第17話 再戦の扉
第17話です。
大河は再び、格闘バトル素手限定のローランカー枠へ挑戦します。
相手は、初戦で大河を倒したノーマント・フロック。
敗北から積み重ねてきたものが、いよいよ試されます。
いつまでも、このままというわけにはいかない。
朝の広場には、まだ夜の冷たさが少しだけ残っていた。薄い霧のようなものが地面近くを漂い、踏み固められた土は朝露を含んでわずかに湿っている。大河はその上に立ち、ゆっくりと拳を握った。指の関節が小さく鳴る。呼吸を整え、肩の力を抜き、足裏で地面を確かめる。ほんの少し前まで、この身体は自分のものではないように感じていた。走れば力が上へ逃げ、踏み込めば思った以上に身体が流れ、拳を出しても感覚と結果が噛み合わなかった。
だが今は違う。
大河は軽く踏み込んだ。足裏が地面を噛み、腰が回り、拳がまっすぐ前へ伸びる。袖が朝の空気を切った。続けてもう一歩、角度を変える。身体は前よりずっと素直に反応した。力を入れすぎれば崩れる。抜きすぎれば遅れる。その境目が、少しずつ分かるようになっている。
ポルポルは少し離れたところで、大河の動きを見ていた。ピンクに近い紫色の毛並みが朝日を浴び、ふわりと光っている。普段なら朝食の気配を探している時間だが、今は真剣な顔で尻尾を揺らしていた。
「大河さん、かなり良くなっているのです」
大河が拳を下ろすと、ポルポルは近づいてきた。
「最初の頃とは動きが全然違うのです。足も流れていませんし、拳の戻りも速いのです。今なら、素手限定のローランカー相手でも十分戦えると思うのです」
その言葉を聞いても、大河はすぐには答えなかった。広場の向こうでは、朝市の準備をする人々の声が聞こえ始めている。遠くで木箱を置く音がし、焼きたてのパンの匂いが風に乗って流れてきた。世界はいつも通り動き始めている。その中で、大河の胸の奥だけが静かに熱を持っていた。
ノーマント・フロック。
あの名前を思い出すだけで、腹の奥に鈍い感覚がよみがえる。最初の格闘バトルで、大河は何もできなかった。相手の動きに反応するだけで精一杯になり、フェイントに崩され、連打を受け、砂の上に沈んだ。痛みよりも、何もできなかったという事実の方が重かった。
けれど、あの日から大河は止まっていない。
走った。身体を作った。魔力を感じる訓練をした。小さな火を灯した。アイとマイラのために動き、エリカと出会い、生活の形も変わった。五十メートル走一位の報酬で、資金にも少し余裕ができた。負ければまたボーナスポイントを失う。それでも、今は負けたら即座に生活が崩れるような状態ではない。
挑戦できる余裕がある。
なら、挑戦しない理由を探す方が難しかった。
「……行こうか」
大河は静かに言った。
ポルポルの耳がぴくりと動く。
「格闘バトルなのです?」
「ああ。素手限定。ローランカー枠に挑戦する」
言葉にした瞬間、胸の中の迷いが少しだけ形を変えた。怖さはある。前回の敗北を忘れたわけではない。だが、怖さを避け続ければ、王へ続く道はそこで止まる。ランキング世界で生きるということは、どこかで数字に向き合い、相手に向き合い、自分の弱さに向き合うことなのだろう。
ポルポルは一度だけ深く頷いた。
「分かったのです。ポルポルも一緒に行くのです」
朝食を軽く済ませた後、二人はランキング協会へ向かった。協会の白い石造りの建物は、朝の光を受けていつもより眩しく見えた。入口にはすでに多くのランカーが出入りしている。剣を背負った者、杖を持った魔法使い、料理用の道具箱を抱えた職人、傷だらけの格闘家。それぞれの顔には、今日の勝負へ向かう緊張や期待が浮かんでいた。
受付ホールに入ると、数字と名前が空中に浮かぶ掲示板が目に入った。基礎体力、魔法、剣術、料理、回復、格闘。無数のランキングが、街の鼓動のように絶えず更新されている。大河はその中から格闘バトル、素手限定の掲示板を見上げた。
ローランカーの欄に並ぶ名前の中に、ノーマント・フロックの名があった。ロックフィッシャー所属。ランキング七百五十二位。
大河は少しの間、その文字を見つめた。こちらから彼を選ぶことはできない。挑戦できるのは、あくまでローランカー枠だけだ。誰が承認するかは分からない。前回と違う相手になるかもしれないし、もっと厄介な相手になるかもしれない。ランキングの扉を叩くことはできても、向こうから誰が出てくるかを決めることはできない。
それがこの世界のルールだった。
受付へ向かうと、係員が大河のカードを確認した。以前と同じ女性だった。大河の名前に気づいたのか、ほんの少しだけ目を上げる。
「格闘バトルへの挑戦ですか」
「はい。素手限定。ローランカー枠へ挑戦申請します」
自分の声は思ったより落ち着いていた。係員は水晶板にカードをかざし、手続きを進める。淡い光がカードから浮かび、空中に文字が表示された。
「望月大河様。現在、格闘バトル素手限定ランキング外。ローランカー枠への挑戦申請を受け付けます。対戦相手は、該当ローランカーの承認によって決定します。最初に承認した者が対戦相手となります。敗北時はボーナスポイント、マイナス十。よろしいですか」
「はい」
「では、申請を送信します」
係員が水晶板へ指を滑らせると、大河のカードが一度だけ淡く光った。申請は送られた。あとは誰かが承認するのを待つだけだ。
待機室へ案内されると、大河は木製のベンチに腰を下ろした。部屋には他にも数人の挑戦者がいた。誰もあまり話さない。剣を握る者、拳に布を巻く者、カードの表示を何度も確認する者。待っている時間は、試合そのものとは違う種類の緊張がある。まだ相手が分からない。その不確かさが、じわじわと心を削ってくる。
ポルポルは大河の膝の上に降り、珍しく静かに座った。
「大丈夫なのです」
「分かってる」
「もし相手がノーマントさんじゃなくても、大河さんなら戦えるのです」
「ありがと」
大河は拳を開いては閉じた。魔法はまだ使えない。正確には、小さな火を灯す程度ならできるが、実戦で使うにはほど遠い。今日頼るべきものは、身体と、武道の感覚と、ここまで積み重ねてきた動きだけだ。それで勝てなければ、また鍛え直せばいい。そう思える程度には、以前より少しだけ強くなった。
その時、カードが光った。
淡い光ではなかった。はっきりとした通知の光が、大河の手元から広がる。ポルポルが息を呑んだ。大河はゆっくりカードを持ち上げた。空中に対戦情報が表示される。
対戦相手、ノーマント・フロック。
ロックフィッシャー所属。
格闘バトル素手限定、ランキング七百五十二位。
大河はしばらく、その名前を見つめた。
「……また、あの人か」
声に出すと、不思議と胸の奥が静まった。驚きはある。だが、嫌ではなかった。むしろ、どこかで望んでいた相手でもある。前回の敗北が、今日の挑戦へ繋がっているなら、その相手がもう一度目の前に現れるのは、運命というよりも必然のように思えた。
ポルポルは目を丸くしたまま、カードと大河の顔を交互に見ている。
「本当にノーマントさんなのです……」
「そうみたいだな」
「これは、偶然なのです?」
「さあな」
大河はカードを握った。金属の温かさが掌に伝わる。
「でも、力を試すにはちょうどいい」
同じ頃、協会の別棟にあるランカー待機室で、ノーマント・フロックは通知を見下ろしていた。
厚い肩をした男だった。短く刈った髪、日に焼けた肌、拳の節に残る古い傷。ロックフィッシャー所属を示すドクロの紋章が、腕の布に小さく縫い込まれている。彼は椅子に腰かけ、軽食を取っていたところだった。カードが光り、挑戦申請の通知が表示された瞬間、片眉を上げる。
「望月大河……?」
その名前をしばらく眺めてから、ノーマントは小さく笑った。
「ああ、この前の新人か」
前回の試合を思い出す。動きは悪くなかった。身体能力も、ランキング外にしては目を引くものがあった。だが、戦い方が甘かった。フェイントに乗り、距離を詰められ、腹を打たれて崩れた。ノーマントにとっては、危なげのない勝利だった。
彼は指でカードの表示をなぞった。ローランカー枠への挑戦申請。承認すれば対戦が決まる。勝てばボーナスポイントが入る。断る理由はほとんどない。
「もう一回来たか。根性はあるな」
ノーマントは口元を歪めた。完全に馬鹿にしているわけではない。むしろ少しだけ興味があった。あれからどれだけ変わったのか。もう一度リングに立つ覚悟があるのなら、その分くらいは見てやってもいい。
彼は迷わず承認を押した。
「まあ、返り討ちにしてやるよ」
試合会場へ転移した時、大河の鼻先に砂と汗の匂いが届いた。以前と同じ円形の闘技場。中央には砂を敷いたリングがあり、周囲を石造りの観客席が囲んでいる。ローランカー戦なので満員ではないが、前回より少し観客が多いように見えた。協会の掲示板で再戦に気づいた者が集まったのかもしれない。あるいはロックフィッシャー所属のノーマントを見に来た者か。
観客席のざわめきが、石壁に反響して低く響いている。砂の上には足跡がいくつも残り、戦いの熱がまだ地面に染み込んでいるようだった。大河はリング脇で手首を回し、ゆっくり息を吐いた。前回はこの空気に呑まれた。観客の視線、相手の圧、リングの狭さ。そのすべてが判断を鈍らせた。
だが今日は、足元の砂の感触まで分かる。
ポルポルはリングの外、観戦者用の低い柵の近くで大河を見ていた。小さな前足を胸の前で握り、真剣な顔をしている。
「大河さん」
「分かってる」
「最初の一撃なのです。前回と同じように来るかもしれないのです」
「わかった」
「見て、避けて、崩すのです」
ポルポルの声は少し震えていた。それでも、彼女は必死にトレーナーとして言葉を渡してくれている。大河は頷き、リングへ上がった。
反対側からノーマントが入ってくる。前回と同じく、肩幅の広い身体をゆっくり揺らしながら歩いていた。表情には余裕がある。だが、目は油断していなかった。大河を軽く見ている部分はあるだろう。それでも、ランキングで生きている男の目だ。相手がどれだけ弱く見えても、完全に気を抜くような甘さはない。
ノーマントはリング中央で立ち止まり、大河を見て笑った。
「また会ったな」
「はい」
「この前の負けが悔しかったか?」
大河は静かに頷いた。
「悔しかったですね」
その素直な返答に、ノーマントの笑みが少しだけ深くなった。
「いいじゃねぇか。悔しさで戻ってくる奴は嫌いじゃない」
「今度は負けませんから」
「言うようになったな」
ノーマントは拳を軽く鳴らした。観客席から小さな歓声が上がる。審判が二人の間に立ち、ルール確認を行った。素手限定。魔法、スキル、武器、補助具の使用禁止。相手が戦闘不能になるか、降参するか、審判が危険と判断すれば終了。
大河は深く息を吸った。魔法は使わない。使えない。今日の戦いは、身体と技術だけだ。前回と同じ条件。だからこそ意味がある。
審判が手を上げた。
「格闘バトル素手限定、ローランカー戦。挑戦者、望月大河。対戦相手、ランキング七百五十二位、ノーマント・フロック」
砂の上で、二人の影が向かい合う。
「始め!」
声が響いた瞬間、ノーマントが動いた。
前回と同じだった。低く踏み込み、肩をわずかに揺らし、右の拳をまっすぐ放つ。重い一撃。相手の視線を奪い、その後の連打へつなげるための入り。前回の大河は、その拳に反応しきれず、受けるだけで体勢を崩した。
だが、今回は違った。
大河の目には、肩の起こりが見えた。足の踏み込みが見えた。拳が来る前に、体重の流れが読めた。大きく逃げない。半歩。ほんの半歩だけ外へずれる。拳が頬のすぐ横を通り過ぎ、風が肌を撫でた。砂が足元で小さく跳ねる。
ノーマントの拳は空を切った。
大河は崩れていない。視線も外していない。すぐに反撃できる距離にいる。
ノーマントの目が、わずかに見開かれた。
観客席のざわめきが一段高くなる。
大河は拳を構え直し、静かに息を吐いた。
あの時とは違う。
その事実だけが、リングの砂の上で確かに光っていた。
第17話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河はついに、ノーマントとの再戦に挑みました。
前回は何もできずに敗れた相手。
しかし今回は、最初の一撃を見切ることができました。
走り込み、魔力訓練、日々の鍛錬。
その積み重ねが、少しずつ大河を変えています。
次回、ノーマントとの再戦は本格的に動き出します。




