第23話 火と揚げ物
第23話です。
初めてのギルド依頼で、街の外にある本当の危険を知った大河。
ホブゴブリンから逃げた経験を無駄にしないため、エリカの力を借りて、もう一段階の魔力解放へ挑みます。
街道を歩いている間、大河の身体にはまだ森の気配が残っていた。湿った土の匂い、枝が頬をかすめた痛み、背後から迫ってきた重い足音。ホブゴブリンの棍棒が地面を砕いた音は、街の城壁が近づいてきても耳の奥にこびりついて離れなかった。隣を飛ぶポルポルも、いつものように喋り続けることはなかった。小さな尻尾は下がり、時折ちらちらと大河の顔を見ては、何か言いかけて口を閉じる。
ギルドの扉を開けた時、木の床の軋みと人の声が妙に懐かしく感じられた。ほんの数時間前に出ていった場所なのに、森から戻ってきた後では、酒の匂いも、革鎧の匂いも、人のざわめきも、すべてが安全なものに思えた。受付の女性は大河の泥のついた服と、ポルポルの沈んだ顔を見るなり、表情を少しだけ引き締めた。
「お戻りですね。……何かありましたか?」
大河は討伐証明を差し出しながら、森での出来事を簡単に話した。ゴブリンを数体倒したこと。帰り道で迷ったこと。ホブゴブリンと遭遇したこと。そして、オルドという弓使いに助けられたこと。
受付の女性は、オルドの名を聞いた瞬間、わずかに目の色を変えた。
「オルドさんに助けられたのですね」
「知っているんですか?」
「ええ。派手な方ではありませんが、このギルドでは信頼されている弓使いです。森や街道の依頼では、あの方の判断に助けられた冒険者は少なくありませんよ」
大河は森の中で見た背中を思い出した。無駄な言葉を使わず、弓を構える姿に乱れがなく、ただその場にいるだけで空気を変えるような男だった。ランキングの数字だけでは測れない強さがある。ギルドへ来た初日に、それを思い知らされた気がした。
「初依頼としては、討伐自体は達成です。ゴブリン四体分と素材買取を合わせて、こちらになります」
受付の女性が革袋を差し出す。中身はランキング報酬と比べれば小さな額だった。けれど、その袋の重みは妙に生々しかった。森で汗をかき、泥にまみれ、命の危険を知って得た金だ。
「ただ、今回は報酬よりも無事に戻れたことの方が大事です」
受付の女性は静かに言った。
「街の外では、逃げる判断も実力のうちです。次は地図を買うか、慣れた冒険者と組むことをおすすめします」
「わかりました」
大河は素直に頷いた。ポルポルも小さく頭を下げる。
「ポルポルも、森の案内をもっと勉強するのです」
受付の女性は少しだけ笑った。
「それがいいと思います」
その夜、エリカ診療所の最上階では、いつもより静かな夕食になった。大河が森での出来事を話している間、エリカは珍しく茶化さなかった。白い外套を脱いだ彼女は、湯気の立つスープを前にして、じっと大河の顔を見ていた。ポルポルは皿の前に座っているものの、食べる速度がいつもより遅い。
ホブゴブリンの話を終えると、エリカはしばらく黙っていた。窓の外から夜風が入り、薄いカーテンが静かに揺れる。やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「逃げた判断は正しい」
その言葉に、大河の肩から少し力が抜けた。
「戦うべき相手と、今は戦ってはならぬ相手を見分けること。それは勝つ技術より大事な時がある。森でそれを知ったなら、初依頼としては十分じゃ」
「でも、魔法は出ませんでした。火花だけで」
「逆じゃ」
エリカの目が、大河をまっすぐ捉えた。
「恐怖の中で火花が出たのなら、お主の魔力は一歩進んでおる。訓練場で火を出すのとは違う。命の危険を前にして、それでも魔力の道が完全には閉じなかった。これは大きい」
大河は自分の指先を見た。あの時は失敗したとしか思えなかった。ホブゴブリンを怯ませることもできず、火は形になる前に散った。だが、エリカには違う見方があるらしい。
「明日は休みじゃ」
エリカは杯を置き、口元に小さな笑みを浮かべた。
「魔力をもう一段階、開いてみるかの」
翌朝、三人は協会の魔法訓練場へ向かった。まだ人の少ない時間帯で、石床には朝の冷気が残っている。火魔法用の区画には焦げ跡のついた的が並び、壁際には魔力測定用の水晶が置かれていた。大河はその前に立ち、少し緊張しながら手を開いた。
「前回開いたのは、一番浅い扉じゃ」
エリカは大河の正面に立ち、いつになく真面目な声で言った。
「人の身体は、自分を守るために魔力を何重にも抑えておる。未熟な者が無理に開けば、魔力が暴れ、身体が壊れる。普通なら、第二段階を開くにはもっと時間をかける」
「それなら、まだ早いんじゃ」
「普通ならな」
エリカは大河の胸元にそっと手を当てた。いつものように距離が近い。だが、今の手つきにふざけた色はなかった。医師が命に触れる時のように、慎重で、静かだった。
「お主は神から授かった身体を持っておる。最初に診た時から分かっておった。この器は大きい。まだ受け止められる」
ポルポルが息を呑む。大河も自然と背筋を伸ばした。神から与えられた身体。それは走る速さや格闘の力だけではない。魔力を受け止める器としても、普通とは違うのだ。
「ただし、器が大きくても、扱う技は未熟じゃ。力が増えるほど、雑に使えば自分の足をすくう。そこは忘れるでない」
「はい」
「では、いくぞい」
エリカの指が、大河の肩、胸、背中、腕へと順に触れていく。前回よりも深いところを押されているような感覚があった。痛みではない。けれど、身体の内側で眠っていたものが、少しずつ目を覚ますような熱が広がる。胸の奥の魔力が、以前より太い流れとなって動き始めた。
大河は呼吸を乱しそうになった。エリカの声が低く響く。
「息を止めるな。流れを押さえ込むな。受け入れて、通すのじゃ」
大河はゆっくり息を吐いた。熱が腕へ、指先へ流れる。最後にエリカが右手の指先へ魔力を送った瞬間、身体の内側で何かが一段開いた。
水が細い溝から広い川へ移るような感覚。
大河は目を見開いた。
「今じゃ。火を出してみい」
大河は的へ向けて手をかざした。胸の奥から腕へ魔力を流す。昨日の森では乱れて消えた流れが、今ははっきり形を持っている。指先に赤い光が集まり、小さな火球が生まれた。以前の豆粒のような火ではない。拳ほどの大きさの火が、空気を焦がしながら前へ飛ぶ。
火球は的に当たり、乾いた音を立てて弾けた。表面が黒く焦げ、白い煙が細く上がる。
ポルポルが空中で跳ねた。
「すごいのです! 前よりずっと大きいのです!」
大河は手を見つめた。身体に強い負担はない。ただ、胸の奥に流れる熱が以前より確かに太くなっている。
エリカは満足そうに頷いた。
「威力は倍近く上がったのう。じゃが、喜ぶのはまだ早い。命中精度、速度、連射、魔力効率。どれもまだまだじゃ」
「はい」
「でも、ようやく初心者の入口を抜けたと言ってよい」
大河は的の焦げ跡を見た。ホブゴブリンに届かなかった火が、今日は確かに形になった。まだ弱い。まだ未熟だ。それでも、昨日の恐怖が無駄ではなかったと思えた。
訓練を終えると、エリカは少し用事があると言って診療所の方へ戻った。
「大河くんたちは先にマイラ食堂へ行っておれ。わしも後で行く」
「仕事ですか?」
「少しだけじゃ。すぐ済ませる」
そう言って、エリカは軽い足取りで去っていった。ポルポルはその背中を見送りながら、小さく首を傾げる。
「何か怪しいのです」
「考えすぎじゃないか?」
「エリカさんが『少しだけ』と言う時は、だいたい少しではないのです」
大河は苦笑しながら、ポルポルとマイラ食堂へ向かった。
昼前のマイラ食堂には、温かな湯気と出汁の匂いが漂っていた。マイラは厨房で鍋を見ており、アイは客席を拭いている。店の看板にも少しずつ馴染みが出てきた。常連客たちも戻り始め、壁際には誰かが持ってきた小さな花が飾られている。
「いらっしゃい」
アイが顔を上げる。大河を見ると、少しだけ目元が和らいだ。
「今日は何してたの?」
「魔法の訓練」
「火?」
「火」
短いやり取りなのに、アイはそれだけで納得したように頷いた。彼女もまた料理ランキングに向けて、自分の戦いを続けている。大河は昼食を取りながら、次の勝負料理について話した。
「昨日、ギルドで魔物の肉を見たんだけど」
「魔物の肉?」
「食用になるものもあるんだろ?」
マイラが厨房から顔を出した。
「ありますよ。種類によりますが、筋が強いものや臭みのあるものも、下処理すれば十分使えます」
「それを揚げる料理はどうかなと思って」
「揚げる?」
アイが首を傾げる。この世界にも油で焼く料理はある。だが、大河が考えているのは、衣をつけて油の中で火を通す料理だった。
「肉に下味をつけて、粉をまぶして、熱い油で一気に火を通す。外はカリッとして、中は肉汁が残る」
説明しながら、大河の頭には唐揚げやとんかつが浮かんでいた。今ある材料なら、唐揚げの方が再現しやすい。魔物の肉を使えば、この世界らしさも出せる。卵料理とはまったく違う方向の驚きを作れるはずだ。
アイの目が、すっと変わった。料理の話をしている時の、あの集中した目だ。
「外がカリッとして、中が柔らかい……」
「そう。噛んだ時に食感の差が出る」
「やってみたい」
その一言で、厨房の空気が少し変わった。マイラは棚から粉と油を取り出し、アイは下味に使えそうな香草と塩、少し酸味のある果汁を並べる。大河は自分の知っている範囲で、肉を小さく切ること、味を染み込ませること、粉を薄くまぶすことを伝えた。実際に形にしていくのはアイとマイラだ。
油が温まると、厨房に緊張が走った。アイが肉をそっと入れる。じゅわっと音が弾けた。細かな泡が肉の周りに集まり、油の香りが一気に立ち上る。ポルポルが目を輝かせた。
「これは危険な匂いなのです」
「食欲的に?」
「そうなのです」
衣が少しずつ色づいていく。黄金色に変わるその様子を、アイは瞬きも少なく見つめていた。引き上げると、表面が細かく泡立ったように固まり、湯気が立ち上った。
ちょうどその時、店の扉が勢いよく開いた。
「大河くーん!」
エリカだった。片手に大きな紙袋を抱え、息を少し弾ませている。診療所へ戻ったと言っていたはずなのに、どう見ても何かを買ってきた帰りだった。
ポルポルが半目になる。
「やっぱり怪しかったのです」
エリカは胸を張った。
「昨日のお祝いをまだしておらんかったからの!」
「昨日のお祝い?」
「そうじゃ。初依頼から無事に帰ってきた祝いと、火魔法が一段進んだ祝いじゃ。まとめて祝いじゃ!」
「まとめるんですね」
「祝いは多い方がよい」
エリカは得意げに胸を張り、大河へ紙袋を差し出した。
差し出された袋を、大河は恐る恐る受け取った。中から出てきたのは、真っ赤なマントだった。縁には金色の刺繍が入り、背中には炎を吐くドラゴンの模様が大きく描かれている。どう見ても高そうで、どう見ても派手だった。
「……すごいですね」
「火魔法にぴったりじゃろ!」
エリカは目を輝かせている。アイは口元を押さえ、マイラは苦笑し、ポルポルは深いため息をついた。
「エリカさん。また買ったのです?」
「限定品じゃ。一目惚れしたのじゃ」
「だから借金が減らないのです」
「うっ」
エリカは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに大河へ向き直った。
「でも、大河くんには似合うと思ったのじゃ」
その顔があまりに真剣だったので、大河は返す言葉に困った。センスはともかく、気持ちはありがたい。彼はマントを畳み直し、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。大事にします」
エリカの表情がぱっと明るくなった。
「うむ! では昼ご飯も食べていくぞ」
「最初からそのつもりだったのです」
ポルポルの突っ込みに、店の中へ小さな笑いが広がった。
その後、唐揚げの試食が始まった。最初に口にしたのはアイだった。彼女は小さな一切れを噛み、しばらく黙る。衣が砕ける音が、静かな厨房に小さく響いた。中から肉汁が滲み、香草の匂いと油の香ばしさが重なる。
アイの目がゆっくり開いた。
「……これ、勝てる」
その声は小さかった。けれど、確信があった。
大河は思わず笑った。エリカは隣で唐揚げを頬張り、ポルポルはすでに次の一切れへ前足を伸ばしている。マイラは娘の横顔を見つめ、静かに頷いた。
火魔法は一段進み、料理にも新しい火が入った。
街の外で味わった恐怖は、確かに大河を揺らした。だが、その揺れは少しずつ別の形へ変わっていく。強くなるための力へ。誰かの料理を変える知識へ。そして、まだ見ぬ次の勝負へ向かう熱へ。
油の弾ける音が、マイラ食堂に明るく響いていた。
第23話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河の火魔法は、拳ほどの火球を放てるところまで成長しました。
まだ実戦で自由に使える段階ではありませんが、森での恐怖と失敗も、確かな前進につながっています。
そしてアイの次の勝負料理は、魔物肉を使った唐揚げ。
外はカリッと、中は柔らかく。
アイ自身も「勝てる」と感じた新料理が、料理ランキングでどこまで評価されるのか。
エリカから贈られた赤いドラゴン柄のマントとともに、次の挑戦が始まります。




