第26話 森の奥のミミル
第26話です。
ゴルディスのペット、ミミルを捜して再び森へ向かう大河たち。
そこで再会したのは、以前ホブゴブリンから救ってくれた弓使いのオルドでした。
彼の案内で森の奥へ進む中、大河は初めて実戦で火魔法を放ちます。
ゴルディスの屋敷を出たあと、大河は依頼書と一緒に渡された簡易地図を何度も確認した。
高台の屋敷から裏手へ伸びる細い道は、しばらく庭園の外壁沿いに続き、その先で林へ入る。林を抜けると、街の北側に広がる森へ繋がっているらしい。地図には屋敷の周辺、目撃された場所、部下たちが捜索した範囲が丁寧に書き込まれていた。赤い印がいくつもつけられている。だが、その印は森の入口付近で止まっていた。
大河は地図を畳みながら、森の方へ視線を向けた。昼前の空は明るい。けれど、木々の奥は相変わらず薄暗く、風が葉を揺らすたびに、光と影が細かく入れ替わっていた。前回、ホブゴブリンに追われた時の記憶が胸の奥で少しだけ疼く。もう同じ失敗はできない。
「今回は慎重に行くぞ」
大河が言うと、ポルポルは珍しく大きく頷いた。
「もちろんです。地図もあるのです。森の奥には勝手に入らないのです」
「前回は迷ったからな」
「その話は、ちょっと胸が痛いのです」
ポルポルは小さな前足で胸を押さえた。大河は責めるつもりはなかったが、彼女があれ以来、街の外の地形を気にするようになったことには気づいていた。万能ではないと知ったからこそ、二人とも前より慎重になっている。
森へ続く道に入ると、屋敷の庭の整えられた匂いはすぐに薄れた。かわりに湿った土と下草の青い匂いが強くなる。木の根が土を押し上げ、細い枝が道へ張り出している。小さな鳥が一羽、驚いたように飛び立った。
しばらく進んだところで、大河は足を止めた。
前方の木の陰に、見覚えのある男が立っていた。
焦げ茶色の髪。使い込まれた革鎧。背中に長弓。余計な飾りのない立ち姿。森の影に半分溶け込むようなその男を見た瞬間、大河は思わず声を漏らした。
「オルドさん」
男はゆっくり振り向いた。表情はほとんど変わらないが、目だけが大河とポルポルを確かめるように動いた。
「また森に来たのか」
「はい。今日は依頼で」
「今度は何を追っている」
「ミミルという、ゴルディスさんのペットです」
ゴルディスの名を出した瞬間、オルドの目がわずかに細くなった。彼はすぐには答えず、森の奥へ視線を向ける。風が枝を揺らし、葉の擦れる音だけが少し長く続いた。
「ゴルディスの依頼か」
「知ってるんですか?」
「昔、世話になったことがある」
それだけ言うと、オルドは大河の持っていた地図へ目を落とした。赤い印が森の入口で止まっているのを見て、低く息を吐く。
「部下たちはここまでか」
「森の奥は危険だから、あまり入れなかったみたいです」
「正しい判断だ。だが、ミミルがこの先へ入ったなら、屋敷の者だけでは無理だろうな」
大河は地図を握り直した。やはり簡単な依頼ではない。ペット探しという言葉に油断しかけていたが、相手は不動産王の部下たちでも見つけられなかった存在だ。
オルドはしばらく黙り、やがて弓の位置を確かめるように肩を動かした。
「この森の奥は、お前たち二人で入る場所じゃない」
「……ですよね」
「手伝う。今回だけだ」
短い言葉だった。だが、大河には十分だった。
「ありがとうございます」
「礼は後でいい。森では喋りすぎるな。足元を見ろ。上も見ろ。静かすぎる場所には近づくな」
そう言って、オルドは先に歩き出した。大河はその背中を追う。ポルポルも口を引き結び、いつもより低い位置で飛んだ。
森の中でのオルドは、ほとんど音を立てなかった。落ち葉の上を歩いているはずなのに、足音が薄い。時折しゃがみ込み、折れた枝や草の倒れ方を見ている。大河にはただの森にしか見えない場所から、オルドは何かを読み取っているようだった。
「ここを通っている」
オルドが木の幹についた薄い毛を摘まみ上げた。淡い桃色の毛だった。絵に描かれていたミミルの毛並みに似ている。
「これがミミルの?」
「おそらくな。だが、逃げているというより、目的を持って進んでいる」
「目的?」
「足取りが迷っていない」
大河は地面を見た。小さな足跡が、柔らかい土にわずかに残っている。普通なら見落としていただろう。オルドはそれを一つずつ拾いながら進む。大河はその背中を見て、森では全部が情報なのだと実感した。戦闘力だけではない。見る力、聞く力、判断する力。自分にはまだ足りないものばかりだ。
さらに奥へ進んだ時、オルドが急に手を上げた。
大河は息を止める。
森の空気が変わっていた。鳥の声がない。葉の揺れる音だけが妙に大きい。前方の茂みの奥から、重く湿った息遣いが聞こえた。
「下がれ」
オルドの声は低かった。
茂みを割って現れたのは、巨大な獣だった。狼に似ているが、体躯は馬ほどもある。黒い毛並みは油を塗ったように光り、口元からは牙が覗いていた。目は黄色く、こちらを見据えるだけで肌が粟立つ。
「ブラックウルフだ」
オルドが弓へ手を伸ばす。
「ホブゴブリンより厄介だ。速い」
大河は拳を握った。前回なら逃げるだけだった。だが、今はエリカに解放してもらった火魔法がある。もちろん一人で倒せるとは思っていない。それでも、何もできないままではいたくなかった。
「一発、撃ちます」
オルドは横目で大河を見た。
「無理はするな」
「はい」
ブラックウルフが低く唸り、地面を蹴った。速い。影が伸びるように距離を詰めてくる。大河は腕を上げ、胸の奥の魔力を指先へ流した。昨日の訓練場の焦げた的を思い出す。息を止めるな。流れを押さえ込むな。エリカの声が耳の奥で響いた。
赤い火が生まれた。
以前とは違う。小さな火花ではない。拳ほどの火球が空気を焦がしながら前へ飛ぶ。
火球はブラックウルフの鼻先で弾けた。獣が咆哮し、身体を横へ跳ねさせる。黒い毛の一部が焦げ、煙が立った。大河は思わず息を呑む。実戦で、初めて火魔法が相手に届いた。
「やったのです!」
ポルポルが小さく叫ぶ。だが、ブラックウルフは倒れていなかった。焦げた匂いを漂わせながら、黄色い目で大河を睨む。怒りで動きがさらに鋭くなっていた。
「十分だ」
オルドの声がした。
次の瞬間、弦の音が鳴った。
矢は見えなかった。ただ、ブラックウルフの動きが止まった。眉間に深々と矢が突き刺さっている。獣は数歩よろめき、地面へ崩れ落ちた。大河は言葉を失った。あれほど速かった魔物を、オルドは一瞬で仕留めた。
「森では、力より先に間合いを見る」
オルドは弓を下ろしながら言った。
「速い相手ほど、来る場所は限られる」
「……すごいですね」
「慣れだ」
オルドはそれ以上語らなかった。だが、大河には、その「慣れ」という言葉の重さが分かった。積み重ねた年月と、失敗しなかった判断と、生き残ってきた経験。ランキングの数字とは違う強さが、そこにあった。
ブラックウルフを避けてさらに進むと、森の様子がまた変わった。木々の間に細い光が差し込み、地面には柔らかな苔が広がっている。だが、穏やかな場所ではなかった。あちこちに爪痕があり、土が掘り返され、折れた枝が散っている。獣の匂いが濃い。
オルドが片膝をついた。
「近い」
大河は息を潜めた。前方に低い唸り声が聞こえる。茂みの隙間から、淡い桃色の毛が見えた。
ミミルだった。
絵で見た通り、丸い耳とふわふわした毛並みを持つ、ぬいぐるみのような姿をしている。だが、その目はまったく違っていた。大きく澄んだ瞳の奥に、獲物を逃さない鋭さがある。小さな身体は低く沈み、尻尾はぴたりと止まっている。その先にいるのは、小型の魔物だった。牙のある兎のような生き物が、逃げ道を探して震えている。
ミミルが動いた。
速かった。
桃色の塊が地面を滑るように走り、次の瞬間には獲物の背後へ回り込んでいた。小さな前足が閃く。可愛い見た目からは想像できないほど鋭い一撃。小型魔物は短い悲鳴を上げ、その場に倒れた。
大河は喉を鳴らした。
「あれが……ミミル?」
ポルポルも言葉を失っている。
ミミルは獲物の前でしばらく動かなかった。まるで自分の狩りを確認するように、倒れた魔物を見つめている。その背中には、ペットという言葉では収まりきらない気配があった。
オルドが低く言った。
「近づくな」
「捕まえないんですか?」
「今は狩りの最中だ。邪魔をすれば敵と判断される」
大河はミミルの小さな身体を見た。かわいい。確かにかわいい。だが、今その前に出れば、ただでは済まないということも分かった。
「あれは、何なんですか」
「幼体だ」
「何の?」
オルドはしばらく黙り、やがて答えた。
「成体になればS級指定される魔獣だ。見た目で油断した者は、まず生き残らない」
大河は息を呑んだ。S級。まだこの世界の魔物ランクを詳しく知っているわけではない。それでも、その響きがただ事ではないことは分かる。そんな魔獣を、ゴルディスはペットとして飼っている。いや、ペットというより家族なのかもしれない。
「主人には従う種なのです?」
ポルポルが小声で尋ねる。
「本当に主人と認めた相手にはな。だが、そうでなければ従わない」
ミミルは獲物をくわえ、森の奥へ少し移動した。帰る様子はない。まだ狩りを続けるつもりなのだろう。大河は依頼を思い出した。連れ戻すことが目的だ。だが、今近づくのは危険だ。無理に捕まえようとすれば、ミミルも大河たちも傷つくかもしれない。
「場所だけ記しましょう」
大河は地図を取り出した。
「ここまで分かれば、ゴルディスさんに伝えられる。主人なら近づけるかもしれない」
オルドはわずかに頷いた。
「いい判断だ」
その一言に、大河は少しだけ救われた。前回、森で無理をして危険な目に遭った。今回は違う。倒せるかどうか、捕まえられるかどうかではなく、何をするべきかを選ぶ。街の外で生きるには、それが必要なのだ。
大河は地図に丁寧に印をつけた。近くにある大きな倒木、岩、細い沢の位置も書き込む。オルドが横から、目印になる木の特徴を短く教えてくれた。
ミミルは一度だけこちらを見た。
その視線が、大河の背筋を冷たくした。気づいていたのだ。最初から。攻撃しなかっただけで、こちらの存在は把握していた。大河が動かずにいると、ミミルは小さく鼻を鳴らし、獲物をくわえたまま森の影へ消えていった。
帰り道は、行きよりも静かだった。
大河の頭の中には、いくつものものが残っている。火魔法が実戦で当たったこと。ブラックウルフを一撃で仕留めたオルドの弓。可愛い見た目の奥に獰猛さを隠したミミル。そして、そんな魔獣に主人と認められているゴルディス。
屋敷へ戻ると、ゴルディスは応接室で待っていた。大河たちの姿を見るなり、普段の落ち着いた顔に少しだけ緊張が走る。
「見つかったのか」
「はい。場所は分かりました」
大河は地図を広げ、森の奥の印を示した。
「ただ、狩りの最中でした。近づくのは危険だと判断して、連れ戻してはいません」
ゴルディスは地図を見つめた。しばらく黙っていたが、やがて深く息を吐く。その顔には安堵があった。
「無事だったか」
「はい。かなり元気でした」
「そうか」
ゴルディスの口元がわずかに緩んだ。それは不動産王の顔ではなかった。大切な家族の無事を知った男の顔だった。
オルドが静かに言う。
「おそらく成長期の狩りだろう。無理に近づくべきではない」
「やはり、そうか」
ゴルディスは椅子から立ち上がった。大河は少し驚いた。
「ご存じだったんですか?」
「いや。知っていたわけではない。ただ、あの子が意味もなく家を離れるとは思っていなかった」
ゴルディスは壁に掛けられた古い外套へ手を伸ばした。高価な服ではなく、使い込まれた旅装束だった。次に、飾られていた短い剣を腰に差す。戦うためというより、昔の自分を少しだけ呼び戻すような動作だった。
「場所が分かったなら十分だ。あとは私が迎えに行こう」
「一人で大丈夫なんですか?」
大河が思わず尋ねると、ゴルディスは静かに笑った。
「あの子は、私の声や匂いを忘れん」
その一言に、妙な重みがあった。S級魔獣の幼体。獰猛で危険な存在。だが、主人には従順。その主人が、この男なのだ。
オルドはゴルディスの装いを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「昔と変わらないな」
「身体は鈍ったよ」
「それでも、森へ迎えに行く顔は変わらん」
ゴルディスは小さく笑った。
「親馬鹿なだけだ」
大河は二人の短いやり取りを聞きながら、ゴルディスという人物をまた少し違う目で見ていた。大富豪。不動産王。元バトルランカー。そして、ミミルを家族として迎えに行く男。
依頼は、まだ完全には終わっていない。
だが、大河は確かに感じていた。
この出会いは、ただのペット探しでは終わらない。
第26話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河の火魔法は、ついに実戦で魔物へ届きました。
まだブラックウルフを倒せる威力ではありませんが、訓練場だけではない確かな一歩です。
そして、可愛らしいミミルの正体は、成体になればS級指定される魔獣の幼体でした。
無理に捕まえず、場所だけを伝えると判断した大河。
その選択を受け、ゴルディスは自らミミルを迎えに森へ向かいます。
不動産王ゴルディス、弓使いオルド、そしてS級魔獣ミミル。
この出会いが、大河の今後にどう関わってくるのか。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




