第35話 王の名を背負う者
第35話です。
学院へ通い始めて数日。
キュベリーから教わった重心の使い方は、大河の格闘だけでなく、魔法にも変化をもたらしていました。
そして最初の休み、大河はついにミドルランカーへ挑戦します。
対戦相手は、現王が所属するグループ「スターエルミナス」のセレナ。
学院で得た新たな一歩は、実戦でも通用するのでしょうか。
学院へ通い始めてから数日が過ぎ、ようやく最初の休みが訪れた。
朝の空には薄い雲が長くたなびき、その切れ間から差し込む光が、街外れの草地を淡い金色に染めていた。夜の名残を抱いた草葉にはまだ朝露が残り、風が渡るたび、無数の小さな光が地面近くで揺れる。土と青葉の匂いに混じって、焼けた木の乾いた匂いが漂っていた。
大河の正面では、掌ほどの炎が静かに揺れている。
赤い火の中心には白に近い光が浮かび、その周囲を細い炎が幾重にも取り巻いていた。以前のように形を失って膨らむことはなく、横から風を受けても輪郭はほとんど崩れない。大河が指先をわずかに動かすと、炎もその意志をなぞるように向きを変えた。
「そのままじゃ。大きくしようとせんでよい」
少し離れた場所に立つエリカが、炎から目を離さずに声をかけた。見た目だけなら、大河よりずっと年下に見える。肩へ流した髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、幼さの残る頬には薄い赤みが差していた。それでも、細められた瞳や、腰の後ろで手を組む仕草には、長い年月を生きた者だけが持つ落ち着きが滲んでいる。
「魔力を押し出すのではないぞ。流れを整えるのじゃ。急げば炎はそなたの言うことを聞かん」
大河は小さく息を吸い、足裏へ意識を向けた。
湿り気を含んだ土の柔らかさが、靴底越しに伝わってくる。両足の間へ身体の重さを落とし、肩や腰から余分な力を抜いていく。キュベリーに指摘されるまで、自分がどれほど前へ出ようとしていたのか気づかなかった。拳を放つ時も、走り出す時も、魔法を撃つ時でさえ、意識は常に目標の方へ傾いていた。
今は違う。
身体の中心はここに残したまま、魔力だけを前へ運ぶ。
胸の奥に集まった熱が、肩を通り、腕へ流れていく。以前のような引っかかりはない。指先にまとわりついていた熱が細い一本の筋へ変わり、掌の上に浮かぶ炎がわずかに縮んだ。
「行きます」
腕を伸ばした瞬間、炎が空気を切り裂いた。
甲高い音を残しながら、火球が草地の上を真っ直ぐ走る。二十歩ほど先に立てられた木の的へ吸い込まれるように突き刺さり、乾いた破裂音とともに黒い木片が飛び散った。
火の粉が朝の光の中へ舞い上がり、焦げた木屑が草の上へ落ちる。的の中央には拳ほどの穴が開き、その縁から細い煙が立ち昇っていた。
「真ん中なのです!」
頭上から弾んだ声が降ってきた。
ポルポルは小さな翼を忙しく動かし、大河と的の間を何度も往復している。桃色がかった毛がふわりと膨らみ、短い手足を大きく広げたまま空中で一回転した。
「大河さん、今のは真ん中だったのです! しかも前よりずっと速かったのです!」
「見れば分かるわい。少し静かにせんか」
そう言いながらも、エリカの声は普段よりわずかに高かった。彼女は裾が露で濡れるのも構わず的のそばまで歩いていき、黒く焼けた穴を覗き込む。指先で縁へ触れかけ、まだ熱が残っていると気づいたのか、すぐに手を引いた。
その横顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「ほう……威力を落とさず、ここまで細く絞ったか」
エリカは的と大河の距離を見比べるように視線を往復させ、それからゆっくり振り返った。
「数日前までは、どこへ飛ぶか分かったものではなかったというのにのう。学院で魔法の手ほどきでも受けたのか?」
「まだ本格的な魔法の授業は始まっていません。教わったのは身体の使い方です」
「身体の使い方とな?」
エリカの眉がわずかに上がる。
大河はもう一度足を開き、両足の間へ重心を置いた。見た目には大きな変化はない。ただ、以前のように前へ踏ん張る必要がなくなり、呼吸をするだけで肩から力が抜けていく。
「踏み込む時、重心が前へ流れすぎていると言われました。身体の中心を残すようにしたら、魔力も前より安定したんです」
エリカは大河の足元へ視線を落とし、そこから膝、腰、肩へとゆっくり目を移していった。やがて自分も同じように足を開き、重心を左右へ移しながら、確かめるように小さく頷く。
「なるほどのう。身体まで魔力に引かれておったわけか。そなたは何でも力で押し切ろうとする癖があるからの」
「そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすいも何も、最初の頃は炎を出すたび、そなたまで前へ転びそうになっておったぞ」
エリカが喉の奥で小さく笑う。見た目だけなら少女の無邪気な笑顔に見えるのに、口調だけは孫の失敗を懐かしむ老婆のようだった。
大河が苦笑すると、彼女はすぐに的の脇へ立つ細い杭を指さした。風が吹くたび、先端がかすかに揺れている。
「では次は、あれを狙ってみるがよい」
「杭ですか?」
「そうじゃ。今の一発が偶然でないなら、あれくらい当てられるじゃろう」
目を細めたエリカの顔には、試す側というより、自分まで挑戦するような色が浮かんでいた。
「まだやるのです?」
大河の肩へ降りたポルポルが首を傾げる。エリカは胸の前で腕を組み、当然だと言わんばかりに顎を上げた。
「当たり前じゃ。ここで満足してどうする。大河は王になるのであろう?」
「そうなのです! 大河さんは王になるのです!」
ポルポルはたちまち勢いを取り戻し、大河の肩から飛び立った。
それから昼が近づくまで、草地には何度も火球の音が響いた。
最初の一発は杭の右側をかすめ、火の粉だけを散らした。二発目は根元の土を黒く焦がし、湿った地面から細い湯気を立ち上らせた。大河は焦げた匂いを吸い込みながら、指先に残る熱と、自分の足裏へかかる重さを確かめる。
力を込めるほど、炎はわずかにぶれる。
ならば、込めるのではなく通す。
身体の中心を動かさず、魔力だけを真っ直ぐ前へ滑らせる。
三発目の炎は、風に揺れる杭の中央へ吸い込まれた。乾いた音とともに木が裂け、細い破片が左右へ飛び散る。
「当たったのです!」
ポルポルの歓声が草地いっぱいに広がった。
エリカも思わず両手を叩き、すぐに我に返ったように咳払いをした。しかし、頬に浮かんだ笑みは消えない。杖も持たず、魔法を初めて覚えてからまだ日が浅い大河が、狙った場所へ炎を通した。その事実を何度も確かめるように、砕けた杭と大河を交互に見ていた。
「まったく、妙な男じゃのう。身体の動きを一つ直しただけで、魔法までこれほど変わるとは」
「エリカさんの教え方がよかったんですよ」
「ほっほっほ。そういうことにしておくかの」
エリカは満足そうに頷くと、砕けた杭の前へしゃがみ込んだ。幼い容姿に似合わぬ老成した仕草で髪を耳へかけ、黒く焦げた断面をじっと覗き込む。その背後では、ポルポルがまだ興奮冷めやらぬ様子で、大河の周囲を飛び回っていた。
午後になると、三人はランキング協会へ向かった。
石造りの大きな建物へ足を踏み入れた瞬間、外の柔らかな空気とは異なる熱気が肌を包んだ。高い天井の下では幾つもの声が重なり、受付の奥から書類をめくる乾いた音や、係員が名前を呼ぶ声が絶え間なく聞こえてくる。壁に設置された巨大な表示板では、成立した対戦や更新された順位が淡い光となって流れ、文字が切り替わるたび、周囲の人々の視線が一斉に動いた。
汗と革、それに石床へ染み込んだ土の匂いが混じっている。訓練場とは違う、勝敗が数字となって残る場所の空気だった。
大河は素手格闘部門の受付へ進み、係員から差し出された申請板へ手を置いた。表面に青白い文字が浮かび、挑戦可能な階級が順番に並ぶ。
「挑戦する帯枠を選択してください」
受付の女性が静かに告げた。
大河は迷わず、ミドルランカーの区分へ指を触れる。淡い光が指先から広がり、申請済みの文字へ変わった。
「承認者が現れるまでお待ちください。成立した場合、表示板と登録票へ通知が届きます」
受付を離れた大河は、壁際に設けられた長椅子へ腰を下ろした。エリカもその隣へ座り、ポルポルは当然のように彼女の膝の上へ丸くなる。
「エリカさん、午前中の訓練で疲れたでしょう。無理に来なくてもよかったのに」
大河が横を見ると、エリカは頬杖をつきながら表示板を眺めていた。細い指先が頬へ食い込み、若い顔立ちが少しだけ幼く見える。
「何を言うておる。せっかくの休みじゃ。わしがどこで何を見ようと、わしの勝手じゃろう」
そう答えてから、彼女は視線だけを大河へ向けた。
「それに、午前中あれだけ変わった者が、実戦でどう動くのか見届けたくなってのう。そなた一人だけ面白いものを見るなど、ずるいではないか」
口元には薄い笑みが浮かんでいる。大河が返す言葉を探している間に、膝の上のポルポルが勢いよく身体を起こした。
「ポルポルも応援するのです! 大河さんは絶対に勝つのです!」
よく通る声に、近くにいた何人かが振り返る。大河は苦笑しながらポルポルの頭を撫で、その声を少し抑えるように指先で柔らかな毛を整えた。
「まだ相手も決まってないよ」
「決まったら勝つのです!」
「ほっほっほ。頼もしい応援じゃな」
待つ時間は、思っていたより長く感じられた。
表示板では幾つもの対戦が成立し、そのたびに歓声やため息が上がる。名前を呼ばれた者が立ち上がり、通路の奥へ消えていく。大河は膝の上で両手を組み、時折、靴底へ力をかけながら自分の重心を確かめていた。
キュベリーの動きが脳裏に蘇る。
拳を避けるたび、ほとんど姿勢を崩さなかった元ゴールドランカー。攻撃を受け流すのではなく、最初からそこにいなかったかのように、必要な分だけ身体を動かしていた。
あの動きに比べれば、自分にはまだ無駄が多い。
それでも、数日前までとは違う。今なら実戦の中で確かめられる。自分の一歩が、どこまで通用するのかを。
不意に、協会内へ高い通知音が響いた。
三人が同時に顔を上げる。
大河の持つ登録票が青白く光り、同時に表示板の一角へ新たな文字が浮かび上がった。
素手格闘ランキング、四百三十六位。
セレナ。
階級はミドルランカー。その名の横には、所属グループを示す紋章と文字が刻まれている。
「スターエルミナス……」
大河が読み上げた瞬間、ポルポルの耳が勢いよく立った。
「大河さん、あれは王が所属しているグループなのです!」
膝の上から飛び上がり、表示板の近くまで羽ばたいていく。文字を見間違えていないか確かめるように、その場で何度も上下へ揺れた。
エリカもゆっくり立ち上がった。腕を組み、先ほどまで浮かべていた笑みを消すと、細めた目で表示板を見上げる。
「スターエルミナスか。ほっほっほ、最初から面白い相手を引き当てたものじゃのう」
「そんなに強いグループなんですか?」
大河が尋ねると、エリカは表示された紋章から目を離さないまま頷いた。
「三大グループの筆頭にして、現王が身を置く場所じゃ。王一人の名で大きくなった集まりではない。そこへ属する者は、それぞれが相応の力を認められておる」
「四百三十六位でも?」
「順位だけで選んでおるわけではなかろうが、少なくとも名ばかりの者ではないじゃろうな」
エリカはそこで言葉を切り、大河の横顔を見上げた。その目には心配よりも、相手の正体を知ったことでさらに深まった興味が浮かんでいる。
「どうした。怖じ気づいたかの?」
大河は表示板へもう一度目を向けた。
王の所属するグループ。その名を見ただけで、胸の内側へ静かな重さが生まれていた。目指す場所が、これまでよりわずかに輪郭を持ったように感じる。
「いえ。むしろ、戦ってみたいです」
答えると、エリカは目尻を下げ、満足そうに頷いた。
「それでこそじゃ」
登録票に示された対戦場所は第三闘技場だった。
足元へ転移陣が浮かび上がる。
幾何学模様が淡く光を放ち、足先から身体全体を包み込んでいく。景色が白く霞み、耳の奥で低い振動が一度だけ響いた。
次の瞬間、足裏へ乾いた砂の感触が伝わる。
円形の闘技場。
石造りの観客席を見上げると、すでに何人もの観客が席へ着き、静かなざわめきが空間を満たしていた。乾いた砂の匂いと、幾度も勝負を見届けてきた空気が肌へまとわりつく。
係員に案内され、エリカとポルポルは観客席へ向かう。
大河は一人、闘技場の中央へ足を進めた。
「大河さん、頑張るのです!」
「無茶はするでないぞ。とはいえ、今のそなたなら少しくらいは無茶をしても構わんがの」
エリカはそう言って、楽しげに喉を鳴らした。
大河は舞台の中央へ足を進める。靴底が砂へ沈み、乾いた粒が足首へ触れた。午前中の湿った草地とは違い、ここには汗と土、それに幾度も戦いが行われてきた場所特有の熱い匂いが染みついている。
反対側の入口で、金属製の扉がゆっくりと開いた。
暗い通路の奥から、一人の女性が歩いてくる。
長い髪を後ろで一つに束ね、身体に沿う濃紺の戦闘着をまとっていた。細身ではあるが、歩くたびに肩や腰の筋肉が滑らかに動き、砂の上へ置かれる足には迷いがない。
セレナは舞台の中央近くまで来ると、大河を静かに見つめた。年齢はそれほど変わらないように見える。整った顔立ちには柔らかさが残っていたが、淡い灰色の瞳は、大河の全身を測るように冷静に動いていた。
係員が両者の間へ立ち、名前と順位を読み上げる。
その声を聞きながら、大河はセレナの足元へ目を向けた。
彼女は右足を後ろへ引き、左足を前へ出した。左の拳が頬の近くへ上がり、右手がわずかに前へ伸びる。
見慣れた構えとは、すべてが逆だった。
サウスポー。
セレナは左肩越しに大河を見据えると、唇の端をほんの少し持ち上げた。
観客席では、ポルポルが欄干から身を乗り出し、その隣でエリカが腕を組んで舞台を見つめている。年若い少女にしか見えないその横顔には、長い時を生きた者の静かな眼差しが宿っていた。
大河は足裏で砂の感触を確かめ、身体の中心へ重さを落とした。
キュベリーの声が、胸の奥で蘇る。
速さを出すな。
速さを支配しろ。
正面では、王のグループに所属するミドルランカーが、音もなく左拳を構えていた。
第35話を読んでいただき、ありがとうございました。
キュベリーから教わった身体の使い方によって、大河は火球の速度と精度まで高めることができました。
格闘と魔法は別の技術に見えても、どちらも身体と魔力を正しく扱うことが重要なのかもしれません。
そして大河が初めて挑むミドルランカーは、素手格闘ランキング四百三十六位のセレナ。
しかも、現王が所属するスターエルミナスの一員です。
さらに相手は、大河がまだ戦い慣れていないサウスポー。
学院で手に入れた新たな踏み込みを武器に、大河は格上の相手へ挑みます。




