第29話 学院への扉
第29話です。
学院の入学申込期限まで、あと二日。
入学金と生活費の間で悩む大河は、ゴルディスから受け取った紹介状を手に、ランキング総合育成学院を訪れます。
そこで待っていたのは、元ゴールドランカーでもある学院長・ボーデンでした。
朝の光が、エリカ診療所の最上階にある食卓へ細長く差し込んでいた。窓の外では、まだ目覚めきらない街が薄い靄に包まれ、遠くの屋根から立ち上る煙が、白い空へゆっくり溶けている。
大河は食卓の上へ革袋の中身を広げ、一枚ずつ硬貨を並べていた。
ゴルディスから受け取った依頼報酬と追加報酬。それまでに冒険者ギルドで稼いだ分、月末に入ったランキング報酬から残していた分も合わせれば、五百万マールという数字はもう手の届かない場所にはなかった。指先で最後の硬貨を押し、いくつかの山に分けた金を見つめる。
けれど、そのすべてを入学金へ回してしまえば、次の月末までの生活に余裕がなくなる。食費だけならどうにかなるかもしれないが、魔法の練習に使う道具や、冒険者として必要になる消耗品、予想もしない治療費まで考えれば、手元を空にするのは危うかった。
椅子の背へ身体を預けた大河は、硬貨の鈍い光を眺めながら息を吐いた。学院の入学申込期限まで、あと二日。冒険者ギルドで短期間に稼げる仕事を探すことも考えたが、前回の依頼のように高い報酬が出るものは、そう都合よく現れない。
「朝から金と睨めっこかの」
声に顔を上げると、エリカが湯気の立つスープを運んできた。見た目だけなら大河より年下にも見えるが、眠そうに細められた目と、髪を無造作にまとめた姿には、長く暮らしてきた者らしい気の抜け方がある。
その後ろから飛んできたポルポルは、食卓へ並ぶ硬貨を見るなり、大河の肩近くで身体を止めた。
「お金がたくさんなのです」
「たくさんに見えるだけだ。学院へ払えば、ほとんどなくなる」
大河がそう答えると、エリカは向かいの席へ腰を下ろし、机に頬杖をついた。視線は硬貨の山から大河の顔へ移り、少しだけ眉が寄る。
「貸付所を使う手もあるぞい。五分の利子なら、お主のランキング報酬があれば返せぬ額ではない」
エリカはそう言いながら、机に並んだ硬貨からそっと目を逸らした。
「ただし、借りた金を返す前に別の物を買わぬ自信があるなら、じゃが」
「それ、エリカさん自身の話ですよね」
「わしは毎月、利子はきちんと払っておる」
ポルポルが呆れたように尻尾を垂らす。
「元のお金が減っていないのです。むしろ増えているのです」
「……細かいことを覚えておるのう」
わずかな笑いが食卓へ広がったものの、大河の指はまだ硬貨のそばから離れなかった。学院へ入る機会を逃せば、次の受付まで長く待つことになる。かといって、焦って借金を増やすのも違う気がした。
卓上の端には、ゴルディスから受け取った紹介状が置かれている。赤い封蝋に刻まれた紋章は、朝日に照らされて静かに光っていた。
扉を開くところまでは手伝おう。
ゴルディスの言葉が胸へ蘇る。
紹介状があっても、入学金がなくなるわけではない。それでも、学院長に話を聞いてもらえるなら、今できることをすべて試すべきではないか。何もせず期限が過ぎるのを待つよりは、ずっといい。
大河は並べた硬貨を革袋へ戻し、最後に紹介状を手へ取った。羊皮紙の硬さと、封蝋の小さな出っ張りが指先へ伝わる。
「行ってみます」
エリカが片方の眉を上げた。
「学院へか?」
「はい。払えないなら駄目だと言われるかもしれません。でも、その時は別の方法を考えます」
しばらく大河を見つめていたエリカは、やがて満足そうに口元を緩めた。
「それでよい。扉は叩かねば開かんからの」
朝食を終えた大河は、ポルポルとともに街の外れへ向かった。中心部を離れるにつれて建物の間隔は広がり、商店の呼び声も少なくなっていく。石畳の道は緩やかな坂を上り、その先に高い外壁と巨大な門が見えてきた。
ランキング総合育成学院。
門の向こうには、一つの学校とは思えないほど広大な敷地が広がっていた。中央には白い石造りの本館がそびえ、その左右へ複数の建物が連なっている。屋外の訓練場では木剣がぶつかる乾いた音が響き、少し離れた場所では炎の塊が的へ飛び、赤い火花を散らしていた。別の一角からは焼いた肉や香草の匂いが漂い、白衣のような服を着た学生たちが、大きな鍋を囲んでいるのが見える。
「料理の授業まであるのです」
ポルポルが目を輝かせた。
「食べる授業じゃないぞ」
「分かっているのです。たぶん」
さらに奥には、机を並べた開放的な学舎や、巨大な掲示板の前で議論する学生たちの姿もあった。バトルだけではない。料理、魔法、学問、戦術、技術。ランキングにつながるあらゆる分野が、この場所へ集められている。
大河は門の前で足を止めた。胸の奥が、わずかに熱を帯びていく。
ここへ入れば、今までとは違う世界が見える。
同時に、自分より遥かに強い者や、才能に恵まれた者も大勢いるのだろう。期待の奥に、細い緊張が混じった。
正門脇の受付棟へ入ると、室内には木と紙の匂いが漂っていた。制服姿の学生や、保護者らしき者たちが行き交い、壁には専門コースの案内が並んでいる。格闘素手部門、剣術部門、魔法部門、総合バトル部門。その先には料理、経営、魔法学、歴史学といった文字まで続いていた。
受付に座る女性へ、大河は紹介状を差し出した。
「入学について相談したいんですが」
女性は封蝋へ視線を落とし、次の瞬間、表情を変えた。椅子から少し身を乗り出し、紋章を確かめるように目を細める。
「これは……ゴルディス様の」
「はい。学院長へ渡すように言われました」
女性はすぐに立ち上がった。落ち着いていた動作が一転し、後ろの職員へ何かを告げると、奥の連絡装置らしき魔道具へ手を伸ばす。淡い光が灯り、短い言葉が交わされた。
大河とポルポルは顔を見合わせた。
「すごい反応なのです」
「あの人、本当に大物なんだな」
しばらくすると、別の職員が現れ、大河たちを本館の奥へ案内した。長い廊下の窓からは、訓練場を走る学生たちの姿が見える。剣を振る者、魔法陣へ集中する者、書物を抱えて急ぐ者。その誰もが自分の目標へ向かい、迷いなく動いているように見えた。
やがて通されたのは、重い木製の扉を持つ応接室だった。室内には大きな机と革張りの椅子が置かれ、壁には歴代の学院長らしき肖像画が並んでいる。窓の外からは、遠くで鳴る鐘と、訓練場の掛け声が微かに聞こえていた。
「こちらでお待ちください」
職員が扉を閉めると、部屋には静けさが戻った。
大河は紹介状を膝の上へ置き、その封蝋を見つめた。
学院長がどのような人物なのかは分からない。話を聞いてもらえても、断られる可能性はある。それでも、ここまで来た。
ポルポルが大河の肩へそっと降り立つ。
「大丈夫なのです」
「何が?」
「大河さんは五十メートル走一位なのです。格闘ランカーでもあるのです」
小さな声だったが、不思議と胸の奥へ届いた。
大河が頷いた時、廊下の向こうから重い足音が近づいてきた。一歩ごとに床板がわずかに響き、やがて扉の前で止まる。
取っ手がゆっくり下がった。
最初に目へ入ったのは、鍛え上げられた太い腕だった。続いて姿を現した男は、大河より頭一つほど背が高く、濃紺の学院服を隙なく着こなしている。無駄な贅肉のない身体は年齢を感じさせず、広い肩と厚い胸板は、長い年月を鍛錬へ捧げてきたことを何より雄弁に語っていた。白髪の混じる短い髪と、右頬を斜めに走る一本の傷跡。その顔には威圧するような表情はなかったが、相手の本質を見抜こうとする鋭い眼差しだけが静かに宿っている。
男は部屋へ入ると、大河へ一度だけ視線を向けた。その一瞬だけで、肩の力の入り具合や立ち方、呼吸の深さまで見透かされたような感覚が胸をよぎる。
自然と背筋が伸びた。この男の前では、取り繕うことに意味はない。
「待たせたな。」
落ち着いた低い声が応接室へ静かに広がる。
「学院長のボーデンだ。」
大河は立ち上がり、深く頭を下げた。
「望月大河です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
ボーデンは小さく頷くと、椅子へ腰を下ろした。椅子がわずかに軋む音だけが部屋へ残り、そのまま机の上へ置かれた紹介状へ手を伸ばす。
すぐには封を切らない。
赤い封蝋へ刻まれた紋章を親指で静かになぞり、その指先が一瞬だけ止まった。
「……あいつらしい。」
誰へ聞かせるでもない、小さな独り言だった。
ゆっくりと封が切られ、羊皮紙が広げられる。紙の擦れる乾いた音が静かな部屋へ溶け込み、窓の外からは遠く木剣の打ち合う音が風に乗って届いていた。訓練場では今日も学生たちが汗を流しているのだろう。その活気とは対照的に、この応接室だけは時がゆっくり流れているようだった。
ボーデンは視線を止めることなく最後まで読み進める。
眉ひとつ動かさない。
何を考えているのか、その表情から読み取ることはできなかった。
やがて羊皮紙を静かに畳み、机の上へ戻す。その所作には無駄がなく、急ぐ様子もない。長い年月、人を見続けてきた者だけが持つ落ち着きが、その一つ一つの動きから滲み出ていた。
紹介状から離れた視線が、大河へ向けられる。言葉はない。ただ見ている。大河も目を逸らさなかった。試されている。そんな確信だけが胸の奥で静かに形を成していく。しばらくして、ボーデンは右手をゆっくり差し出した。
その意味を悟った大河は、胸元からランキングカードを取り出し、両手で差し出す。
カードを受け取ったボーデンは、何も言わず視線を落とした。部屋へ再び沈黙が訪れる。
窓から吹き込む風がカーテンを小さく揺らし、庭木の葉が擦れ合う音がかすかに耳へ届いた。肩へ止まっていたポルポルも空気を察したのか、いつものように口を挟まず、小さく身体を丸めたまま学院長の様子を見つめている。ボーデンの指先が、カードの文字をゆっくり追っていく。
五十メートル走。
格闘バトル。
総合ポイント。
一つずつ確かめるように視線を動かしていた指先が、不意に止まった。
五十メートル走、一位。
その数字をしばらく見つめたまま動かない。順位を確認しているというより、その数字の向こうにいる人間を思い描いているようだった。
やがてボーデンは静かに顔を上げる。
視線は足元へ落ち、履き慣れた靴、重心の置き方、鍛えられた脚、自然に下ろされた拳、肩の開き方へとゆっくり移っていく。その眼差しは獲物を見定める猛獣にも似ていたが、不思議と冷たさはなかった。数字だけでは測れない何かを探しているように見えた。
大河は無意識に息を整える。
ここで飾っても意味はない。
そう思わせるだけの重みが、学院長の沈黙にはあった。長く感じられた静寂のあと、ボーデンはランキングカードを閉じる。小さな音が応接室へ響き、その視線はもう一度、机の上の紹介状へ落ちた。
紹介状とランキングカード。
二つを見比べるように眺めたあと、ボーデンは小さく息を吐く。
「……そういうことか。」
独り言のようなその声には、先ほどまでの鋭さとは違う、わずかな納得が滲んでいた。そしてゆっくりと大河を見据える。
「ゴルディスが、お前をここへ寄越した理由は分かった。」
その一言だけで十分だった。
まだ入学を認められたわけではない。それでも、自分という人間を順位だけではなく、目の前に立つ一人の人間として見てもらえた。その確かな手応えが、大河の胸の奥へ静かに灯っていた
第29話を読んでいただき、ありがとうございました。
ついに大河は、ランキング総合育成学院の門を叩きました。
五十メートル走一位、格闘ランカー、そしてゴルディスからの紹介状。
学院長ボーデンは、カードに刻まれた数字だけでなく、大河の立ち方や身体の使い方まで静かに見極めます。
まだ入学を認められたわけではありません。
それでも、ゴルディスが大河を学院へ送り出した理由は、確かにボーデンへ伝わったようです。
新たな舞台への扉が、いよいよ開き始めます。




