第13話 神からの差金
第13話です。
アイの母・マイラの治療は、少しずつ前へ進み始めます。
一方、大河はエリカから、自分の身体と魔力について思いがけない言葉を告げられます。
翌日の昼過ぎ、大河はアイの店へ向かっていた。空はよく晴れているのに、細い路地にはどこか湿った影が残っている。石壁の隙間に生えた小さな草が、昼の光を受けて弱く揺れていた。昨日、エリカから渡された魔力耐性を上げるカプセルは、今朝も無事にマイラへ飲ませたとアイから聞いている。効果が出ているのかどうか、大河には分からない。ただ、何もせずに見守るしかなかった数日前に比べれば、今は確かな治療の手順がある。それだけでも、胸の中の重さは少し違っていた。
ポルポルは大河の肩の少し上を飛びながら、相変わらず診療所の方角をちらちら見ていた。
「エリカさん、今日は診療所がお休みらしいのです」
「そう聞いたな」
「休みの日なのに、ちゃんと診に来てくれるのはありがたいのです」
「そこは本当にすごい人なんだよな」
大河は苦笑した。エリカという人物は、出会ってからずっと大河の常識を揺らしている。回復魔法ランキング一位。無所属。患者に見つけてもらうためにランキングへ出る名医。その一方で、借金持ちで、恋愛体質で、初対面の相手に結婚を迫る。何かを評価しようとすると、その隣から別の印象が飛び出してくるような人だった。
アイの店に着くと、入口の前にエリカが立っていた。白い外套ではなく、今日は淡い緑色の上着を羽織っている。銀色の髪は柔らかく結われ、見た目だけなら休日に散歩へ出た少女のようだった。だが大河の姿を見つけると、その顔がぱっと明るくなる。
「大河くん、来たのう」
「エリカさんの方が早かったんですね」
「待ち合わせなら早く来るのが礼儀じゃ。特に相手が大河くんならの」
エリカはごく自然にそう言い、大河のすぐ横へ寄ってきた。距離が近い。昨日から変わらない。ポルポルが小さく咳払いのような音を出したが、エリカはまったく気にしなかった。
扉を開けたのはアイだった。彼女はエリカを見るなり、少し緊張した顔で頭を下げる。
「お願いします」
「うむ。では、母君を診よう」
その瞬間、エリカの表情が変わった。大河に向けていた浮ついた光が薄れ、瞳の奥に静かな集中が宿る。アイはそれに気づいたのか、ほっとしたように少し肩の力を抜いた。彼女にとって重要なのは、エリカがどれほど変わった人物かではない。母を助けられるかどうか、それだけなのだろう。
奥の寝室には、薬草の匂いが淡く漂っていた。マイラは昨日と同じ寝台に横たわっている。頬の痩せはまだ目立つが、呼吸は昨日よりわずかに深くなっているように見えた。アイは寝台の横へ立ち、祈るように母の顔を見つめる。
エリカはマイラの手首に指を添え、次に額へ触れた。淡い緑の光が静かに広がる。部屋の空気が、まるで薄い水に包まれたように揺らいだ。ポルポルも大河も声を出さない。窓の外を通り過ぎる風の音だけが、小さく耳に届いていた。
しばらくして、エリカは光を収めた。
「カプセルは効き始めておる」
アイの目が大きく開いた。
「本当?」
「本当じゃ。まだ十分ではないが、魔力の通り道が昨日より荒れておらん。体内が少しずつ魔力に慣れ始めておる。もう少しで治癒魔法を使えるようになるじゃろう」
アイは唇を震わせ、母の手を握った。涙は見せなかったが、その肩がふっと軽くなったのが分かった。大河も胸の奥にあった硬いものが少し溶けるのを感じる。
「それまでは、今のカプセルを続ける。無理に強い魔法を入れる必要はない。予断は許さんが、ここから先は辛抱じゃ」
「お母さん、助かる?」
アイの声は細かった。エリカはアイの目をまっすぐ見た。
「助かる。わしがそう言った以上、助ける」
その言葉は短いのに、部屋の中に確かな重みを落とした。アイは一度だけ深く頷き、母の手に頬を寄せた。大河はその姿を見て、初めてアイが年相応の子供に見えた気がした。料理ランキングの会場で踏み台に立っていた時も、薬屋から出てきた時も、彼女はいつも何かに追われているようだった。今だけは、その小さな背中に少しだけ休む場所ができたように見えた。
診察を終えると、エリカは店の外へ出た。表の空気は暖かく、昼の光が古い看板を照らしている。鍋と魚の絵が描かれた看板は、休業中の店の寂しさを静かに背負っていた。
「大河くん」
エリカが呼んだ。大河が振り返ると、彼女はいつもの調子に戻りつつも、どこか真面目な目をしていた。
「この後、少し付き合わんか。今日は診療所が休みでの。飯でも食べながら話したいことがある」
「話したいこと?」
「うむ。大河くんに関わる話じゃ」
そう言われると断る理由はなかった。ポルポルは「ごはん」と聞いた瞬間、尻尾を揺らした。大河はアイに一言伝えてから、エリカの案内で近くの食堂へ向かった。
店は昼時を少し過ぎており、客の数は多くなかった。窓際の席に座ると、外の通りを行き交う人々が見える。エリカは慣れた様子で料理を注文した。大河は軽い食事を頼み、ポルポルはまた余計に頼もうとして大河に止められた。料理が来るまで、エリカはいつものように大河の顔を楽しそうに眺めていたが、やがてふと表情を変えた。
「最初に会った時から思っておったが」
エリカは水の入った杯を指で回しながら、静かに言った。
「大河くんは、神からの差金じゃな」
大河の心臓が一つ強く跳ねた。食堂のざわめきが、一瞬遠のいた気がした。エリカの口調は軽いものではない。冗談ではなかった。
「どうして、そう思うんですか」
大河は平静を装ったが、自分の声が少し硬くなったのを感じた。ポルポルは驚くどころか、どこか感心したように頷いている。
「さすがなのです」
「ポルポル」
大河が横目で見ると、ポルポルは小さく肩をすくめた。
「エリカさんくらいの人なら、気づいてもおかしくないのです」
エリカは大河を見た。淡い緑の瞳の奥に、先ほど診察中に見せたものとはまた違う深さがある。長い時間を生き、何かを何度も見てきた者だけが持つ目だった。
「大河くんの身体の中には、普通ではあり得ない量の魔力が封じ込められておる。だが、今はほとんど使えておらん。器だけが先に用意され、中身の扉が閉じられているような状態じゃ」
大河は言葉を失った。魔力を感じる訓練を始めたばかりの自分には、その実感はほとんどない。水晶を少し光らせるだけでも苦労している。だがエリカには、その奥にあるものが見えているらしい。
「まるで、誰かが最初から器を整えたようじゃ」
「それが神だと?」
「そうじゃな」
「なぜ分かるんですか」
エリカは少しだけ笑った。だが、その笑みには普段の浮ついた明るさがなかった。
「今はまだ話さん。確証が持てんからの」
「過去に、何かあったんですか」
「大河くんは勘がよいのう」
エリカはそれ以上を語らなかった。ポルポルも口を挟まない。大河は胸の奥に小さな棘のような疑問を感じた。神に連れてこられたこと。自分の身体。封じ込められた魔力。エリカが知っている過去。すべてがまだ薄い布の向こうに隠れている。
料理が運ばれてきた。焼いた魚の香りと、煮込んだ野菜の湯気がテーブルに広がる。だが大河の意識は食事よりも、エリカの言葉に向いていた。
「魔法の訓練はしておるのかい?」
「少しずつです。水晶を少し光らせるくらいで」
「なら、わしが解放してやってもよいぞ」
大河は思わず顔を上げた。ポルポルも目を丸くする。
「本当なのですか?」
「完全にではない。いきなり全部開ければ、本人が壊れる。じゃが、ほんの少し扉を緩めるくらいならできる。そうすれば魔力感知も早くなるじゃろう」
大河の胸が高鳴った。魔法を覚えるには、まず魔力を感じる必要がある。そこに時間がかかると思っていた。エリカがその入口を開けられるなら、今後の成長は大きく変わる。
「お願いできますか」
「もちろんじゃ。ただし、一つ頼みを聞いてくれたらの」
来た、と大河は思った。エリカがまともな条件だけを出すとは、もう思っていない。診察や治療では信頼できる。だが、大河に関わる話になると危険な方向へ飛ぶ。
「頼みって何ですか」
エリカはにこりと笑った。
「診療所の最上階が、わしの部屋なのじゃ」
「はい」
「一人では寂しくての」
「はい」
「どうじゃ。一緒に住まんかの?」
大河は魚に伸ばしかけていた箸のような木の道具を止めた。ポルポルは口いっぱいにパンを詰めたまま固まった。
「……一緒に?」
「家賃はいらんよ。部屋は余っておる。大河くんは魔法を学べる。わしは寂しくない。実に合理的じゃ」
「合理的という言葉を盾にしてませんか」
「少しだけな」
エリカは悪びれずに笑った。大河は額に手を当てた。条件としては、驚くほど良い。家賃が浮く。診療所の最上階なら協会にも近い。エリカから魔法を学べる可能性がある。アイの母の件でも連絡が取りやすい。だが、相手はエリカだ。近くにいることが安全なのか危険なのか、判断が難しい。
「一度、部屋を見せてもらえませんか」
大河がそう言うと、エリカの顔がまた明るくなった。
「おお、いいとも。食事が終わったら早速行こう」
食事を終え、三人はエリカ診療所へ向かった。診療所は休みの日らしく、入口は静かで休診日という札がかけられていた。いつも患者で埋まっている待合室も、今日は人の気配が薄い。薬草の匂いだけが白い壁の中に残っている。エリカは裏手の階段へ案内し、軽い足取りで上っていった。
最上階の扉を開けた瞬間、大河は言葉を失った。
部屋は、とにかく派手だった。
壁紙は柔らかい桃色。窓辺には薄いレースのカーテン。床にはふかふかの絨毯が敷かれ、棚にはリボンや小瓶、ぬいぐるみのようなものが並んでいる。診療所の白く清潔な空間とはまるで違う。甘い香りのする花がいくつも飾られ、部屋の中央には大きなソファが置かれていた。落ち着くというより、色と香りと装飾が一斉に攻め込んでくる。
ポルポルが小声で呟いた。
「すごく落ち着かないのです……」
「同感だ」
大河も小声で返した。エリカは二人の反応を気にすることなく、楽しそうに部屋を案内する。
「ここが居間じゃ。わしの趣味が詰まっておる」
「詰まりすぎですね」
「褒め言葉として受け取ろう」
奥には廊下があり、扉がいくつか並んでいた。エリカが一つずつ開けると、中には何も置かれていない部屋が三つあった。壁は白く、床もきれいに掃除されている。先ほどの居間に比べると、驚くほど普通だった。
「空いている部屋は好きに使うとよい。家具は必要なら用意する。わしは休みの日以外はほぼ診療所か外におる。ここは好きに使ってくれて構わん」
「本当に家賃はいらないんですか」
「いらん。大河くんが近くにいるだけで十分じゃ」
その言葉は少し怖かったが、条件としては破格だった。大河はポルポルと部屋の隅で相談した。ポルポルは真剣な顔で尻尾を揺らしている。
「魔法を教えてもらえるのは大きいのです」
「家賃も浮くし」
「協会も近いのです。アイの家にも行きやすいのです」
「問題はエリカさんだな」
「そこが最大の問題なのです」
二人は同時にエリカを見た。彼女は居間のソファに座り、大河が選ぶのを期待に満ちた目で待っている。見た目だけなら、誰かに遊びに来てほしい少女のようだった。だが、その正体は伝説級の回復術師であり、神からの差金という言葉をあっさり口にする人物でもある。
嫌なら出ればいい。
大河はそう考えた。今の部屋は月四万三千マール。大きな額ではなくなったが、これから魔法や剣やスキルを学ぶには金が必要になる。節約できるならした方がいい。そして何より、エリカのそばにいれば、自分の中に眠る魔力について何か分かるかもしれない。
「分かりました。しばらくお世話になります」
大河がそう言うと、エリカはソファから跳ねるように立ち上がった。
「本当か!」
「ただし、変なことはしないでください」
「変なこととは?」
「聞き返す時点で怖いです」
「大河くんは慎重じゃのう」
エリカは上機嫌で笑った。ポルポルは小さく息を吐きながらも、どこか安心したように空中で丸くなった。
大河は空き部屋の一つに入り、窓を開けた。外には協会の尖塔が見えた。白い石の建物が夕方の光を受けて淡く染まり、その向こうにはランキングの街が広がっている。ここから、新しい生活が始まるのかもしれない。
神からの差金。
エリカの言葉が胸の奥で静かに揺れていた。理由はまだ分からない。だが、大河はもうこの世界の流れにただ流されているだけではなかった。誰かを助け、誰かに見抜かれ、そして新しい場所へ移ろうとしている。
王を目指す道は、思っていたよりずっと複雑だ。
けれど、その複雑さの中にこそ、進むべき道が隠れている気がした。
第13話を読んでいただき、ありがとうございました。
マイラの治療には希望が見え始めました。
そして大河は、エリカから「神からの差金」という言葉と、自分の中に眠る魔力の可能性を知らされます。
さらに、まさかのエリカ診療所への同居決定。
魔法習得、アイの母の治療、そしてエリカの謎。
大河の生活は、また大きく動き始めます。




