第32話 学食の人気者
第32話です。
午後の専門授業を前に、大河たちは学院の食堂へ向かいます。
学費に含まれた料理の数々を前に、ポルポルの食欲は早くも全開。
珍しい姿と遠慮のない食べっぷりによって、二人は思わぬ形で学院中の注目を集めることになります。
格闘素手部門の訓練棟を前にして、大河は重厚な扉を見上げていた。厚い石壁の向こうからは、拳が防具へ食い込む鈍い音と、床を強く踏み込む響きが絶え間なく伝わってくる。開け放たれた高窓から流れ出す空気には、汗と革、それに乾いた木材の匂いが混じり、午前中の作業で疲れた身体へ新たな緊張を呼び起こしていた。
灰色の髪の青年は腰へ結んだ拳当てを直しながら、大河を一度だけ振り返った。朝から何度も向けられてきたその視線には、相手の力量を測ろうとする鋭さが残っている。大河も扉へ手を伸ばしかけた、その時だった。
静かな廊下へ、低く間の抜けた音が響いた。
「ぐぅぅぅぅ……」
大河の手が取っ手の寸前で止まる。灰色の髪の青年も振り返り、二人の視線が同時に宙へ浮かぶポルポルへ向かった。ポルポルは丸い耳を伏せ、小さな前足で腹を押さえている。桃色と紫の毛に覆われていても、気まずそうに身体を縮めたことだけはよく分かった。
「……鳴ったのです」
「聞こえてたよ」
大河が肩から力を抜くと、青年は扉から手を離し、呆れたように片方の眉を上げた。
「授業は午後からだぞ。先に飯を食ってこい」
「まだ時間があるのか?」
「午前の課題が早く終わった分だけな。専門コースの授業が始まれば、途中で腹が減っても抜けられない」
青年は廊下の窓から中央広場の方角へ目を向けた。先ほどまで各棟へ散っていた学生たちが、今度は一つの流れとなって同じ建物へ向かっている。剣を背負った者も、魔導書を抱えた者も、白い調理服の袖を捲った者も、互いに言葉を交わしながら足早に石畳を渡っていた。
「食堂は学費に入ってる。食わない方が損だ」
何でもないことのように告げられた言葉に、大河は思わず青年の顔を見た。
「追加で金はいらないのか?」
「特別な料理を頼まなければな。毎月きっちり取られてるんだ。食えるだけ食っておけ」
その瞬間、腹を押さえていたポルポルの耳が勢いよく立ち上がった。沈んでいた尻尾も空中で大きく揺れ、つい先ほどまでの恥ずかしそうな表情が嘘のように消えていく。
「食べないと損なのです?」
「ああ」
「大河さん、急ぐのです」
返事を待つこともなく、ポルポルは中央広場へ向かって飛び出した。小さな翼が忙しなく羽ばたき、丸い身体が廊下の先へ遠ざかっていく。大河は慌ててその後を追いかけたが、途中で灰色の髪の青年が肩を揺らしているのが目に入った。
「お前の相棒、ずいぶん分かりやすいな」
「食べ物が絡むと、いつもああなんだ」
「学院中で目立つぞ、あれは」
青年の言葉は、ほんの少し先の未来を言い当てていた。
学院の食堂は、外から見た時にも大きな建物だと思っていたが、中へ足を踏み入れると、その広さは想像を越えていた。高い天井を何本もの太い梁が支え、壁一面の窓から降り注ぐ昼の光が、長く並べられた木の卓を明るく照らしている。何百人もの学生が行き交っているにもかかわらず、食事を受け取る列はいくつにも分かれ、料理を運ぶ者たちは慣れた手つきで皿を並べていた。
焼きたてのパンから立ち上る甘い香り、炙った肉の脂が弾ける音、香草を煮込んだスープの湯気。皿や杯が触れ合う音へ学生たちの話し声が重なり、広い空間全体が一つの大きな生き物のように脈打っている。料理棟から運ばれてきた品の中には、大河がマイラ食堂でも見たことのないものがいくつもあった。赤い皮を持つ根菜を煮込んだ濃厚なスープ、薄く切った魔物肉を香草とともに焼き上げた料理、穀物を丸く固めて炙ったものには、溶かした乳製品らしき白いソースが掛けられている。
ポルポルは入口の上で停止したまま、右を見ては左を見ていた。大きな目は卓上の皿を映すたびに輝きを増し、小さな鼻は空気中の匂いを一つも逃すまいと忙しなく動いている。
「肉なのです。パンもあるのです。あっちには甘いものもあるのです」
「落ち着け。まず列に並ぶぞ」
「全部の列に並ぶのです」
「昼休みが終わる」
大河が襟元を掴むようにして引き戻すと、ポルポルは名残惜しそうにデザートの並ぶ一角を見つめながら、学生たちの列へ加わった。周囲には主人とともに食事を待つパートナーモンスターもいる。小型の狼は床へ伏せ、主人の足元でおとなしく尻尾を振っていた。肩へ乗った鳥は嘴で羽を整え、半透明の身体を持つ魔物は、専用の器へ注がれた液体をゆっくり吸い込んでいる。
その中で、宙へ浮かびながら料理を一つずつ声に出して数えるポルポルは、どうしても目立った。
「三つ目の鍋は何なのです?」
料理を配っていた学生が手を止めた。白い調理服を着た青年は、最初は誰が話したのか分からない様子で周囲を見回し、やがてカウンターの高さまで浮かんだポルポルへ目を止める。
「お前が喋ったのか?」
「ポルポルなのです。これは何なのです?」
「香草鳥の煮込みだが……」
「それも欲しいのです」
青年が困ったように大河を見る。大河は自分の皿を差し出しながら、軽く頭を下げた。
「少なめでお願いします。こいつ、自分がどれだけ食べられるか分かってないので」
「失礼なのです。ポルポルのお腹は可能性に満ちているのです」
近くに並んでいた学生から笑いが漏れた。その笑い声につられるように、別の列からも視線が集まる。桃色と紫の珍しい毛色、猫に似た丸い顔、小さな翼で宙へ浮かぶ姿だけでも目を引くのに、人の言葉を理解して会話までしている。誰かが「不明種で登録された子じゃないか」と囁き、それを聞いた別の学生が友人の肩を叩いた。
「見ろよ。あれが昨日登録された魔物らしいぞ」
「魔物なのです。でも、かわいい方なのです」
ポルポルがすぐさま訂正すると、周囲からまた笑いが起きた。本人は笑われているとは思っていないらしく、誇らしげに胸を張り、皿へ盛られていく料理を真剣な目で見守っている。
大河が選んだのは、厚切りの肉を焼いたものと野菜の煮込み、それに焼きたての丸いパンだった。ポルポル用には、料理を少しずつ取り分けてもらい、小さな皿へ並べる。追加料金を求められないことに少し戸惑ったが、周囲の学生たちは皆、遠慮することなく皿を満たしていた。月々の学費に食堂の利用料が含まれているなら、灰色の髪の青年が言ったとおり、食べずに帰る方が損なのだろう。
空いている卓を探している間にも、ポルポルへ向けられる視線は増えていった。通り過ぎる学生が足を緩め、振り返る。中には近くまで来て、恐る恐る声を掛ける者もいた。
「触ってもいい?」
青い髪を肩まで伸ばした少女が両手を胸元で組み、ポルポルを見上げている。ポルポルは大河へ確認することもなく、その手の前までふわりと降りた。
「優しくならいいのです」
少女の指が柔らかな毛並みへ触れると、目が驚きに大きく開かれた。
「すごくふわふわ……」
「手入れがいいのです」
「何の種類なの?」
「ポルポルなのです」
「それは名前だよね?」
昨日から何度も繰り返されたやり取りに、大河は笑いを堪えながら席へ腰を下ろした。ポルポルの周りには、いつの間にか数人の学生が集まっている。かわいい、珍しい、喋っていると声が重なり、その輪は少しずつ広がっていった。
「食事が冷めるぞ」
大河が声を掛けると、ポルポルははっとしたように振り返り、集まった学生たちの間を抜けて皿の前へ戻った。次の瞬間には、煮込み料理へ顔を近づけ、湯気を吸い込むように鼻を動かしている。
「いい匂いなのです」
「熱いから気をつけろよ」
「ポルポルは猫舌ではないのです」
言い終える前に肉へかぶりつき、すぐさま身体を震わせた。口を大きく開けたまま翼をばたつかせる姿に、大河は水の入った小皿を押し出す。
「熱いじゃないか」
「少しだけ予想を超えていたのです」
水を飲み終えると、今度は慎重に息を吹きかけながら口へ運ぶ。ひと口食べるたび、丸い目がさらに大きくなり、尻尾が左右へ揺れた。
「おいしいのです。この肉は柔らかいのです。スープもパンにつけると、もっとおいしいのです」
感想を一つずつ大声で告げるため、近くの卓にいた料理コースの学生たちが振り返った。自分たちが実習で作った料理だったのか、白い上着を着た少女が皿を持って近づいてくる。
「それ、私たちが作ったの。こっちも食べてみる?」
差し出された小皿には、黄金色に焼かれた穀物の生地へ果実のソースが掛けられていた。ポルポルは即座に両前足を伸ばす。
「いただくのです」
「おい、まだ皿に残ってるだろ」
「甘いものは別のお腹なのです」
ポルポルが一口で頬張ると、周囲の学生たちが期待するようにその顔を覗き込んだ。しばらく咀嚼した後、ポルポルは両頬へ前足を当て、身体ごと宙で一回転した。
「すごくおいしいのです!」
その大げさな反応に、作った学生たちは声を上げて笑った。別の料理を担当した者まで、これも味見してほしいと皿を持ってくる。大河が止める間もなく、焼いた野菜、香草を練り込んだパン、冷たい果実の汁が次々と並び、ポルポルは一つも断らずに口へ運んでいった。
「さすがに食べすぎだぞ」
「残す方が失礼なのです」
「最初から全部受け取るな」
そう言いながらも、大河の口元には笑みが浮かんでいた。朝から仮入学生として周囲の目を気にし、ロイドや補助教員の評価を意識しながら過ごしていた緊張が、ポルポルの騒ぎによって少しずつほどけていく。学院へ入った初日から、こうして誰かと笑い合うことになるとは思っていなかった。
やがて、周囲から自分へ向けられる視線が増えていることにも気づいた。ポルポルの主人は誰なのかと尋ねる声が聞こえ、登録札の名を覗いた学生が小さく反応する。
「望月大河って、五十メートル走一位の?」
「格闘のランカーでもあるらしいぞ」
「仮入学生なんだって」
ポルポルの珍しさを確かめに来た者たちが、そのまま大河のことまで知っていく。本人はただ食事をしているだけなのに、名前だけが卓から卓へ渡っていくようだった。
「ずいぶん派手な初日になったな」
声に振り返ると、灰色の髪の青年が空いていた向かいの席へ皿を置いた。焼いた肉と山盛りの穀物を前に腰を下ろし、ポルポルを囲む人の輪へ呆れたような視線を向ける。
「俺は何もしてない」
「相棒が目立てば、お前も同じだ」
「大河さんも人気者なのです」
ポルポルが果実の汁で口元を汚しながら胸を張った。青年はその姿をしばらく眺めたあと、堪えきれなくなったように小さく笑う。
「明日には学院中が知ってるかもしれないな。喋って、よく食う、正体不明の魔物と、その主人」
「嬉しくない有名になり方だな」
大河はそう答えながらも、集まった学生たちの表情に悪意がないことを感じていた。珍しいものを見つけた興味はあっても、排除しようとする空気はない。ポルポルが自然に受け入れられていく光景を眺めていると、昨日まで遠く感じていた学院という場所が、ほんの少しだけ近づいたように思えた。
食堂の高い天井へ、午後の授業開始を知らせる鐘の音が響いた。話していた学生たちが一斉に顔を上げ、食器をまとめて立ち上がる。先ほどまで賑わっていた卓の間に大きな人の流れが生まれ、それぞれの専門棟へ向かって動き始めた。
ポルポルはまだ残っている小さなパンへ前足を伸ばし、名残惜しそうに鐘の音を聞いていた。
「もう終わりなのです?」
「授業が始まる。残りは無理だ」
「まだ食べられるのです」
「また明日来ればいいだろ。学費に入ってるんだから」
その言葉に、ポルポルの顔がぱっと明るくなった。
「毎日食べに来るのです!」
「授業も毎日あるからな」
「食堂のためなら頑張れるのです」
大河が苦笑しながら立ち上がると、周囲の学生たちが次々とポルポルへ手を振った。ポルポルも両前足を大きく動かして応え、最後まで皿の上のパンへ視線を残しながら食堂を後にする。
格闘素手部門の訓練棟へ戻る道すがら、すれ違う学生の何人かがポルポルへ気づき、友人へ声を掛けていた。昼休みの短い時間だけで、噂はすでに食堂の外へ飛び出し始めているらしい。
大河は肩の近くを飛ぶポルポルを見上げた。本人はそんなことに気づく様子もなく、明日はどの料理から食べるべきかを真剣に考えている。
学院で最初に名を知られるきっかけが、勝負でも順位でもなく、相棒の食欲になるとは思ってもいなかった。けれど、その予想外の始まりも悪くない。そう思いながら、大河は午後の熱気が待つ訓練棟へ歩みを進めた。
第32話を読んでいただき、ありがとうございました。
学院の食堂は、料理コースの学生たちが作った料理を楽しめる、大河たちにとって新たな憩いの場所となりそうです。
そしてポルポルは、喋る不明種の魔物としてだけでなく、その食欲と素直な反応でも一気に注目を集めました。
勝負でもランキングでもなく、相棒の食欲によって名前が広まっていく大河。
少し予想外ではありますが、二人らしい学院生活の始まりになったのではないでしょうか。
次回はいよいよ、格闘素手部門での本格的な授業が始まります。




