第19話 黄金色の料理
第19話です。
ノーマントとの再戦に勝利し、正式なバトルランカーとなった大河。
しかし、順位を得るということは、その場所を守り続ける責任を背負うことでもありました。
そして次に勝負へ挑むのは、小さな料理人・アイです。
その夜、エリカ診療所の最上階には、いつもより少し遅い夕食の匂いが漂っていた。診療所の下階ではすでに灯りが落とされ、昼間あれほど人の声が行き交っていた待合室も静まり返っている。窓の外には、夜の街の明かりが点々と浮かび、遠くの酒場から漏れる笑い声が細い糸のように届いていた。
大河は食卓の前に座り、まだ少し痛む肩を無意識に回した。ノーマントとの試合で受けた一撃は、今も身体に残っている。激しい痛みではない。だが、動かすたびに鈍い熱が走り、あのリングの砂の感触を思い出させた。勝った。何度思い返しても、まだ完全には現実味がない。前回、何もできずに倒された相手に、自分の拳と足で勝った。その事実が、胸の奥で静かに重さを持っていた。
向かいではエリカが食事を取っていた。仕事を終えたばかりなのだろう。銀色の髪は少し乱れ、白い外套の袖も片方だけ折れたままになっている。だが、大河を見る目にはいつものような浮き立った光があった。ポルポルはすでに皿の前で小さな身体を乗り出し、煮込み料理を夢中で食べている。
「それで、大河くん」
エリカは木杯を置き、じっと大河を見た。
「今日は何か報告がある顔じゃな」
「分かりますか」
「分かるとも。大河くんの顔なら、わしは一日中見ていられる」
「そういう意味ではないです」
大河が苦笑すると、エリカは楽しそうに目を細めた。いつもの軽口に少し救われる。大河はカードを取り出し、食卓の上に置いた。
「今日、素手限定の格闘ランキングに挑戦しました。」
エリカの表情が、ふっと変わった。さっきまでの乙女の顔が薄れ、何かを見極めるような目になる。
「その顔は勝ったのかい」
「はい」
大河はカードに魔力を流した。表示が空中に浮かび上がる。五十メートル走一位、百ポイント。格闘ランキング七百五十二位、二百四十九ポイント。総合ポイント、三百四十九ポイント。
エリカはその数字を見上げ、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと口元を緩める。
「やるではないか」
その声は、いつもの大げさな調子ではなかった。素直に、人の成長を認める響きがあった。大河は少し照れくさくなり、視線をカードへ落とした。
「前に負けた相手でした。ノーマント・フロックという、ロックフィッシャー所属の人です」
「ほう。あのドクロ印の連中か」
エリカは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。代わりに、カードをもう一度見て、満足げに頷く。
「三百四十九ポイント。見事じゃ。初めてこの世界に来たばかりの頃を思えば、ずいぶん遠くまで来たのう」
「まだ全然ですけど」
「それでもじゃ。最初の一歩を踏み出す者は多いが、痛みを知ったあとでもう一度踏み出す者は少ない」
その言葉は、大河の胸に静かに落ちた。前回の敗北を、エリカは見ていない。だが、負けた後にもう一度リングへ上がる重さは分かっているのだろう。数百年生きているらしい彼女は、いつもふざけているようで、時々こちらの心の奥にあるものをすっと触ってくる。
エリカはそこで、急に唇を尖らせた。
「しかし、惜しかったのう」
「惜しかった?」
「大河くんの勇姿、この目で見たかったのじゃ」
彼女は本気で悔しそうに肩を落とした。ポルポルが皿から顔を上げる。
「エリカさんは仕事だったのです」
「分かっておる。診療を放り出すわけにはいかん。急患もおったしの」
そう言ってから、エリカはぱっと顔を上げた。緑の瞳がきらりと光る。
「次は休みを調整してでも行くからの」
「えっ」
「大河くんの試合は最前列で見る。応援もする。必要なら横断幕も作る」
「横断幕はやめてください」
「大河くん必勝、と大きく書くのじゃ」
「やめてください」
ポルポルが真顔で頷いた。
「患者さん優先なのです」
「もちろん急患がおらん日じゃ。わしは医者じゃからの」
「急に真面目なのです」
「わしはいつでも真面目じゃ」
「それは確認できません」
ポルポルの冷静な一言に、大河は思わず笑った。エリカは不満そうに頬を膨らませたが、すぐにまた大河のカードへ目を向ける。
「ただし、大河くん。今日からは少し意味が変わるぞ」
「意味?」
「そうなのです」
ポルポルがそこで姿勢を正した。彼女は食事中とは思えないほど真剣な顔で、大河のカードを前足で示す。
「大河さんは今日から正式なバトルランカーなのです。格闘バトル素手限定、七百五十二位。つまり、その順位を持つ者になったのです」
「ああ」
「バトルランカーには義務があるのです」
「確か月に一度は戦わないといけない、でしたよね」
「そうなのです。基礎体力のような記録型ランキングには参加義務はありません。でも、バトルランキングのような対戦型は別なのです。順位を持つ者は、月に最低一回はランキング戦へ出なければなりません。出なければ順位を失うのです」
大河はカードを見つめた。七百五十二位という数字が、さっきまでより少し重く見えた。勝って手に入れた順位。だが、それはただの勲章ではない。守らなければならない場所でもある。
「一度勝って終わりじゃないってことか」
「そうじゃ」
エリカが頷いた。
「登るのも難しいが、維持するのも難しい。それがランキングじゃ。強さだけでは足りん。体調管理、相手選び、時期、運。全部が絡む」
「王も同じなんですか」
大河が尋ねると、エリカとポルポルが一瞬だけ目を合わせた。ポルポルは少し声を落とす。
「王様も例外ではないのです。王様は必要な部門だけに参加して、王の座を維持しているのです。参加部門を増やせば増やすほど、毎月の義務も増えるのです」
王。
その言葉が出ると、食卓の空気がわずかに変わった。大河にとって、王はまだ遠い存在だ。五十メートル走で一位を取り、格闘ランキング七百五十二位になった今でも、その距離は見えないほど遠い。
「王様は、やっぱり強いんですよね」
「強いのです」
ポルポルは短く答えた。余計な飾りのない声だった。
「でも、今はまだそこを見すぎなくていいのです。大河さんはまず、この七百五十二位をちゃんと自分の足場にするのです」
大河は頷いた。王を見るには、まだ早い。今は目の前の順位を守り、少しずつ上がること。それが自分のやるべきことだ。
食事を終える頃、エリカはまた大河の方へ身を乗り出してきた。
「それで、大河くん。勝利祝いじゃが」
「何か嫌な予感がします」
「頭を撫でてもよいか?」
「駄目です」
「では手を握るのは?」
「駄目です」
「では同じ皿の料理を」
「駄目です」
エリカがしょんぼりと肩を落とし、ポルポルが満足そうに頷いた。そんなやり取りの中で、試合後の張り詰めた心が少しずつ緩んでいく。大河は、ここが自分の帰る場所の一つになっていることを感じた。
翌日、大河は昼前にマイラ食堂へ向かった。通りには柔らかな日差しが落ち、昨日の試合で痛めた肩には少しだけ湿布のような薬草の匂いが残っている。マイラ食堂の新しい看板は、今日も店先で明るく光っていた。扉を開けると、湯気と香草の匂いが迎えてくれる。
店内には常連らしき客が数人いた。以前より少し賑わいが戻っている。マイラは厨房で鍋を見ており、アイは客席で水を運んでいた。小さな身体で盆を持つ姿はまだ少し危なっかしいが、動きには以前より落ち着きがある。母が倒れていた頃の張り詰めた空気は、少しずつ薄れていた。
「いらっしゃい」
アイは大河に気づくと、短く言った。けれど、その目元は少し柔らかい。
「今日は、卵の練習?」
大河が尋ねると、アイはこくりと頷いた。
「明日、料理ランキングに出ようと思って」
「明日か」
大河の胸にも少し緊張が走った。アイにとって料理ランキングは、ただの挑戦ではない。父が残した借金を返し、店を守るための現実的な手段だ。マイラもそれを分かっているのだろう。厨房からこちらを見て、静かに頷いた。
「今日は営業が終わったら、もう一度試作しようと思っています」
「自分も手伝うよ」
「助かります」
昼の営業が終わると、店内は静かになった。窓から差し込む午後の光が、木の机に細い影を落としている。マイラは少し休んでから厨房へ戻り、アイは手を洗ってエプロンを締め直した。ポルポルは「試食係」として堂々と椅子に座っている。
今日のテーマは卵料理だった。
大河が地球の料理として話したのは、卵で具材を包む料理。オムライス。もちろん、この世界に米とまったく同じものがあるわけではない。だが、似たような穀物は見つかっていた。それを刻んだ野菜や肉と炒め、薄く味をつけ、卵で包む。さらに、卵スープとポテトサラダを添える。卵の優しさ、穀物の満足感、芋の甘み、温かなスープ。子供から大人まで食べやすく、見た目も鮮やかになる。
「問題はソースだな」
大河が呟くと、アイが赤い実を手に取った。トマトに似た実だが、少し酸味が強い。前に大河が話したケチャップの考え方をもとに、マイラが試しに煮詰めてくれていた。鍋の中には赤く艶のあるソースがあり、甘酸っぱい香りが立ち上っている。
「これ、まだ少し酸っぱい」
アイは小さな匙で味を見て、眉を寄せた。
「砂糖を少し足す?」
「足す。でも、甘すぎると卵に負ける」
彼女は迷いなく調整していく。マイラはその横顔を見ながら、嬉しそうに、けれど少し寂しそうにも見える表情を浮かべていた。娘が急速に料理人として成長している。その頼もしさと、まだ子供でいてほしい気持ちが混ざっているのかもしれない。
最初のオムライスは失敗した。卵が少し固く、包む時に端が破れた。アイは皿の上で崩れた黄色い塊をじっと見つめ、唇を結んだ。大河が何か声をかけようとすると、彼女はすぐにフライパンを洗い始める。
「もう一回」
二回目は、火を弱めた。卵液を流し込むと、黄金色の膜がゆっくり広がる。アイは焦らず、木べらで端を寄せ、まだ柔らかい中心を残したまま穀物を乗せた。包む。今度は破れなかった。だが、形は少し歪んでいる。
「もう一回」
三回目。厨房に卵の甘い匂いが広がった。フライパンの上で、半熟の卵が光を受けて艶めいている。アイの目は真剣だった。幼さの残る横顔に、火加減を読む料理人の集中が宿る。大河は息を潜めて見守った。ポルポルでさえ、珍しく黙っている。
卵が穀物を包む。
皿へ滑らせる。
黄金色の楕円が、白い皿の上に静かに乗った。アイは赤いソースを横に添え、ポテトサラダを小さく盛り、卵スープを器へ注いだ。湯気が立ち上る。優しい卵の匂い、甘酸っぱいソース、芋の香り。店の中に、今までとは違う料理の空気が満ちた。
「真ん中を切るんだ」
大河がそっと言うと、アイは小さなナイフを手に取った。緊張で指先がわずかに震えている。刃が卵の中央に入る。薄い膜がすっと開いた。
次の瞬間、中の半熟卵がとろりと広がった。
黄金色の卵が左右へ流れ、湯気とともに甘い香りが立ち上る。ポルポルが思わず前のめりになり、マイラは手で口元を押さえた。アイはその様子をじっと見つめていた。成功した。表情は大きく変わらない。けれど、目の奥に小さな光が灯った。
大河は一口食べた。卵は柔らかく、穀物の味を包み込み、赤いソースの酸味が後味を締める。完璧ではない。だが、十分に勝負できる。何より、審査員の前で卵が開く瞬間の驚きは、この世界では大きな武器になるはずだった。
「これはいける」
大河が言うと、アイはようやく小さく息を吐いた。
「本当?」
「ああ。きっとこれなら勝負になるよ」
ポルポルが我慢できずに匙を伸ばした。
「ポルポルも審査するのです」
「さっきから食べたいだけだろ」
「厳正な試食なのです」
ポルポルは一口食べると、尻尾を大きく振った。
「おいしいのです! ふわふわで、とろとろなのです!」
その言葉に、アイの頬がほんの少しだけ赤くなる。マイラは娘の肩に手を置いた。
「明日、これで行きましょう」
アイは母を見上げ、それから大河を見た。小さな身体に、静かな覚悟が宿っている。
「明日、これで料理ランキングに出ます」
「必ず応援に行く」
「うん」
夜が近づく頃、三人と一匹はランキング協会へ向かった。料理ランキングの受付は、バトル会場とは違って少し穏やかな雰囲気がある。だが、掲示板に並ぶ名前と点数には、別の種類の緊張が漂っていた。味、見た目、手際、斬新さ。料理人たちが自分の腕で順位を競う場所。
受付嬢がアイのカードを確認する。
「料理ランキングへの参加ですね」
アイは小さく頷いた。
「はい」
カードが淡く光った。
大河はその光を見つめながら、今日のオムライスが開いた瞬間を思い出していた。戦いのリングとは違う。だがここにも、誰かの人生を変える勝負がある。
明日は、アイの番だ。
第19話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河は格闘ランキング入りを果たしましたが、バトルランカーには月に一度の参加義務があります。
勝って終わりではなく、ここからは順位を守り、さらに上を目指す戦いが始まります。
一方、アイは大河の地球の知識をもとに、オムライスを完成させました。
ふわふわの卵と、切った瞬間に広がる半熟の驚き。
この料理は、異世界の審査員たちにどこまで通用するのか。
次回、アイの料理ランキング挑戦です。




