼吸と足音だけが響いていた。
ポルポルが辺りを見回しながら、小さく呟く。
「静かなのです。」
「素手格闘はね。」
ワイナは中央まで歩くと、ゆっくり振り返った。
「剣は武器が主役。魔法は魔力が主役。」
一度言葉を切り、大河の目を真っ直ぐ見つめる。
「でも素手格闘は違う。」
自分の胸へ指を当てる。
「身体そのものが武器なの。」
その一言は、不思議なほど静かに胸へ落ちた。
ワイナは靴先で床を軽く叩きながら続ける。
「望月くん。」
「はい。」
「素手格闘って聞いて、何を思い浮かべる?」
突然の問いに、大河は少し考えた。
「パンチや蹴り……ですかね。」
「やっぱり。」
ワイナは苦笑しながら肩をすくめた。
「みんな最初はそう答えるの。」
そのままゆっくり歩き始める。
「でも、それだけじゃない。」
右手を前へ出し、指を一本ずつ折っていく。
「打撃。」
「投げ。」
「崩し。」
「関節。」
「絞め。」
「受け。」
「間合い。」
指を閉じる。
「全部合わせて素手格闘。」
大河は思わず息を呑んだ。
武道を少しかじっていたから、投げ技や関節技の存在は知っている。
だが、それらを一つの競技としてまとめて考えたことはなかった。
ワイナは大河の表情を見て、小さく頷く。
「あなた、武道経験あるでしょう?」
「少しだけです。」
「分かるわ。」
その一言だけだった。
構えを見ただけで見抜かれたことに、大河は少し驚く。
「だから基礎はある。」
「でも。」
ワイナは人差し指を立てた。
「ランキング上位で戦うには足りないものが山ほどある。」
その口調は責めるものではない。
事実だけを淡々と伝えている。
「身体能力は高い。」
「踏み込みも速い。」
「反応も悪くない。」
「だからここまで勝ち上がれた。」
ワイナは大河へ歩み寄る。
二人の距離は腕一本分ほどしかない。
「でもね。」
「技術だけなら、今のあなたはまだ初心者よ。」
その言葉に、大河は反論できなかった。
セレナとの戦いを思い返しても、自分は身体能力と反射で押し切った場面が多い。
もし同じ実力の相手だったら。
もし技術だけで勝負されたら。
勝てる自信はなかった。
ワイナは微笑みながら数歩下がる。
「だから安心して。」
「今日から、その足りない部分を全部教えてあげる。」
そう言うと、上着を脱いで壁際へ丁寧に畳んで置いた。
無駄のない身体つきが陽射しの中へ現れる。
筋肉は決して大きくない。
それでも一歩踏み出した瞬間、その場の空気が静かに張り詰めた。
ワイナは両手を軽く前へ出し、大河へ柔らかく微笑む。
「まずは、あなたの力を見せてちょうだい。」
第40話を読んでいただき、ありがとうございました。
正式な学院生となった大河は、仮入学クラスを離れ、上級者コースへ進むことになりました。
新しい教室には、すでにランキングで実績を持つ学生たちが集まっています。
そして今回登場したのが、大河の素手格闘を担当するワイナです。
柔らかな話し方と少し変わった雰囲気を持っていますが、素手格闘ランキング八十八位という実力者。
これまで大河は、高い身体能力や速さを武器に勝ち上がってきました。
しかしワイナから見れば、技術面ではまだ初心者。
打撃だけではなく、投げ、崩し、関節、絞め、間合いなど、素手格闘には大河がまだ知らない技術が数多くあります。
次回、本格的な実力確認が始まります。
大河の力がランキング八十八位のワイナにどこまで通用するのか、引き続き読んでいただけると嬉しいです。




