第33話 無所属のゴールドランカー
第33話です。
午後の専門授業が始まり、大河は格闘素手部門を担当する教師・キュベリーと対面します。
元ゴールドランカーであり、無所属のまま頂点近くまで上り詰めた男。
そして、これまで何度も視線を交わしてきた灰色の髪の青年の名も、ついに明らかになります。
大河の速さは、学院の実戦訓練でどこまで通用するのでしょうか。
昼休みを終えた学生たちの流れに混じり、大河は格闘素手部門の訓練棟へ戻ってきた。先ほどまで食堂の香ばしい匂いに包まれていたせいか、重い扉の前へ立った途端、汗と革、防具へ染み込んだ油の匂いがいっそう濃く感じられた。壁の向こうからは拳が何かを打つ鈍い音が一定の間隔で響き、時折、床板を震わせるほど鋭い踏み込みが混じる。ポルポルは満腹になった腹を両前足で満足そうに撫でながら、大河の肩近くへ浮かんでいたが、訓練棟から響く音を聞くうちに、丸い耳が少しずつ伏せられていった。
「食堂とは空気が違うのです」
「ここは食べる場所じゃないからな」
大河が扉へ手を掛けると、すぐ横に立っていた灰色の髪の青年も拳当てを締め直した。食堂では向かいの席に座り、ポルポルの騒ぎへ呆れながらも何度か笑っていた男だが、訓練棟を前にした今、その横顔から昼休みの柔らかさは消えている。細い頬の傷と、何度も拳を握ってきた者に特有の厚い指の節が、張り詰めた空気の中でくっきり浮かび上がっていた。
二人が中へ入ると、外から聞いていた音が一気に近くなった。天井の高い訓練場には柱がほとんどなく、長い年月にわたって踏み込まれてきた床には、靴底や裸足が刻んだ細かな傷が無数に残っている。壁際には打撃を受け止める厚い革袋や木製の人形が並び、その一角では学生同士が防具を身につけ、交代で拳や蹴りを打ち込んでいた。技を出すたびに息を短く吐き、受ける側も身体を固めて衝撃へ耐えている。派手な魔法も武器もない。それでも、身体と身体がぶつかる音には、剣術棟とは違う生々しさがあった。
大河が入口近くで足を止めると、何人かの学生が振り返った。初めて見る顔へ向けられる短い視線の中に、食堂で聞いた噂を思い出したような色が混ざる。
「あれが昼の……」
「ポルポルなのです」
小声へ反応して、ポルポルが元気よく前足を上げた。大河は慌ててその身体を引き寄せ、耳元へ顔を寄せる。
「今は静かにしてろ」
「空気は読めるのです」
胸を張って答えた直後、ポルポルの視線は壁際に用意された水差しと、その隣に置かれた果物へ向かった。大河は何も言わず、その顔の前へ手を差し出して視界を遮った。
訓練場の中央では、五十代ほどの男が一人の学生と向き合っていた。身長は大河とそれほど変わらないが、肩から腰へかけての線が驚くほど自然にまとまり、力を込めているようには見えないのに、立っている場所だけ空気が沈んでいる。短く刈った黒髪には白いものが混じり、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。豪壮な体格のボーデンや、強面で威圧感のあるロイドとは違う。細身に見えるほど無駄を削ぎ落とした身体と、静かに相手を見る目だけが、この男の積み重ねてきた年月を伝えていた。
向かいに立つ学生が踏み込み、右の拳を男の顔へ向けて放った。速い。大河がそう思った時には、男の身体がわずかに沈み、拳は頬のすぐ横を空振りしていた。続けて放たれた蹴りにも大きく避けることはなく、腰を半歩引くだけで軌道から外れる。攻撃する学生は焦りを隠せず、呼吸を乱しながら拳を重ねていくが、男は一度も手を出さなかった。
最後の踏み込みが深くなった瞬間、男の右手が学生の手首へ添えられた。掴んだようには見えない。ほんの少し進む方向を変えただけだった。それでも学生の身体は自らの勢いへ引かれ、床へ手をつく寸前まで崩れた。男は倒れる肩を支え、怪我をしない位置へ戻してから静かに手を離した。
「前へ行く気持ちだけで、身体まで前へ捨てるな」
低い声は穏やかだった。学生は荒い息を整えながら何度も頷き、列の後ろへ戻っていく。男はその背中を見送ったあと、入口に立つ大河たちへ視線を向けた。
一瞬だったが、大河は全身を見られたと感じた。ボーデンの眼差しが人間そのものを深く測るものなら、この男の目は身体の奥にある動きまで読み取ろうとしている。肩の高さ、足の向き、呼吸に合わせて揺れる重心。まだ一歩も動いていないのに、走り方や拳の癖まで見抜かれそうだった。
「新入りか」
男がこちらへ歩いてくると、周囲で訓練していた学生たちの動きが少しずつ止まった。誰かに命じられたわけではない。それでも、男が話し始める前に自然と耳を傾ける空気が生まれている。
「望月大河です。今日から仮入学生として参加します」
大河が頭を下げると、男は返事の代わりに目を細めた。視線が大河の足元から膝、腰、肩へと移り、最後に拳の節で止まる。その動きにはボーデンの時のような長い沈黙はなく、必要な箇所だけを鋭く拾い上げていく速さがあった。
「五十メートル走一位。素手格闘七百五十七位」
大河は顔を上げた。男の口から自分の順位が出たことよりも、数字を読み上げる声に驚きも感心も含まれていないことが印象に残った。学院へ入ってから、多くの者が五十メートル走一位へ反応した。しかし、この男にとっては大河を知るための材料の一つにすぎないらしい。
「キュベリーだ。この部門を預かっている」
周囲の学生の一人が、新入りたちへ聞かせるように小さく息を吐いた。
「元ゴールドランカーだぞ」
その囁きに、大河は改めてキュベリーの姿を見た。ゴールドランカー。しかも学院の教師は誰もグループへ所属していない。巨大な組織から装備や情報、訓練環境の支援を受けることなく、無所属のままゴールド帯まで上り詰めたことになる。ボーデンも元ゴールドランカーだが、同じ肩書きであっても、キュベリーの立ち姿から受ける印象はまるで違った。学院を統べる者ではなく、自らの身体だけを長い年月研ぎ澄ませてきた職人。その静かな鋭さが、何よりも強さを物語っていた。
キュベリーは周囲へ集まった学生たちを一度見渡し、灰色の髪の青年へ目を止めた。
「ライズ」
「はい」
青年が迷いなく前へ出る。大河はそこで初めて、何度も同じ作業をし、同じ食卓を囲んだ青年の名を知った。ライズは拳当てを外して壁際へ置き、訓練場の中央へ立つ。腰を落とした構えには荒々しさがなく、片方の足をわずかに前へ出しながら、肩と拳から余計な力を抜いていた。午前中、均し板を引く姿には力任せな部分も見えたが、格闘の構えは身体へよく馴染んでいる。
キュベリーは床へ描かれた線を指先で示した。
「前回の続きだ。踏み込みだけを見せろ」
ライズは短く息を吐き、一歩を踏み出した。床が鳴るほど強く蹴ったわけではない。むしろ静かだった。それでも身体は滑るように前へ進み、拳の届く距離へ一瞬で入っている。続けて後ろへ戻り、角度を変えて踏み込む。何度繰り返しても頭の高さがほとんど動かず、足元だけで距離を詰めていた。
キュベリーは腕を組まず、ただ横から動きを見ていた。三度目の踏み込みで、ライズの後ろ足がわずかに外へ流れる。
「止めろ」
声が落ちると同時に、ライズは動きを止めた。
「疲れると右足が逃げる。分かっているな」
「はい」
「分かっていて直らないなら、分かっていないのと同じだ」
厳しい言葉だったが、ライズは反発する様子を見せなかった。むしろ唇を結び、今の足跡を床で確かめるように何度か視線を動かしている。キュベリーはその姿をしばらく見たあと、大河へ顔を向けた。
「望月」
名前を呼ばれ、大河は自然と背筋を伸ばした。
「お前は初日だ。まず動きを見る」
キュベリーは床の中央へ出るよう顎で示した。周囲の学生たちの視線が一斉に集まり、食堂で向けられた好奇心とは異なる重さが肌へ触れる。ここでは珍しい相棒を連れていることも、五十メートル走一位という記録も、実際に身体を動かすまでは何の意味も持たない。
大河が中央へ進もうとした時、肩の近くにいたポルポルが小さな翼を畳み、真剣そうな顔でキュベリーを見つめた。先ほどから黙っていたため、本当に空気を読んでいるのかもしれないと大河が思った、その時だった。
「キュベリーさんは強いのです?」
訓練場の空気が一瞬止まった。学生たちは声の主を探す必要もなく、一斉にポルポルへ目を向ける。大河は額へ手を当てた。
「静かにしてろって言っただろ」
「大事なことなのです」
ポルポルは悪びれる様子もなく、キュベリーの返事を待っている。周囲の学生の中には笑いをこらえて俯く者もいたが、キュベリーは眉一つ動かさなかった。小さな翼、珍しい毛色、丸い顔を順に眺めたあと、ほんのわずかに目を細める。
「ポルポルだったな」
「名前を覚えていたのです」
「質問の答えは、見て判断しろ」
それだけ答えると、キュベリーは大河へ視線を戻した。ポルポルは何か納得したように頷き、壁際へ飛んでいく。近くの学生たちが場所を空けると、その間へ誇らしげに着地した。
大河は訓練場の中央へ立ち、ライズが先ほど見せたように足を開いた。地球にいた頃、陸上競技のために身体を鍛え、武道も少し学んだ。異世界へ来てからはホフゴブリンと戦い、素手格闘ランキングで七百五十七位にも入った。それでも、キュベリーの前へ立つと、それらが急に頼りなく感じられた。
構えた大河を見て、キュベリーは何も言わなかった。足の位置へ視線を落とし、肩の高さを確かめ、最後に大河の目を見た。
「自由に動け。速さを隠す必要はない」
大河は小さく息を吸った。床の感触を足裏で捉え、正面に立つキュベリーとの距離を測る。周囲から聞こえていた呼吸も、壁際の革袋が揺れる音も、少しずつ遠ざかっていく。
キュベリーは構えていない。両腕を自然に下ろし、ただそこへ立っているだけだった。
それでも、大河にはどこへ踏み込んでも先を読まれるように感じられた。
「始めろ」
静かな声が落ちた瞬間、大河は床を蹴った。
第33話を読んでいただき、ありがとうございました。
格闘素手部門を担当するキュベリーは、派手な威圧感ではなく、無駄を削ぎ落とした動きと観察眼で強さを示す人物です。
そして灰色の髪の青年の名は、ライズ。
努力を積み重ね、細かな癖まで直そうとする彼は、大河にとって大きな刺激となる存在になりそうです。
五十メートル走一位の速さと、素手格闘七百五十七位の実力。
その二つを持つ大河を、元ゴールドランカーのキュベリーはどう見るのか。
次回、大河の学院での最初の実戦評価が始まります。




