第36話 ローランカーの拳
第36話です。
大河が初めて挑むミドルランカー戦。
対戦相手は、現王が所属するスターエルミナスのセレナでした。
見慣れないサウスポーの構えと、優れた動体視力に苦戦する大河。
それでも学院で教わった新しい身体の使い方を武器に、格上へ挑みます。
係員が片腕を上げると、闘技場を満たしていたざわめきが、波の引くように静まっていった。
天井近くの窓から差し込む午後の光が、舞台の中央を斜めに横切っている。白く照らされた砂の上には、これまでの試合で刻まれた無数の足跡が重なり、その一部は靴底に削られて浅い溝となっていた。乾いた土の匂いに、観客席から流れてくる汗と革具の匂いが混じり合う。大河が息を吸うたび、冷えた石造りの建物とは対照的な、戦いの熱を帯びた空気が喉の奥へ入り込んできた。
正面に立つセレナは、右足を後ろへ引き、左の拳を頬の近くに置いている。前へ差し出された右手は力んでおらず、指を軽く握ったまま、大河との距離を測るように小さく揺れていた。
身体の向きも、拳の位置も、これまでに対した者とは逆になる。
大河はセレナの左肩から腰、そして砂を踏む足元へと視線を滑らせた。左利きの相手と本格的に拳を交えるのは初めてだった。右構えの相手なら自然に開くはずの攻撃線が塞がれ、互いの前足が同じ側で向かい合っている。普段と同じ感覚で踏み込めば、足が交差し、動きを止められるかもしれない。
それでも、胸の奥は不思議なほど静かだった。
数日前、学院の訓練場で向き合ったキュベリーの姿が脳裏に浮かぶ。こちらがどれほど速く踏み込んでも、元ゴールドランカーの身体は、風に押された草のようにわずかに動くだけだった。拳を振るう前から行き先を知られているような、触れられない距離。その感覚に比べれば、今、正面にいるセレナの呼吸も、肩の動きも、はっきりと目に映っている。
「始め!」
係員の腕が振り下ろされた。
直後、セレナの前足が砂を擦った。
身体が大きく動くより先に、右の拳が大河の顔へ伸びてくる。間合いを測るための軽い打撃に見えたが、その拳の後ろには、腰をひねる準備がすでに整っていた。右を避けた先へ左を打ち込むつもりなのだろう。
大河は半歩だけ後ろへ下がった。
拳が鼻先を通り過ぎ、巻き上げられた空気が頬を撫でる。続いてセレナの左肩が沈み、腰から押し出された拳が真っ直ぐ胸元へ走ってきた。
速い。
けれど、見失うほどではない。
大河は上体をわずかに右へずらした。左拳が衣服の表面をかすめ、乾いた布の音を残して抜けていく。その脇を通り過ぎるセレナの腕を見ながら、大河は拳を握った。
踏み込める。
そう思った時には、セレナの右足がすでに砂を蹴っていた。身体を素早く引き戻し、大河の拳が届くより先に間合いの外へ抜けている。
互いの靴底が砂を削り、薄い砂煙が二人の間へ立ち昇った。
観客席から遅れて声が漏れる。
「今のを両方かわしたのか?」
「偶然だろ。セレナもまだ様子を見ている」
大河の耳にも届いたが、視線は正面から外さなかった。
セレナは先ほどと同じ構えへ戻りながら、細く息を吐いた。表情にはまだ余裕が残っているものの、大河の顔ではなく、足元へ一度だけ視線が落ちた。最初の攻防で、自分の間合いを外された理由を探しているらしい。
今度は大河から動いた。
両足の間に置いていた重心を崩さず、前足で砂を押す。一気に距離が縮まり、セレナの瞳が大きく開いた。
右の拳を顔へ向ける。
セレナは首を左へ傾け、拳の軌道から外れた。避け方は小さい。身体全体を逃がすのではなく、当たる場所だけをずらしている。
大河は拳を引き戻すと同時に左を放った。
セレナの腰が沈み、二発目も頭上を通り過ぎる。束ねられた長い髪が拳の起こした風にあおられ、細い毛先が大河の指に触れた。
そこから腹部へ拳を落とそうとした瞬間、セレナが大きく後方へ跳んだ。
靴底が砂を蹴り上げ、距離が再び開く。
「惜しいのです!」
静まりかけていた闘技場へ、甲高い声が響き渡った。
観客席の前方で、ポルポルが欄干から身を乗り出している。小さな翼を忙しく羽ばたかせ、短い両手を振り回しながら、大河へ向かって声を張り上げていた。
「今のは、あと毛一本くらいだったのです!」
「毛一本では分かりにくいのう」
隣に座るエリカは、細い脚を組み、頬へ片手を添えていた。口元には穏やかな笑みを浮かべているが、その目は大河とセレナの足運びを休むことなく追い続けている。
「じゃが、あの娘もよう見えておる。普通の者なら、二発目で終わっておったじゃろうな」
エリカの声を聞きつけた近くの男が、横目で彼女を見た。見た目だけなら、戦いとは無縁に思える年若い少女である。ところが腰の曲がった老人のような口調で話しながら、舞台の攻防を当然のように見抜いている。
男は何か言いかけたものの、再び始まった足音に顔を戻した。
大河は左右へ小さく動きながら、セレナの反応を確かめていた。
踏み込みに対する反応が速い。
こちらの肩が動くより先に避けているわけではない。拳が放たれてから、その軌道を目で追い、必要な方向へ身体を動かしている。視線がぶれず、頭を振られても、大河の拳から目を離さない。
目がいい。
それも、並の良さではない。
速度だけで押し切ろうとすれば、わずかにかすめることはできても、深く打ち込む前に逃げられる。先ほど指先に触れた髪が、その事実を示していた。
セレナが再び距離を詰めてくる。
前へ出した右拳が二度、小さく揺れた。大河がその動きへ注意を向けた瞬間、砂を蹴る音が低く響く。身体を滑らせるように踏み込み、左拳が脇腹を狙って迫った。
大河は腰を引き、拳の先端を外した。
すぐに右が顔へ上がってくる。上体を沈め、その下をくぐる。視界の端をセレナの腕が横切り、汗と革の匂いが一瞬だけ濃くなった。
反撃に移ろうとすると、セレナはもう離れている。
大河は追わなかった。
キュベリーであれば、今の攻撃をもっと小さな動きで避けていただろう。むしろ、こちらが反撃しようと考えた時には、その先まで読んで位置を変えていた。
それに比べれば、セレナには追いつける。
無理に急ぐ必要はない。
「なんじゃ、ずいぶん落ち着いておるではないか」
エリカが目を細めた。大河の呼吸は乱れておらず、肩も上下していない。以前なら、拳が届かない焦りから前へ前へと身体を傾けていたはずだった。
「大河さん、頑張るのです! ポルポルには勝つところがもう見えているのです!」
「そなたのは願望じゃろう」
「未来予知かもしれないのです!」
ポルポルは胸を張ったが、大きく膨らんだ毛に隠れ、どこが胸なのかよく分からない。周囲から小さな笑い声が起こり、それまで張り詰めていた観客席の空気が一瞬だけ緩んだ。
舞台の中央では、セレナの表情から笑みが消えていた。
大河が追ってこないことを警戒しているのか、左拳を頬へ寄せたまま、慎重に円を描くように歩いている。額には細かな汗が浮かび、束ねた髪の生え際を濡らしていた。
彼女の視線が、向かい合う大河の肩から拳へ、拳から足元へと移る。
これまでなら、速さを見せつければ相手は下がった。避け続ければ焦り、やがて大振りになる。そこへ左を合わせれば、ミドルランカーの多くを沈めることができた。
だが、大河は呼吸さえ変えていない。
攻撃を外しても表情を崩さず、こちらの動きを観察している。その目に追い詰められているような色はなく、試す側と試される側が、いつの間にか入れ替わっていた。
セレナの左足が一歩前へ出る。
大河が同じだけ下がる。
さらに詰めると、大河は今度は下がらず、身体をわずかに横へずらした。
セレナの眉間に細い皺が刻まれる。
踏み込む。
右拳を伸ばし、顔を狙う。大河が左へ動こうとしたところへ、拳を途中で引いた。右は囮。そのまま腰を回し、本命の左を打ち込む。
拳は大河の顎を捉える軌道に乗っていた。
それでも、手応えはなかった。
大河の頭が拳一つ分だけ後ろへ退き、左の拳は前髪を揺らしただけで空を切った。
セレナが息を呑む。
大河の右拳が、目の前へ迫っていた。
咄嗟に顔を傾ける。拳が頬を薄くこすり、熱い線が皮膚の上に走る。身体をひねって二発目もかわしたが、今度は大河の拳が肩をかすめた。
靴底を滑らせながら後退し、ようやく間合いを外す。
頬に触れると、指先へわずかな赤が付いた。
観客席がざわめき始める。
「セレナに当てたぞ」
「いや、浅い。まだ効いてない」
「だが、押しているのはあっちじゃないか?」
表示板へ目を向けた誰かが、そこに浮かぶ大河の順位を確認した。
「七百五十七位……ローランカー?」
「本当か? ミドル相手の動きじゃないぞ」
「登録を始めたばかりなんじゃないか?」
低く交わされていた声が、少しずつ周囲へ広がっていく。大河という名を知らなかった者まで、表示板と舞台を交互に見比べ始めていた。
大河の耳にも「ローランカー」という言葉が届いた。
だが、目の前のセレナから意識を外さない。
セレナの足運びが、先ほどまでよりわずかに大きくなっている。頬をかすめられたことで、今度は自分から決めに来るつもりらしい。呼吸を整えようとしているものの、息を吸うたびに肩がかすかに持ち上がっていた。
大河は拳を構えながら、足裏へ意識を落とした。
砂の粒が靴底の溝へ入り込み、踏みしめるたびに細く軋む。身体の重さは両足の中央に残っている。どちらへでも動ける。前にも、後ろにも。
キュベリーの声が、記憶の奥から静かに蘇った。
速さを隠す必要はない。
速さを支配しろ。
大河は一度、深く息を吐いた。
その仕草を、セレナは隙と見た。
右足が強く砂を蹴る。身体が前へ伸び、右の拳が大河の視界を塞ぐように突き出された。続く左を当てるため、これまでより深い踏み込みだった。
大河は右拳を外側へかわす。
やはり左が来る。
セレナの腰が鋭く回り、全身の力を乗せた拳が大河の顔へ迫った。
その瞬間、大河の目は拳ではなく、セレナの足元を捉えていた。
深く踏み込んだ左足。勢いを受け止めるはずの後ろ足が、砂の上でわずかに浮いている。身体の重さが前へ流れ、すぐには戻れない。
キュベリーとの訓練で、何度も自分が犯していた動きだった。
大河は上体を傾けず、身体の中心を残したまま、半歩だけ横へ滑った。
左拳が頬のすぐ脇を通り過ぎる。
セレナの瞳が大河を追う。しかし、流れた身体は視線ほど速く動かない。
大河は砂を踏みしめた。
腰を回し、拳を短く引く。大きく振りかぶる必要はなかった。開いた腹部へ向け、最短の軌道で右拳を打ち込む。
鈍い衝撃が拳へ返ってきた。
セレナの身体が折れ、肺から押し出された空気が、かすれた音となって漏れる。目を見開いたまま数歩後退しようとしたが、足が砂を滑り、片膝をついた。
舞台を満たしていた声が途切れた。
セレナは腹部を押さえながら顔を上げた。立とうとして前足へ力を込めるものの、身体が持ち上がらず、膝が再び砂へ沈む。唇を噛み、もう一度腕を支えに立ち上がろうとする。それでも呼吸が戻らず、肩だけが小刻みに揺れていた。
係員が二人の間へ入り、セレナの様子を確かめる。
数を数える声が、静まり返った闘技場へ一つずつ響いた。
最後の数字が告げられても、セレナは立ち上がれなかった。
「勝者、望月大河!」
係員が大河の腕を掲げる。
その瞬間、観客席の前方から、ひときわ大きな歓声が弾けた。
「大河さんの勝ちなのです!」
ポルポルが欄干を飛び越えそうな勢いで身を乗り出し、小さな両手を振り回している。隣のエリカは慌ててその尻尾をつかみ、落ちそうになった身体を引き戻した。
「こら、勝った直後にそなたが落ちてどうする」
「でも勝ったのです! すごいのです!」
「見れば分かるわい。ほっほっほ、教えた魔法は使わなんだが、なかなかよいものを見せてもらったのう」
笑いながらも、エリカの目は大河の足元へ向けられていた。最後の一撃よりも、その前に見せたわずかな移動を確かめるように、何度も小さく頷いている。
やがて観客席の沈黙も解け、あちらこちらから声が湧き上がった。
「ローランカーが勝ったぞ」
「本当に七百五十七位なのか?」
「セレナは四百三十六位だぞ。しかもスターエルミナスの所属だ」
「大河って名前、聞いたことがあるか?」
「いや、知らない。だが、あの速さは……」
大河は掲げられた腕を下ろし、膝をついたままのセレナへ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
手を差し出すと、セレナはすぐには握ろうとせず、大河の顔を見上げた。額から流れた汗が頬を伝い、先ほど拳がかすめた場所には細い赤い線が残っている。
「……ローランカーなのよね?」
息を整えながら絞り出した声には、責めるような響きよりも、表示板の数字をまだ信じ切れない戸惑いが滲んでいた。
「今の順位は、そうみたいです」
「そうみたいって……」
セレナは眉を寄せたが、やがて力なく息を吐き、差し出された手を握った。
大河が引き上げると、彼女は少しよろめきながらも自分の足で立った。腹部を片手で押さえ、観客席へ向かおうとしてから、ふと足を止める。
「次に戦う時は、もうローじゃないでしょうね」
振り返った灰色の瞳には、敗れた痛みとともに、次は同じように終わらせないという硬い光が宿っていた。
大河は短く頷いた。
セレナが舞台を下りていく背後で、表示板の数字が光を帯びて切り替わり始める。結果を知らせる音が高い天井へ反響し、その下では、観客たちがまだ大河の名前を口にしていた。
ローランカーの勝利。
王の所属するスターエルミナスの一員を倒した、見知らぬ男。
その小さなざわめきは、砂の上へ残された足跡のように、この日、ランキング協会の片隅へ確かに刻まれていた。
第36話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河は素手格闘ランキング四百三十六位、ミドルランカーのセレナに勝利しました。
キュベリーから教わった重心の使い方は、単に踏み込みを速くする技術ではありません。
自分の身体を崩さず、相手が崩れた瞬間を見逃さない。
大河は今回の戦いで、その意味を実戦の中で掴み始めました。
そして、王が所属するスターエルミナスの一員を倒したことで、大河の名は少しずつ周囲へ広がり始めます。
この勝利によって順位とポイントがどう変わるのか。
さらに、セレナの敗北がスターエルミナスへどのように伝わるのか。
次回もよろしくお願いします。




