第18話 再戦
第18話です。
再びノーマントと向き合った大河。
一度は何もできずに敗れた相手へ、これまで積み重ねてきたすべてをぶつけます。
果たして、大河は初めての格闘ランキング入りを果たせるのでしょうか。
ノーマント・フロックの拳が、大河の頬のすぐ横を通り抜けた。
前回なら、そこで終わっていたかもしれない。重い右。踏み込みの速さ。肩を揺らして視線を誘い、そのまま正面から潰しに来る一撃。最初に受けた時、大河はその拳を避けるどころか、反応することさえ遅れた。腕で受けた衝撃に身体が崩れ、次の連打を止められず、最後は砂の上に沈んだ。
だが今、大河の足は崩れていなかった。
半歩だけ外へずらした足裏が、砂を薄く削っている。拳が通り過ぎた風が肌を撫でた。視線は外していない。ノーマントの肩、腰、膝、足裏。どこに力が残り、次にどこへ動くのか。すべてがはっきり見えるわけではない。それでも、前回より確実に見えていた。
ノーマントの目がわずかに見開かれる。
その一瞬を、大河は逃さなかった。踏み込みすぎず、近づきすぎず、相手の腕が戻る隙間に左の拳を差し込む。ノーマントの脇腹を狙った軽い一撃。全力ではない。まずは距離を確かめるための拳だった。鈍い音がして、ノーマントの身体がわずかに揺れる。
観客席から小さなどよめきが起きた。
「当てたぞ」
「前の新人か?」
「動きが違うな」
ざわめきは砂を踏む音と混ざり、リングの周囲を低く揺らした。ポルポルは柵の向こうで両前足を握りしめている。小さな身体が今にも飛び出しそうだった。
「大河さん、いいのです! その距離なのです!」
声は届いている。だが、大河は返事をしなかった。返事をする余裕がないわけではない。ただ、今は言葉より目の前の相手に集中すべき時だった。
ノーマントは脇腹を軽く押さえ、口元を上げた。
「へえ」
その笑みには、さっきまでの余裕だけではないものが混ざっていた。面白がっている。前回倒した新人が、今度は自分の拳を避け、反撃を当ててきた。それが彼の中の戦う気持ちを刺激したのだろう。
「少しは鍛えてきたみたいだな」
「毎日、やれることをやってきただけです」
「そういう奴は嫌いじゃねぇ」
言い終える前に、ノーマントの足が動いた。今度は先ほどより速い。右ではなく左。拳が来ると見せかけ、肩の動きで大河の視線を誘いながら、低い蹴りのような踏み込みで距離を潰してくる。素手限定とはいえ、格闘バトルで足を使った崩しは禁止されていない。大河はそれを見て、慌てて下がりかけた。
だが、すぐに思い直す。
大きく下がれば追われる。
前回は、それで距離を支配された。逃げたつもりで、相手の得意な間合いへ引きずり込まれた。大河は足を引くのではなく、斜めへずらした。ノーマントの踏み込みを正面から受けず、肩で風を逃がすように身体を回す。拳が胸元をかすめ、布が引っ張られる感覚があった。
危ない。
けれど、見えない攻撃ではなかった。
大河は右手でノーマントの腕を軽く弾き、左足を半歩入れた。武道で何度も繰り返した、相手の力の流れを外す動き。真正面から押し返すのではなく、重心の線をずらす。ノーマントの身体がわずかに流れた。大河はそこへ掌底を入れる。胸ではなく肩口。倒すためではなく、体勢を崩すための一撃だった。
ノーマントはすぐに踏み直した。さすがにローランカーとはいえ、七百五十二位の男だ。簡単には崩れない。大河の掌底を受けた瞬間、逆に肘を畳んで距離を詰め、短い拳を腹へ打ち込んでくる。
大河は腕を下げて受けた。
鈍い衝撃が骨に響く。完全には防げていない。腹の奥に重い痛みが広がった。大河は歯を噛み、後ろへ下がる。ノーマントは逃がさない。前回と同じように、連打で畳みかけてくる。右、左、さらに右。拳の一つ一つが重く、砂を蹴る足音まで圧力を持っていた。
「大河さん!」
ポルポルの声が少し高くなる。
大河は両腕を上げ、顔を守りながら横へ動いた。全ては避けきれない。肩に一発もらい、腕に二発目が当たる。痛い。だが、前回のように頭が真っ白にはならない。今は痛みの中でも、相手の動きが見えていた。
ノーマントは強い。
それを大河ははっきり感じていた。前回の勝利が偶然ではなかったことも、ローランカーの中で生き残っている理由も、拳を交えれば分かる。動きが速いだけではない。踏み込みの角度、間合いの詰め方、打つタイミングのずらし方。こちらが少しでも受けに回れば、すぐに流れを掴まれる。
だから、受け続けてはいけない。
大河は連打の最後を待った。ノーマントの右拳が大きく見える。だが、それは誘いだ。肩の沈み方がわずかに違う。右を打つ形を見せながら、左の短い拳を腹へ入れるつもりだろう。前回なら引っかかった。今も完全に読めたわけではない。それでも、地球で武道をしていた頃の感覚が警鐘のように鳴った。
大河は右に動くふりをして、左足を沈めた。
ノーマントの左拳が空を切る。
その瞬間、大河は相手の懐に入った。近すぎる距離。拳を振るには窮屈だが、身体を使うにはちょうどいい。大河は肩を相手の胸元へ押し込み、足の位置をずらした。力任せではない。相手の重心が前へ出た瞬間、その支えを少しだけ外す。
ノーマントの身体が揺れた。
「っ!」
初めて、ノーマントの顔から笑みが消えた。
大河はそこへ短い拳を打ち込んだ。腹ではなく、脇腹の少し上。息を詰まらせるための場所。拳が入った瞬間、ノーマントの息が漏れた。だが彼も倒れない。すぐに大河の肩を掴もうと腕を伸ばす。大河はそれを払って離れた。
観客席のざわめきが大きくなる。
「新人が押してるぞ」
「ノーマントが崩された?」
「今の何だ?」
ポルポルは空中で小さく跳ねた。
「そこなのです! そうなのです、大河さん!」
興奮のあまり言葉が半分崩れている。だが、その声は大河の背中を押した。
ノーマントは一度距離を取り、首を鳴らした。目が変わっている。もう、前回倒した新人を見る目ではなかった。対等とは言わないまでも、倒すべき相手として大河を見ている。
「お前、この短期間で何をした?」
「毎日、積み重ねただけです」
大河は息を整えながら答えた。肩が痛い。腹も重い。だが、まだ動ける。むしろ、身体の奥には静かな熱が残っている。
「積み重ねただけで、そんなに変わるかよ」
ノーマントはそう言って笑った。だがその笑いは、どこか嬉しそうでもあった。
次に仕掛けたのはノーマントだった。先ほどまでの力で押す攻撃ではない。細かい足運びで距離を測り、拳を出す直前に角度を変える。右、左、踏み込み、引き、また踏み込み。攻撃そのものより、間を乱す動き。大河はそれに苦しんだ。見える。だが、追いきれない。視線を上に引かれ、足元を崩され、腕で受けた瞬間には次の拳が飛んでくる。
頬を一発かすめた。熱い痛みが走る。口の中に鉄の味が広がった。
前へ出るか。下がるか。
迷えば打たれる。
大河は一度、大きく息を吐いた。観客の声を遠ざける。ポルポルの応援も、砂の音も、すべて一枚薄い膜の向こうへ押しやる。見ようとしすぎるな。全部を追おうとするから遅れる。武道で教わったことを思い出す。相手の拳を見るな。肩を見るな。全体を見ろ。重心を見ろ。相手がどこへ行きたいのか、その流れを見る。
ノーマントの右肩がわずかに下がる。
次は強い右。
大河はそう読んだ。だが、すぐに違和感を覚える。右肩は下がった。だが足裏の力は左へ残っている。右を見せて、左で入る。前回食らったフェイントに近い。
大河は動かなかった。
ノーマントの左が来る。
その瞬間、大河は相手の拳の外側へ手を添え、力の向きをずらした。受けるのではなく、流す。拳は大河の横を抜ける。ノーマントの身体がほんの少し前へ流れた。
今。
大河の足が砂を噛んだ。右足を軸に身体を回し、左手で相手の腕を制しながら、右の掌底を胸元へ押し込む。打つというより、崩す。ノーマントの上体が後ろへ反った。大河はそのまま踏み込み、肩口へもう一撃入れる。
ノーマントの足がもつれた。
会場が息を呑む。
だが、倒れない。ノーマントは片足で踏ん張り、強引に身体を戻した。凄まじい粘りだった。大河はその瞬間、相手への敬意に近いものを覚えた。強い。ただ殴るだけではない。倒れない技術も、立て直す力もある。だからこそ、勝ちたいと思った。
ノーマントが低く笑った。
「いいな」
その声は、もう余裕ではなかった。戦いそのものを楽しむ声だった。
「いいぞ、望月大河」
次の瞬間、ノーマントが全力で踏み込んだ。前回の比ではない速度。砂が大きく跳ねる。右の大振り。分かっていても重い。大河は避けようとしたが、完全には間に合わない。拳が肩を打ち、身体が横へ揺れる。痛みが走る。視界が一瞬ぶれた。
ノーマントは追ってくる。
ここで下がれば、また連打に飲まれる。
大河は踏みとどまった。揺れた身体を、あえて前へ戻す。ノーマントの二発目が来る前に、内側へ入る。相手の拳が振り切られる前の、ほんのわずかな隙間。そこへ身体を滑り込ませた。
近い。
ノーマントの息が聞こえる。汗の匂いがする。観客席の声が消える。
大河は左手でノーマントの腕を押さえ、右足を相手の足の外側へ置いた。武道で何度も練習した崩し。地球では畳の上だった。今は砂の上。相手は道着ではなく、異世界のランカー。だが、重心を外す原理は変わらない。
腰を沈め、相手の力を受けず、流れを折る。
ノーマントの身体がふっと軽くなった。
大河はその瞬間、右の拳を短く打ち込んだ。顎ではない。胸の中心でもない。相手の呼吸が止まる位置へ、身体ごと押し込むように。
鈍い音がした。
ノーマントの足が砂を離れ、後ろへ崩れた。巨体が片膝をつき、次に片手を砂へつく。立ち上がろうとしたが、呼吸が戻らない。大河も追撃しない。拳を構えたまま、相手の動きを見つめた。
審判が近づく。
「続行できますか」
ノーマントは歯を食いしばった。立とうとする。膝が震える。だが、身体は言うことを聞かなかった。しばらくして、彼は砂の上に座り込むようにして息を吐いた。
「……無理だ」
審判が手を上げた。
「勝者、望月大河!」
その瞬間、会場がどよめいた。拍手、歓声、驚きの声。ローランカー戦の小さな会場とは思えないほど、ざわめきが広がっていく。大河はその中心で、しばらく動けなかった。勝った。言葉にすると簡単だが、身体はまだその事実を受け止めきれていない。肩は痛み、口の中には鉄の味が残り、息も荒い。
それでも、勝った。
「大河さああん!」
ポルポルが叫びながら飛んできた。柵を越えそうな勢いだったが、係員に止められ、そこでばたばたしている。
「勝ったのです! 勝ったのです! 大河さん、勝ったのです!」
大河はようやく息を吐き、小さく笑った。視界の端で、ノーマントがゆっくり立ち上がろうとしているのが見えた。大河は近づき、手を差し出した。
ノーマントはその手をしばらく見てから、笑った。
「手を貸されるとはな」
「嫌ならやめます」
「貸せよ」
大河が引き上げると、ノーマントは少しふらつきながら立った。顔には悔しさがある。だが、それ以上にどこか晴れた表情だった。
「俺の負けだ」
「ありがとうございました」
「礼を言うのはこっちかもな。面白かった」
ノーマントは肩を回し、痛そうに顔をしかめた。
「しかし、本当に変わったな。前回のお前とは別人だ」
「別人ではないです。少し、動けるようになっただけです」
「その少しが厄介なんだよ」
ノーマントは大河の肩を軽く叩いた。前回の相手に対する態度とは違う。そこには、同じリングに立った者への認めるような空気があった。
「上を目指すなら、もっと化け物みたいな奴らがいる。ローランカーで満足するなよ」
「はい」
「それと、ロックフィッシャーには気をつけろ」
その言葉に、大河は少しだけ眉を動かした。
「所属してるあなたが言うんですか?」
「所属してるから言うんだよ」
ノーマントはそれ以上語らなかった。彼は軽く手を振り、係員に支えられながらリングを降りていった。大河はその背中を見送った。敵ではある。だが、嫌いにはなれない男だった。
試合を終えた大河は、まだ肩に残る鈍い痛みを感じながら、ポルポルとともにランキング協会の受付へ向かった。
勝ったという実感はある。それでも、どこか夢を見ているようだった。
ほんの2ヶ月前まで、自分はこの世界のことを何一つ知らなかった。ランキング外の無名。宿代を気にしながら、食事を切り詰める毎日だった。
受付係がカードを受け取り、水晶へそっとかざす。
「ランキング情報を更新しました」
静かな声とともに返されたカードを受け取り、大河はゆっくりと視線を落とした。
そこには、新しい数字が刻まれていた。
五十メートル走 一位 100ポイント。
格闘ランキング 素手限定部門 七百五十二位 249ポイント。
総合ポイント 349ポイント。
思わず息が止まる。
「……三百四十九ポイント。」
小さく漏れたその声に、ポルポルが勢いよく飛び上がった。
「やったのです! 大河さん、やったのです! これで月末から三百四十九万マールなのです!」
くるくると空中を回りながら喜ぶ姿に、大河もようやく笑みを浮かべた。
「本当に……勝ったんだな」
その一言は、誰に向けたものでもなかった。
前回、この場所で味わった悔しさが静かによみがえる。
何もできずに敗れた自分。
あの日から積み重ねてきた朝の鍛錬。魔法の修行。エリカとの出会い。アイやマイラとの時間。そのすべてが、この三百四十九万マールという数字へ繋がっているように思えた。
協会を出ると、夕暮れの街は茜色に染まり始めていた。石畳の上を行き交う人々の笑い声が風に乗り、露店から漂う焼きたての肉の香りに、ポルポルのお腹がぐうっと可愛らしく鳴る。
「大河さん! 今日はお祝いなのです!」
「結局、それか」
「今日は特別なのです!」
大河は思わず吹き出した。
異世界へ来たばかりの頃には想像もできなかった光景だった。
笑い合える仲間がいて、帰る場所があり、自分の努力を証明する数字が手の中にある。
もちろん、ここが終わりではない。
ようやく最初の一歩を踏み出したにすぎない。
カードをそっと握り直し、大河は夕焼けに染まる街並みを見渡した。
「次は、もっと上へ。」
静かな決意を胸に、大河はポルポルと並んで歩き出した。
第18話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河はついにノーマントを破り、格闘ランキング素手限定部門七百五十二位へ入りました。
五十メートル走一位の百ポイントと合わせ、総合ポイントは三百四十九ポイント。
前回の敗北を無駄にせず、鍛錬を重ね、自分の力で掴んだ勝利です。
そしてノーマントが残した「ロックフィッシャーには気をつけろ」という言葉。
大河の前には、さらに大きなランキング世界の影が見え始めています。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




