第34話 一流の重心
第34話です。
元ゴールドランカーのキュベリーを相手に、大河は学院で初めて本格的な指導を受けます。
五十メートル走一位の速さを持ちながら、なぜ攻撃が届かないのか。
その答えを知った時、大河の踏み込みは新たな形へ変わり始めます。
踏み込みと同時に、訓練場の床が低く鳴った。
大河の身体は、弾かれた矢のようにキュベリーとの距離を消した。石造りの壁に囲まれた訓練場を冷たい風が抜け、窓から射し込む白い光の中で、制服の裾が鋭く翻る。見守っていた生徒たちの息遣いが一瞬止まり、壁際から誰かの靴底が床を擦る音だけが聞こえた。
正面から放った拳は、迷いなくキュベリーの胸元へ向かっていた。
だが、手応えはなかった。
拳が届く直前、キュベリーの身体がわずかに横へずれた。大きく跳んだわけでも、素早く身を引いたわけでもない。肩幅の半分にも満たない動きで、大河の拳だけが何もない空間を貫いていく。
空を切った拳の先で風が鳴った。
大河は前へ流れかけた身体を右足で支え、床を強く踏みしめて振り返る。視界の中央には、先ほどとほとんど変わらない姿勢のキュベリーが立っていた。両腕は下ろされたまま、呼吸すら乱れていない。
「今のを避けたのか……」
声が漏れたのは、壁際に並ぶ生徒の一人だった。その隣では、ライズが口を引き結び、大河の足元へ視線を落としている。
キュベリーは大河から目を逸らさず、片手を軽く持ち上げた。
「俺からは攻撃しない。一撃でも当ててみろ」
淡々とした声だった。挑発するような笑みも、相手を軽んじる響きもない。それだけに、その言葉は訓練場の冷えた空気へ重く沈んだ。
大河は返事をせず、再び腰を落とした。
最初の一撃を避けられたことよりも、キュベリーがいつ動いたのか分からなかったことが胸に引っかかっていた。拳が届く瞬間まで、確かに正面にいたはずだ。それなのに、こちらが踏み込んだ時には、すでに逃げ道を選び終えていたように思える。
床を蹴り、今度は正面からではなく、左へ回り込む。キュベリーの視線がわずかに動いた。それを捉えた大河は、踏み込む方向を途中で変え、右の拳を顔へ向けた。
また、空を切った。
キュベリーは首を傾けただけだった。拳が頬のすぐ脇を抜けると、大河の袖が起こした風に短い髪が揺れる。それでも足元は動いていない。
大河は止まらなかった。着地した右足を軸に身体をひねり、左の拳を繰り出す。続けて脇腹を狙い、さらに距離を詰める。拳が風を裂くたびに乾いた音が響き、床へ落ちた細かな砂埃が二人の足元で舞い上がった。
しかし、届かない。
キュベリーは大河の攻撃に合わせ、必要な分だけ身体をずらしていた。半歩退き、腰を引き、肩を沈める。その一つ一つはゆっくり見えるほど小さいのに、大河の拳は指一本触れることができなかった。
見えているはずなのに、追いつけない。
額ににじんだ汗が眉を伝い、目尻へ入りそうになる。大河は瞬きをこらえながら、キュベリーの胸元を見つめた。呼吸の動き、肩の上下、足先の向き。どこかに次の動きを知らせる兆しがあるはずだった。
だが、何もない。
キュベリーの身体は、静かな水面のように力みがなかった。動き出す直前まで、どちらへ避けるのか本人以外には分からない。いや、本人ですら決めておらず、大河が動いた瞬間に最も近い逃げ道を選んでいるようにも見えた。
次の一撃へ踏み込もうとしたところで、キュベリーの掌が目の前に上がった。
「止まれ」
大河は足を止めた。勢いを殺しきれず、靴底が床の上を短く滑る。熱を帯びた呼吸が喉を擦り、訓練場の乾いた空気が胸の奥へ流れ込んだ。
キュベリーは大河の顔ではなく、足元を見ていた。
「速さは十分だ。ここにいる生徒の中で、お前の踏み込みに反応できる者はほとんどいないだろう」
壁際がわずかにざわめいた。何人かの生徒が互いの顔を見合わせる中、ライズだけは視線を逸らさなかった。握った拳が制服の脇で小さく震えている。
キュベリーはしゃがみ込み、床に残った大河の足跡を指先でなぞった。薄く積もった砂埃の上に、前へ深く踏み込んだ跡が残っている。
「だが、お前は速さを出そうとするたび、重心を前へ流しすぎる」
「重心……」
大河も自分の足跡へ目を落とした。踏み込んだ右足の跡は深く、つま先側へ強く力がかかっている。その先には、身体を止めるために引きずった短い線が伸びていた。
「最初の一歩は速い。だが、その後に身体を支えるための動きが必要になる。止まるにも、向きを変えるにも、一度崩れた重心を戻さなければならない。その間、お前の身体は速さを失っている」
キュベリーは立ち上がり、自分の足を肩幅ほどに開いた。上半身には力を入れず、膝をわずかに緩める。何の変哲もない立ち方に見えたが、押しても引いても動かない石柱のような安定感があった。
「前へ飛ぼうとするな。身体の中心を残したまま、足だけで距離を奪え」
大河は言われた通りに構え直した。先ほどまで無意識に前へ傾けていた上体を起こし、両足の間へ自分の重さを落とす。靴底の内側へ均等に圧がかかり、床の冷たさが薄い革越しに伝わってきた。
陸上競技では、より強く地面を蹴り、前へ身体を運ぶことばかり考えていた。スタートでは重心を前へ倒し、そのまま加速へつなげる。それは一直線に走るためには正しかった。
だが、戦いでは相手が動く。
前へ出た後に、止まり、曲がり、避けなければならない。速く進むだけでは、次の動きが消えてしまう。
「もう一度だ」
キュベリーが元の位置へ戻った。
大河は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。胸の奥に残っていた熱が、吐息とともに外へ逃げていく。目の前のキュベリーだけを追うのではなく、自分の身体の中心へ意識を向けた。
床を強く蹴ろうとせず、足裏で押す。
身体を前へ投げず、中心を残す。
次の瞬間、大河の視界から周囲の景色が後方へ流れた。
先ほどより力を入れた感覚はない。それでもキュベリーの姿が一気に近づく。右の拳を放つと同時に、相手の肩が左へ動いた。
大河はその動きを見てから、床へ残した後ろ足を滑らせた。
拳の軌道が変わる。
キュベリーの瞳が、初めてわずかに見開かれた。
大河の拳は頬のすぐ脇を通り、風圧が灰色の髪を揺らした。触れてはいない。それでも、先ほどまでとは明らかに違っていた。
キュベリーは半歩下がっていた。
訓練場から音が消えた。舞い上がった砂埃が、窓から射す光の筋の中をゆっくり落ちていく。壁際では、生徒たちが目を見開いたまま動けずにいた。
「一度で……」
ライズの唇から、かすれた声がこぼれた。
彼は自分の足元を見つめ、先ほどキュベリーから受けた指導を思い返すように何度か重心を移した。その額には深い皺が刻まれている。やがて顔を上げると、大河の背中を真っ直ぐに見据えた。悔しさを飲み込むように奥歯を噛み、握っていた拳をゆっくり開く。
キュベリーは頬の横へ手を当て、髪の揺れが収まるのを確かめた。大河を見る目には、先ほどまでとは異なる光が宿っている。
「今の感覚を忘れるな。お前は新しく力を得たわけじゃない。自分で邪魔していた力を、ようやく使えるようになっただけだ」
大河は自分の両手を見下ろした。呼吸は先ほどほど乱れておらず、踏み込んだ後も両足が床を捉えている。すぐに追撃することも、後ろへ退くこともできそうだった。
次の休みには、ミドルランカーと対戦するつもりだ。これまでの自分でも、勝つ力はあると思っていた。だが、今の一歩を知った後では、それまでの動きがひどく重く、無駄の多いものに思えた。
その静けさを破ったのは、天井近くを漂っていたポルポルだった。
「やっぱり大河さんはすごいのです!」
小さな翼を勢いよく羽ばたかせ、大河の頭上をくるりと回る。桃色がかった毛が光を受けてふわりと輝き、その声は訓練場の隅までよく通った。
「大河さんは王になる人なのです!」
今度こそ、誰も息をする音さえ聞こえなくなった。
大河はゆっくり顔を上げた。壁際の生徒たちは目を丸くし、中には隣の者と顔を見合わせる者もいる。ライズも驚いたように大河を見た後、その頭上で胸を張るポルポルへ視線を移していた。
「ポルポル、それは今ここで言わなくても……」
大河が額へ手を当てると、ポルポルは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてです? 本当のことなのです」
どこかで押し殺した笑い声が漏れ、それをきっかけに張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。だが、キュベリーだけは笑わなかった。
元ゴールドランカーは腕を組み、大河の足元から顔へゆっくり視線を上げた。その目は、冗談を聞き流す者のものではない。王という言葉の重さと、目の前の青年が見せた一歩を、静かに秤へ載せているようだった。
「王か」
低い声が、再び訓練場の空気を引き締めた。
キュベリーはそれ以上何も言わず、大河へ背を向ける。その口元に浮かんだものが笑みだったのか、大河には最後まで分からなかった。
第34話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河の速さは、これまで直線へ進むための力でした。
しかし戦いでは、踏み込んだ後に止まり、曲がり、次の動きへつなげなければなりません。
キュベリーの指導によって、大河は自分の力を邪魔していた重心の崩れに気づきます。
そして、一度の助言で動きを修正し、キュベリーを半歩下がらせた大河。
その成長を目の前で見たライズの中にも、強い悔しさと新たな闘志が生まれたようです。
さらにポルポルの一言によって、大河が王を目指していることまで知られてしまいました。
元ゴールドランカーのキュベリーは、その言葉をどう受け止めたのでしょうか。




