第38話 伝説の料理人
第38話です。
ミドルランカー昇格のお祝いとして、エリカに連れられてダッカスの店を訪れた大河たち。
かつて料理ランキング一位に君臨し、現在も三位に名を連ねる料理人が作る料理は、大河がこれまで食べてきたものとはまったく違うものでした。
そして大河が何気なく口にした、アイという小さな料理人の存在が、ダッカスの興味を引くことになります。
ダッカスは、大河の否定など聞こえなかったかのように鼻を鳴らすと、厨房の奥へ顎をしゃくった。
「祝いで来たんだろ。だったら座って待ってろ。腹だけは空かせておけ」
それだけ言い残し、白い料理着の背中が厨房の向こうへ消えていく。ほどなくして包丁がまな板を叩く音が再び響き始めた。一定の速さで刻まれる乾いた音に、鍋の中で何かが煮立つ柔らかな響きが重なり、店内に漂っていた香りが少しずつ輪郭を増していく。
三人が案内されたのは、窓際に置かれた丸い机だった。磨かれた天板には傷一つなく、薄い布が皺なく敷かれている。白い器と銀色の食器が等間隔に並び、花を一輪だけ挿した細い瓶が、午後の日差しを受けて淡い影を落としていた。
大河が椅子を引くより早く、ポルポルは机の上へ降り立った。小さな鼻を忙しなく動かしながら厨房の方角を見つめ、羽を畳んだまま身体を前へ傾けている。
「まだなのです?」
「今座ったばかりだろ」
「匂いはもう来ているのです。料理だけ遅れているのです」
「料理にも準備があるんだよ」
大河が指先でポルポルの額を押し戻すと、小さな身体は不満そうに二歩後ろへ下がった。向かいに座ったエリカは、その様子を眺めながら肩を揺らしている。長い年月を生きてきた者とは思えない幼い外見に、穏やかな笑みだけが妙に馴染んでいた。
「ダッカスの料理は待つ時間も楽しむものじゃ。急かしたところで、早くはならんぞ」
「エリカさんは何度も食べたことがあるのです?」
「昔はよく世話になったものじゃ。もっとも、あやつがまだ料理ランキング一位だった頃の話じゃがな」
「一位……」
大河は厨房へ目を向けた。炎が揺れるたび、奥の壁に大きな影が動いている。料理ランキング三位。それだけでも十分に途方もない順位だが、かつて長く頂点にいたと聞けば、先ほどの男の無愛想な態度まで別の重みを帯びて感じられた。
やがて、若い給仕が最初の皿を運んできた。白い皿の中央に、薄く切られた桃色の魚が花びらのように重ねられている。周囲には緑色の香草と小さな赤い実が散らされ、その上から透明に近いソースが細い線を描いていた。
皿が置かれた瞬間、柑橘に似た爽やかな香りが立ち上る。魚の脂が持つ甘い匂いと混ざり合い、鼻の奥を冷たい風が通り抜けたような感覚が残った。
「きれいなのです」
ポルポルは瞳を丸くしたまま、皿の周囲を歩いて眺めていた。普段なら料理を前にした途端に飛びつくところだが、その盛り付けを崩すことを一瞬ためらったらしい。
大河も細いフォークを手に取り、魚を一切れ口へ運ぶ。舌へ触れた身はひんやりとして柔らかく、噛んだ途端に淡い甘みが広がった。続いてソースの酸味が脂を軽くし、香草の青い香りが鼻へ抜けていく。味は幾重にも重なっているのに、魚そのものの存在は少しも埋もれていない。
「……すごいな」
思わず漏れた声に、エリカが目を細めた。
「どうじゃ?」
「最初は酸味が強いのかと思ったんですけど、魚を食べるとちょうどよくなるんですね。脂っぽさが残らないのに、味が薄くなった感じもしない」
大河が皿を見つめながら言う横で、ポルポルはすでに最後の一切れを飲み込んでいた。空になった皿を覗き込み、裏側に隠れていないか確かめるように首を傾げる。
「次はまだなのです?」
「味わう時間、短すぎないか?」
「ちゃんと味わったのです。とても美味しかったのです」
「感想が一瞬で終わったぞ」
給仕が空の皿を下げていくと、ポルポルの視線も皿を追って店の奥へ吸い込まれていった。その背中に声をかけそうな勢いだったが、大河が先に小さな身体をつかみ、自分の前へ戻す。
二皿目は、厚みのある白身魚だった。表面には薄い焼き色がつき、皮だけが硝子のように艶めいている。皿の片側には淡い乳白色のソース、もう片側には濃い茶色のソースが添えられ、同じ魚を二つの味で楽しめるようになっていた。
ナイフを入れると、皮が小さく音を立てて割れ、その下から湯気がほどけた。身は崩れる直前の柔らかさを保ちながらも、水分を逃していない。乳白色のソースと合わせれば優しい甘みが広がり、茶色のソースを絡めると、焦がした木の実のような香ばしさが魚の印象を一変させる。
大河は二口目を急がず、舌の上に残った味を確かめた。同じ皿の中で、まるで別の料理を食べているようだった。
「火を通しすぎていないのに、生っぽくもない……」
呟いた声に反応するように、厨房の入口で人影が動いた。ダッカスが腕を組み、こちらを見ている。視線が合うと、男は何も言わず再び奥へ戻った。
次に運ばれてきた肉料理は、皿へ置かれた瞬間から空気を変えた。赤みを帯びた分厚い肉に艶のある黒いソースがかかり、その周囲を焼いた根菜が囲んでいる。魔物の肉だと聞かされなければ、地球の高級な牛肉だと思ったかもしれない。
ナイフの刃はほとんど抵抗を受けずに沈んだ。切り口は淡い赤色を保ち、透明な肉汁がゆっくりと滲み出してくる。一口噛むと、外側の香ばしさの奥から濃い旨味が溢れた。肉そのものには野性味があるが、黒いソースのほのかな苦みと果実の甘みが角を丸くし、噛むたびに味が深くなっていく。
大河は無意識に背筋を伸ばしていた。料理を口へ運ぶたび、火を止める一瞬や、ソースを合わせる順番まで想像させられる。地球でフランス料理の店に入った経験はほとんどなかったが、料理が一皿ずつ物語を進めていくような感覚だけは分かった。
向かいでは、エリカが小さく切った肉をゆっくりと噛み、懐かしむように目を伏せている。その隣でポルポルは、皿に残ったソースをパンで拭い取りながら、給仕の足音がするたび入口へ顔を向けていた。
「ポルポル、もう少し落ち着けよ」
「落ち着いているのです」
「椅子の上でずっと跳ねてるぞ」
「次の料理を迎える準備運動なのです」
大河がため息をつくと、エリカの笑い声が静かな店内へ溶けた。
最後に運ばれてきたのは、小さな焼き菓子と淡い黄色の冷たい菓子だった。匙を入れると表面がわずかに震え、口に含めば果実の酸味と乳の甘さが舌の上でほどけていく。熱の残る食後の身体を、涼しい水で撫でられたような心地よさがあった。
ポルポルは当然のように最初に食べ終えたが、今度は空の器へ頬を寄せたまま、しばらく動かなかった。
「どうした?」
「なくなってしまったのです」
「食べたらなくなるだろ」
「悲しいことなのです」
大河は笑いながら、自分の器に残っていた一口分をポルポルへ差し出した。途端に沈んでいた耳が持ち上がり、小さな前足が匙を包む。
その姿を見ながら、大河の脳裏に別の二人の顔が浮かんだ。小さな食堂の厨房に立つマイラと、その隣で目を輝かせながら鍋を覗き込むアイ。今日の料理を前にしたなら、二人はどんな顔をするだろう。アイなら、ただ美味しいと喜ぶだけではなく、魚の火の入り方や、ソースに使われた材料を知ろうとして、皿へ身を乗り出すに違いない。
「マイラさんとアイにも、食べさせてやりたいな」
大河が何気なく口にすると、厨房から戻ってきたダッカスの足が止まった。
「誰だ、そいつらは」
「知り合いの食堂をやっている親子です。娘のアイは十歳なんですけど、料理ランキング二十二位で」
ダッカスの太い眉がわずかに上がった。先ほどまでの無愛想な顔から、眠っていた何かが目を覚ましたように視線が鋭くなる。
「十歳で二十二位だと?」
「次に挑めば、十位以内へ入ってもおかしくない子じゃ」
エリカが器を置き、穏やかに付け加えた。ダッカスはすぐには答えず、胸の前で腕を組んだまま、何かを測るように床へ視線を落とした。厨房から流れてくる炎の音が、その沈黙を細く揺らしている。
「その娘は、自分で料理を考えるのか」
「はい。俺が地球の料理について少し話すと、この世界の食材に合わせて、すぐ自分なりに作り変えるんです」
「地球というのがどこかは知らねえが、他人の真似だけで二十二位にはなれねえ」
ダッカスは低く呟き、やがて大河へ視線を戻した。その目には、料理を出す前とは違う熱が宿っていた。
「今度、その親子を連れて来い」
「いいんですか?」
「食わせてやる。ただし、娘には食った料理の感想を聞く。美味いだけで終わらせるなら、二度目はねえ」
厳しい言葉だったが、その口元にはほんのわずかな笑みが浮かんでいる。
大河はアイがこの店へ来た時の姿を思い浮かべた。目の前の料理へ夢中になり、十歳の小さな手で匙を握りながら、頭の中ではもう次の料理を組み立て始めている。そんな光景が、不思議なほど鮮明に浮かんだ。
「分かりました。きっと喜びます」
「ポルポルもまた来るのです」
「お前は今の話に入ってなかっただろ」
「大河さんたちだけ来るのはずるいのです」
胸を張るポルポルに、大河が呆れて肩を落とす。その横でエリカが楽しそうに笑い、ダッカスは鼻を鳴らしながら空になった皿を見下ろした。
「次は、そいつの分だけ大皿を用意しておくか」
「ダッカスさんは話が分かるのです!」
「調子に乗るな。残したら厨房で皿洗いだ」
ポルポルの笑顔が一瞬で固まり、店内に大河とエリカの笑い声が広がった。窓の外では傾き始めた陽が石造りの通りを淡い金色に染め、磨かれた食器の縁で小さく揺れていた。
第38話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、料理ランキング三位のダッカスが作るコース料理を、大河たちに味わってもらいました。
無愛想で口数は少ないものの、料理には一切の妥協をしない人物です。特にポルポルは、料理がなくなるたびに絶望していましたが、最後には次回の大皿まで約束してもらえました。
そして、十歳で料理ランキング二十二位となったアイの話を聞き、ダッカスも興味を持ったようです。
長く料理ランキングの頂点に立っていた人物と、これから上位を目指す小さな料理人。
二人が出会った時、アイが何を感じ、どんな料理へ繋げていくのか。
次回もよろしくお願いします。




