第3話 ゼロではない生活
第3話です。
初ポイントを獲得した大河ですが、異世界生活はそう簡単にはいきません。
宿代、食費、部屋探し、そして借金。
ランキング世界の現実が、少しずつ大河の前に見えてきます。
ランキング協会の外へ出た時、街は夕暮れの色に沈み始めていた。白い石壁は赤みを帯び、細い路地の奥には早くも灯りがともり始めている。通りを行き交う人々の影は長く伸び、屋台から立ち上る煙が、沈みかけた太陽の光を受けて薄い金色に滲んでいた。五十メートル走を終えたばかりの大河の身体には、まだ全力疾走の余熱が残っていた。肺の奥に熱があり、太腿の筋肉がじんわりと張っている。だが、胸の中にはそれ以上に確かな手応えがあった。
二十三ポイント。
たったそれだけの数字かもしれない。現在の王が持つ五九五七ポイントと比べれば、砂粒と山ほどの差がある。それでも、大河はゼロではなくなった。知らない世界に放り込まれ、神に王になれと言われ、何一つ持っていないと思っていた自分の手に、初めて数字が刻まれた。その重みは、カードの薄さに似合わないほど確かだった。
隣ではポルポルが、さっきからふわふわと落ち着きなく飛び回っている。ピンクに近い紫色の毛並みが夕陽を浴び、柔らかな菫色に光っていた。嬉しそうに尻尾を揺らしているが、その視線は大河のカードではなく、通りの向こうに並ぶ屋台へ何度も吸い寄せられている。
「大河さん、初ポイント記念なのです」
ポルポルは真剣な声でそう言った。小さな前足を胸の前で合わせ、いかにも大事な話をしているという顔をしている。だが鼻先は、焼き魚らしき匂いが漂ってくる方向へぴくぴく動いていた。
「記念って、報酬が入るのは明日だろ」
大河がそう答えた瞬間、ポルポルの動きがぴたりと止まった。大きな瞳がまん丸になり、空中で固まる。まるで今初めて、その事実に気づいたような顔だった。
「……そうなのです」
「そうなのですって、お前が教えてくれたんだろ」
大河は思わず額に手を当てた。五十メートル走で二十三ポイントを獲得し、明日には二十三万マールが入る。それは間違いない。けれど今、彼の所持金はゼロだった。宿代もない。食費もない。財布の中身どころか、こちらの世界の財布すら持っていない。
通りの賑わいが、急に遠く感じられた。屋台で肉串を頬張る男、果物を選ぶ親子、酒場の入口で笑い合う若者たち。彼らの暮らしは当たり前のように流れているのに、大河だけがその輪の外に立っている。胸の奥で、現実が小さく重く沈んだ。
「今日の宿代がないな」
大河が呟くと、ポルポルの耳がしゅんと下がった。
「ごはん代もないのです」
「そっちの方が深刻そうな顔をするな」
「深刻なのです」
ポルポルはきっぱり言い切った。あまりに堂々としているので、大河は少しだけ笑ってしまったが、状況は笑えない。異世界初日の夜を草原で野宿することになるのか。草の匂いと空の広さは美しかったが、あそこで眠るとなれば話は別だ。魔物がいるかどうかも分からない。朝まで無事でいられる保証はどこにもなかった。
大河が協会の階段に腰を下ろし、カードを指先で弄んでいると、ポルポルがふと顔を上げた。紫の尻尾がぴんと立つ。
「そういえば、協会の中に貸付所があるのです」
「貸付所?」
「ランカーカードを持っている人なら、最低一万マールからお金を借りられるのです。明日報酬が入ったら返せばいいのです」
大河はカードから視線を上げた。金を借りるという響きには、どうしても身構えるものがある。地球でも借金には良い印象がない。しかもここはランキングの失敗が借金に直結する世界だ。初日から金を借りるというのは、足元に薄い泥を塗るような感覚があった。
「利子は?」
「五パーセントなのです」
「一日で?」
「返す時に五パーセント上乗せなのです」
ポルポルは少しだけ視線を逸らした。大河は溜息をつき、協会の大きな扉を振り返る。明日二十三万マールが入るなら、一万マールを借りて一万五百マール返すことはできる。だが、その五百マールが妙に悔しい。五十メートルを全力で走って得たポイントの一部が、何もしないまま利子として消えるのだ。
「背に腹は代えられないか」
大河が立ち上がると、ポルポルの顔が一気に明るくなった。
「ごはんなのです?」
「まず借りるんだよ」
「借りたらごはんなのです」
ポルポルは嬉しそうに空中でくるりと回った。大河はその姿を見ながら、これからこの相棒の食費に悩まされる予感を、早くも胸の端で感じていた。
協会内の貸付所は、受付ホールの奥にあった。磨かれた木のカウンターの向こうに、無表情な中年の職員が座っている。壁には細かな文字で規約が書かれており、下の方には「返済期限三か月以内」「未返済時カード停止」といった言葉が並んでいた。大河はその文字を見た瞬間、首筋にひやりとしたものを感じた。カードが停止されればランキングに参加できない。つまり稼ぐ手段を失う。借金は単なる金の問題ではなく、挑戦権そのものを縛る鎖になるのだ。
「一万マールを借りたいんですが」
大河がカードを差し出すと、職員は慣れた手つきで水晶板にカードを置いた。淡い光が広がり、大河の名前と二十三ポイントが浮かび上がる。
「新規登録者ですね。返済時は一万五百マールとなります。返済期限は三か月以内。期限を過ぎた場合、ランカーカードは停止され、以降のランキング参加および報酬受け取りに制限がかかります」
職員の声は平坦だった。何度も同じ説明をしてきたのだろう。大河は頷き、手続きが終わるのを待った。やがて小さな革袋が差し出される。中には硬貨が入っていて、手に取るとずっしりとした重みがあった。
一万マール。
明日には返す金だと分かっていても、異世界で初めて手にした金には妙な現実感があった。金属の冷たさが掌に移る。それは二十三ポイントとは違い、今日の宿と食事に変わる重みだった。
協会を出る頃には、街灯に淡い光が灯り始めていた。石畳は夕陽の残り火を失い、代わりに酒場や食堂からこぼれる明かりが通りを温めている。ポルポルはもう我慢できないというように、大河の前で左右に揺れていた。
「あのお店がいいのです」
ポルポルが指したのは、木製の看板に魚の絵が描かれた食堂だった。入口からは焼き魚の香ばしい匂いと、スープの湯気に混じった香草の匂いが流れてくる。大河も空腹を意識した途端、腹の奥が小さく鳴った。全力疾走の後で何も食べていない。ポルポルの食欲を笑っている場合ではなかった。
店の中は素朴で、木のテーブルがいくつも並び、壁には漁具のようなものが飾られていた。客たちは仕事帰りらしく、賑やかに酒を飲みながら皿を囲んでいる。大河が隅の席に座ると、ポルポルは当然のようにテーブルの上へ降り立ち、尻尾を揺らしながらメニューを覗き込んだ。
「魚の香草焼きと、魚スープと、白パンなのです」
「お前、読むの早いな」
「食べ物の文字は得意なのです」
「他の文字もその調子で頼む」
大河が苦笑して注文すると、しばらくして湯気を立てる皿が運ばれてきた。魚の皮はこんがり焼け、香草の緑が散っている。スープは白濁していて、魚の出汁らしき匂いが強かった。大河はまずスープを一口飲んだ。温かさが喉を通り、空腹の胃に染み込んでいく。味は悪くない。魚の旨味もある。だが、どこか単調だった。塩と香草に頼った味付けで、深みや香ばしさの重なりは薄い。
地球の料理の方がうまいかもしれない。
そんな考えが自然に浮かんだ。大河は特別料理が得意というわけではない。だが、出汁や醤油、味噌、焼き方の違い、下処理の仕方くらいは知っている。この世界の料理が全体的にこの程度なら、工夫の余地はありそうだった。
「ランキングに料理もあったよな」
大河が呟くと、ポルポルは魚を頬張りながら顔を上げた。小さな身体に似合わない量を、すでに驚くほどの勢いで食べている。皿の端に置いた魚の身が、見る見るうちに消えていく。
「あるのです。味、見た目、調理速度、創作料理、保存食、いろいろあるのです」
「料理は得意ってほどじゃないけど、地球の知識が使えるなら可能性はあるかもしれないな」
「もぐ……いいと思うのです。もぐもぐ……ポルポルは審査員ではないですが、食べる係ならできるのです」
「それはただ食いたいだけだろ」
大河は呆れながらも、ポルポルの食べっぷりを見ていると少し気が抜けた。神から与えられた相棒がこれほど大食いだとは想像していなかった。魚の皿を追加で頼むことになり、革袋の中身が減っていく音が頭の中で聞こえるようだった。
「こりゃ食費がかかるな」
「成長期なのです」
「お前、何歳なんだ」
「秘密なのです」
ポルポルはそう言って、尻尾で器用にパンを引き寄せた。大河は苦笑しつつ、自分の皿を平らげた。料理は地球と比べれば物足りない部分もある。けれど温かい食事が胃に入るだけで、身体の奥に沈んでいた不安が少し和らいだ。人間はどんな世界に来ても、腹が満たされると少しだけ前を向けるらしい。
食事を終えた後、二人は安宿を探した。協会近くの宿は高く、断念して路地をいくつか抜けた先にある古びた宿へ入った。看板は少し傾き、入口の扉も軋んだが、受付の老婆は親切だった。一泊三千マール。安い方だと聞いて、大河は革袋から硬貨を数えながら眉をひそめた。
一泊三千。月にすれば九万マール。
明日二十三万入るとしても、食費と宿代だけでかなり消える。王を目指すどころか、生活の足場を固めるだけで手一杯だ。部屋へ通されると、そこには簡素なベッドと小さな机、薄い窓が一つあるだけだった。だが外で寝るよりは遥かにいい。窓を開けると、夜の街の匂いが入ってきた。煙、石畳の冷えた匂い、遠くの酒場のざわめき。
ポルポルはベッドの上にぽふんと落ちるように着地し、満足そうに腹を撫でていた。
「明日お金が入ったら、部屋を借りるといいのです」
「部屋?」
「月契約の部屋なのです。安いところなら五万マールくらいからあるのです。宿に泊まり続けるよりずっと安いのです」
大河はベッドの端に腰を下ろし、天井を見上げた。木の梁には小さな傷がいくつもあり、誰かが長く使ってきた部屋なのだと分かる。異世界初日の夜。神に選ばれ、ランキングに挑み、金を借り、魚を食べ、安宿に泊まっている。あまりに現実的な展開に、かえって笑いが込み上げそうだった。
「王になる前に、まず家探しか」
「生活は大事なのです」
ポルポルは眠そうに目を細めながらも、そこだけは真面目に言った。大河は窓の外へ視線を向けた。知らない星の夜空に、見慣れない星が瞬いている。五九五七ポイントの王は、今頃どんな場所で眠っているのだろうか。豪華な寝台か、広い城か。自分は軋む安宿のベッドに座り、借りた金の残りを数えている。
差は遠い。
だが遠すぎるからこそ、一歩ずつ測るしかない。
翌朝、大河は窓から差し込む光で目を覚ました。街は早くから動き始めていて、荷車の音や行商人の声が窓の外から聞こえてくる。ポルポルは枕元で丸くなっていたが、大河がカードを取り出す気配にすぐ目を開けた。
「入ってるはずなのです」
ポルポルがカードに魔力を流すと、淡い紫の光が空中に広がった。
残高、二十三万マール。
大河はしばらくその数字を見つめた。昨日までゼロだった。今日、初めてこの世界で使える金が入った。走った結果が、生活できる数字になってカードに刻まれている。単純なことなのに、胸の奥にじんわりと熱が広がった。
「本当に入るんだな」
「もちろんです。カード決済もできるのです。お店でカードをかざせば支払えるのです」
「便利だな。地球より進んでる部分もあるのか」
大河はカードを光に透かすように眺めた。金属とも木とも違う不思議な質感。その小さな板一枚に、順位もポイントも金も借金も紐づいている。便利であると同時に、逃げられない仕組みでもあるのだろう。大河はカードをしまい、ポルポルとともに宿を出た。
部屋探しは思ったより時間がかかった。協会に近い部屋は高く、治安の良さそうな地区も高い。安い物件は路地が暗かったり、水場が遠かったり、部屋の中に湿った匂いが籠もっていたりした。ポルポルは最初こそ楽しそうに飛んでいたが、三軒目あたりで飽き始め、五軒目では近くのパン屋の匂いに気を取られていた。
それでも昼前、二人は小さな部屋を見つけた。協会から歩いて少し距離はあるが、通りに面した古い集合住宅の二階で、窓からは屋根の連なりと遠くの協会の尖塔が見える。部屋は狭い。ベッドを置けば半分が埋まりそうだ。壁には古い染みがあり、床板も少し鳴る。それでも窓から入る風は悪くなく、朝には光が入りそうだった。
「月四万三千マールです。前払いで一か月分」
管理人の女性がそう言った。大河は部屋をもう一度見回した。贅沢ではない。むしろ質素だ。だが、今の自分には十分だった。ここから協会へ通い、ランキングに挑み、少しずつポイントを積み上げる。そう考えると、この狭い部屋が異世界で最初の拠点に見えてきた。
「ここにします」
カードで支払いを済ませると、管理人から鍵を渡された。小さな鉄の鍵は手の中で冷たかった。大河はそれを握りしめ、窓の外を見た。遠くの協会の紋章が陽光を受けて光っている。
「一か月、ここでお世話になるか」
「ポルポルの寝床も必要なのです」
「その辺で浮いて寝ればいいだろ」
「ひどいのです」
ポルポルは頬を膨らませたが、尻尾は楽しそうに揺れていた。大河も少し笑った。部屋代を払って残高は減ったが、不思議と不安だけではなかった。拠点がある。帰る場所がある。それだけで、見知らぬ世界の輪郭が少しだけ掴めた気がした。
その足で協会へ戻り、貸付所で昨日の借金を返済した。一万五百マールがカードから引かれ、残高がさらに減る。大河は表示された数字を見ながら、利子の五百マールに妙な悔しさを覚えた。小さな額かもしれない。だが五百マールも、稼ぐには意味のある金だ。
「返済完了です。今後も貸付を利用する場合、返済期限は必ずお守りください。三か月以内に返済されない場合、カード停止となります」
職員は昨日と同じ平坦な声で言った。大河は頷き、カードを受け取る。借金は消えた。だが、この世界で金を借りる怖さはしっかり残った。カードが止まればランキングに参加できない。参加できなければポイントも金も増えない。つまり、一度足を滑らせれば立て直しが難しくなる。
協会を出た後、大河は通りの端でカードを開き、残高とポイントをもう一度確認した。二十三万マールは一晩で生活の形に変わり、部屋代と食費と返済で目に見えて削られている。これから訓練にも金がかかるかもしれない。道具も必要になるかもしれない。ポルポルの食費は、おそらく想像以上に重い。
「明日も基礎体力系を狙うか」
大河がそう呟くと、ポルポルは珍しくすぐには頷かなかった。紫色の尻尾をゆっくり揺らしながら、カードに浮かぶ五十メートル走ランキングを見つめている。いつもなら食べ物の話にすぐ流れる相棒の横顔に、慎重な影が落ちていた。
「今は、あまりおすすめしないのです」
「どうしてだ?」
「大河さんの五秒九三は立派なのです。でも七十八位ということは、下には二十二人しかいないのです。基礎体力部門は挑戦者が多いから、少し記録が動くだけで百位の外に落ちる可能性があるのです」
ポルポルは小さな前足で空中の数字を指した。
「百位までがプラス。百一位からはマイナス。つまり、今の記録で基礎体力系を増やしすぎると、後から順位が落ちた時に一気に危なくなるのです」
大河は表示された数字を黙って見つめた。昨日、勝ったと思っていた二十三ポイントは、まだ足場の固い勝利ではない。薄い氷の上に置いた小さな石のようなものだ。誰かが新しい記録を出せば、その氷は簡単にひび割れる。
「確実に上位を取れるようになるまでは、基礎体力系は温存か」
「その方がいいのです」
大河はカードを閉じ、通りの向こうへ視線を向けた。石畳の先では、剣を背負った男たちが協会へ入っていく。彼らの体格は大きく、歩き方にも隙がない。腰で揺れる武器を見た瞬間、大河の中で別の記憶が目を覚ました。畳の匂い、道場の静けさ、相手の重心を読む感覚。陸上ほどではないが、武道も長く続けていた。
「なら、バトル系はどうだ?」
大河の声に、ポルポルの耳がぴくりと動いた。
「俺は武道も少しやっていた。走るだけより、相手を見る勝負の方が向いている可能性もある」
ポルポルはすぐに返事をしなかった。いつものように軽く跳ねることもなく、大河の顔をじっと見つめる。その大きな瞳の奥に、初めて見る硬い光が宿っていた。
「……大河さん」
ポルポルの声が、少しだけ低くなる。
「バトル系ランキングは、基礎体力部門とは別物なのです」
夕暮れ前の通りに、協会の鐘の音がゆっくりと響いた。大河はその音を聞きながら、ポルポルの表情がいつになく真剣であることに気づいていた。
第3話を読んでいただき、ありがとうございました。
二十三ポイントを得た大河は、ようやく異世界での生活基盤を整え始めました。
しかし、ランキングは一度勝てば終わりではありません。
順位が落ちれば、得たはずのポイントさえ危うくなる世界です。
そして次に大河が目を向けたのは、バトル系ランキング。
走る競技とはまったく違う、危険な勝負の世界へ踏み込むことになります。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




