第11話 伝説の回復術師
第11話です。
回復魔法ランキング一位、エリカ。
三大派閥の誘いを断る無所属の天才回復術師。
そんな彼女と、ようやく話す機会を得た大河でしたが……。
どうやらエリカは、噂とは少し違う人物のようです。
診療所の空気が、妙な形で止まっていた。
待合室には患者たちがいる。腕に包帯を巻いた冒険者、眠る子供を抱いた母親、杖をついた老人。誰もがそれぞれの痛みや不安を抱えて、この場所に来ている。その中心に立つべき回復魔法ランキング一位のエリカは、なぜか大河の前で固まったまま、じっと彼の顔を見上げていた。
銀色の髪が肩先で揺れている。淡い緑の瞳は驚きに見開かれ、さっきまで患者に向けていた淡々とした表情が、少しずつ崩れていく。受付の女性は何かを察したようにこめかみを押さえ、ポルポルは大河の横で尻尾をぴんと立てたまま動かなくなっていた。
「……あの」
大河が声をかけようとした瞬間、エリカは一歩近づいた。近い。思ったより近い。見た目は十代半ばの少女にしか見えないのに、その瞳の奥には年齢の読めない深さがある。だが今、その深さの表面を覆っているのは、どう見ても患者を診る医師の目ではなかった。
「君」
エリカの声は、さっき少年に話しかけた時よりも明らかに柔らかかった。
「あとで、お茶でもしないかの?」
大河は返事ができなかった。回復魔法ランキング一位。無所属。三大派閥の勧誘を断る伝説の回復術師。そんな存在に会いに来たはずだった。アイの母親の病気について相談するために来たはずだった。それなのに、最初に投げられた言葉が「お茶」だったので、思考がつるりと足を滑らせた。
ポルポルが横から小声で呟く。
「いま、お茶って言ったのです?」
「言ったな」
大河も小声で返した。エリカは二人の反応など気にせず、少し身を乗り出してくる。
「少しでいい。ほんの少しじゃ。診療が終わったらでいいから」
「え、あ、はい。ぜひお願いします」
ようやく大河がそう答えると、エリカの顔がぱっと明るくなった。まるで難病を治した時より嬉しそうな笑顔だった。受付の女性が静かに息を吐き、奥の看護師らしき女性が小さく「また始まった」と呟いたのが聞こえた気がした。
「よし。待っておれ。すぐ終わらせる」
「すぐ、ですか?」
「すぐじゃ」
エリカは力強く頷いた。そのままくるりと踵を返し、診察室へ戻っていく。白い外套の裾がふわりと揺れ、銀色の髪が背中で跳ねた。扉が閉まる直前、彼女はもう一度だけ顔を出した。
「帰るでないぞ?」
「はい」
大河が頷くと、エリカは満足げに扉の向こうへ消えた。
待合室には、なんとも言えない沈黙が残った。患者たちは大河をちらちらと見ている。受付の女性は仕事用の笑顔を取り戻そうとしていたが、その口元には疲れが滲んでいた。ポルポルは大河の周りを一周し、改めて彼の顔をじっと見つめる。
「大河さん、何かしました?」
「何もしてない」
「顔ですかね」
「知らない」
大河は落ち着かないまま、待合室の端の椅子に腰を下ろした。会える可能性が出てきたのは良いことだ。けれど、予想していた流れとはあまりに違う。アイの母親のことをどう切り出せばいいのか。そもそも、この人に頼んで大丈夫なのか。そんな不安が胸の中でゆっくり渦を巻いた。
待つ時間は長かった。昼を過ぎても、診療所の扉は何度も開いた。治療を終えた患者が出ていき、新しい急患が運び込まれる。エリカはそのたびに奥から現れ、短く指示を出し、また診察室へ戻っていく。見た目は少女なのに、その声が響くと看護師たちは迷いなく動いた。軽い口調の裏に、確かな技術と経験がある。それだけは、待合室に座っているだけでも伝わってきた。
午後になると、ポルポルの機嫌が明らかに悪くなった。最初は大人しくしていたが、やがて大河の肩の上で尻尾をぺちぺち動かし始め、夕方近くには空腹で目が据わっていた。
「大河さん」
「なんだ」
「ポルポルは今、非常に重要な危機に直面しているのです」
「腹が減ったんだろ」
「命に関わるのです」
「関わらない」
小声のやり取りをしていると、受付の女性が苦笑しながら小さな焼き菓子を一つ差し出してくれた。ポルポルは一瞬で表情を輝かせたが、礼を言う前に食べようとしたので、大河が慌てて頭を押さえた。
「ありがとうございます」
「エリカ先生に付き合わされる方は、たいてい待つことになりますので」
受付の女性の声には、諦めと慣れがあった。
夕方六時を少し過ぎた頃、ようやく診察室の扉が勢いよく開いた。エリカが出てきた。銀髪は少し乱れ、白い外套の袖も片方だけ折れかけている。だが表情は妙に晴れやかだった。
「終わった!」
その声に、受付の女性と看護師たちが一斉に顔を上げた。待合室にはもう患者はほとんど残っていない。受付の女性が記録板を確認し、信じられないものを見るように目を丸くした。
「先生、今日は本当に早いですね」
「全部終わらせたぞ。褒めてよい」
「えらいです」
「エリカ先生、今日は頑張りましたね」
「うむ。もっと褒めてもよいぞ」
看護師たちが拍手までしている。大河はその光景を見ながら、これは偉いのか、子供のように可愛がられているのか判断に困った。ポルポルも同じことを思ったのか、口元に焼き菓子の欠片をつけたまま首を傾げていた。
エリカは大河の方へ歩いてくると、待たせたことを悪びれた様子もなく、しかし笑顔で手を振った。
「待たせてすまんかった。これでも今日は早い方じゃ」
「そうみたいですね」
「では行こう。腹が減った」
空腹で機嫌を損ねていたポルポルの耳がぴくりと動いた。
「ごはんなのです?」
「もちろんじゃ。わしの行きつけに案内しよう」
エリカに連れられて向かったのは、診療所から少し歩いた路地裏の酒場だった。表通りの店ほど派手ではないが、木の扉から漏れる明かりは温かく、近づくと焼いた肉と煮込み料理の匂いが漂ってくる。看板には古びた杯の絵が描かれていた。扉を開けると、店主らしき大柄な男が顔を上げた。
「また来たのか、エリカ」
「またとはなんじゃ。常連への歓迎の言葉がそれか」
「借金返せ」
「今月は返す」
「毎月聞いてる」
大河は思わず足を止めた。回復魔法ランキング一位。月に一千万マール相当のポイントを得る存在。そのはずなのに、店主の第一声が借金返せだった。
エリカは平然と奥の席へ向かう。店主も慣れた様子で溜息をつき、料理の準備を始めた。席に座ると、エリカは当然のように肉料理と酒を頼み、ポルポルはそれに便乗して山盛りの料理を注文しようとした。大河が途中で止めなければ、また財布が悲鳴を上げるところだった。
「エリカさん、借金があるんですか?」
大河が尋ねると、エリカは木杯を手に取ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「ある」
「回復魔法ランキング一位ですよね?」
「一位じゃ」
「報酬はかなり入るのでは?」
「入るぞ。千ポイントじゃからな。月末には一千万マール相当じゃ」
「それで借金が?」
エリカは木杯の縁を指でなぞりながら、少しだけむっとした顔をした。
「診療所は金がかかるのじゃ。看護師、受付、薬草、器具、家賃。あそこは協会の目の前じゃから場所代も高い。しかも患者から高く取りすぎるわけにはいかん。金のない者を追い返すのも嫌じゃ」
その言葉には、初めて医師らしい重みがあった。大河は少し表情を改めた。やはりこの人は、ただの変人ではない。患者を救うためにランキングに出て、知名度を得て、診療所を維持している。その姿勢は本物なのだろう。
だが、エリカはそこで胸を張るように言った。
「まあ、一番の原因は男じゃがな」
「台無しだ!」
大河は思わず声を上げた。ポルポルも肉を噛んだまま固まっている。
「気に入った男の子がおると、つい何でも買ってやりたくなるのじゃ。服、装飾品、家、店。馬車も買ったことがある」
「馬車?」
「似合うと思っての」
「馬車が似合う男ってなんですか」
「いたのじゃ。馬車が似合う男が」
店主が料理を置きながら、低い声で言った。
「そいつは馬車ごと逃げた」
「言うでない」
エリカは頬を膨らませた。見た目だけなら完全に少女だが、話の内容は数百年分の失敗を煮詰めたような濃さがあった。大河は頭を抱えたくなった。伝説の回復術師。無所属の聖女。三大派閥が求める人材。その正体が、借金持ちで恋愛体質の浪費家だったとは、誰が想像するだろう。
「そういえば、名前を聞いておらんかったな」
エリカは急に身を乗り出した。さっきまで借金の話をしていたとは思えないほど、瞳がきらきらしている。
「望月大河です」
「モチヅキ、タイガ」
エリカはゆっくりとその名を繰り返した。舌の上で転がすように発音し、それから満足そうに頷く。
「良い名じゃ。強そうで、優しそうで、響きがよい」
「ありがとうございます」
「大河くん」
「はい」
「わしと結婚しないか?」
大河の思考が、完全に止まった。
ポルポルは口に入れていた肉を飲み込むのも忘れ、店主は「また始まった」と呟きながら厨房へ戻っていく。エリカだけが本気の顔をしていた。頬をほんのり染め、両手を胸の前で組んでいる。
「一目惚れじゃ。こんな気持ちは久しぶりじゃ」
「久しぶりなんですか?」
「うむ。一ヶ月ぶりじゃな」
「短いですね!」
「恋とは突然燃え上がるものじゃ」
「燃えすぎでは?」
大河はようやく言葉を取り戻したが、どう反応していいのか分からない。相手はアイの母を救えるかもしれない回復術師だ。邪険にはできない。だが、初対面で結婚を迫られて素直に頷けるほど、彼の精神は異世界仕様ではなかった。
大河は木杯を置き、できるだけ真面目な声で話を切り出した。
「エリカさん。今日はお願いがあって来ました」
「結婚の返事か?」
「違います」
「違うのか」
エリカは少し残念そうに肩を落としたが、大河の表情を見て、ふと目の色を変えた。さっきまで浮ついていた瞳の奥に、医師としての光が戻る。
「話してみよ」
大河はアイのことを話した。料理ランキングに出ていた小さな少女。父親が借金を残して失踪したこと。母親が病に倒れ、店を閉めていること。ポルポルが見た限り、普通の病気ではなく、上級回復魔法が必要かもしれないこと。
エリカは途中で茶化さなかった。料理に手を伸ばすこともなく、静かに聞いていた。店のざわめきや焼いた肉の匂いの中で、その沈黙だけが妙に澄んでいた。
「ふむ」
話を聞き終えると、エリカは木杯を置いた。
「まず診てみなければ分からん。病なら治癒魔法の領分じゃ。外傷や体力回復なら回復魔法でよいが、毒、細菌、病、呪いとなると扱いが変わる」
「治せますか?」
「分からん」
エリカははっきりと言った。
「それに、一般人へ強い魔法を使うのは危険じゃ。魔力耐性が低ければ、症状は治っても後遺症が出ることがある。特に子供や病人は慎重に診ねばならん。まずは魔力耐性を見る。そこからじゃ」
その言葉は冷静で、重かった。大河は改めて、目の前の女性が本物の専門家なのだと感じた。軽薄な恋愛話も、借金話も本当なのだろう。だが、患者の話になると、空気が変わる。
「診てもらえますか」
大河は頭を下げた。
エリカはしばらく大河を見つめていた。淡い緑の瞳に、また少しだけ浮き立った光が戻る。
「つまり、わしがその子の母を診れば、大河くんは結婚を考えてくれるわけじゃな?」
「どうしてそうなるんですか」
「考えてくれぬのか?」
「少し考えます」
言ってしまってから、大河は失敗したと思った。エリカの顔がぱあっと明るくなる。
「おお、考えてくれるのか!」
「いや、今のは」
「よし。飯を食ったら案内しておくれ。善は急げじゃ」
エリカは嬉しそうに料理へ手を伸ばした。ポルポルが大河の耳元へ飛んできて、小声で囁く。
「大河さん、今のは完全に言質を取られたのです」
「分かってる」
「結婚するのです?」
「しない」
大河は疲れたように息を吐いた。だが、胸の奥には少しだけ安堵もあった。理由がどうであれ、エリカはアイの母を診ると言った。ようやく一歩進んだのだ。
エリカは上機嫌で肉を頬張りながら、大河に向かってにこにこと笑っている。その姿は、世間が語る伝説の聖女とはまるで違っていた。
けれど大河は思った。
この人なら、もしかすると本当に何かを変えてくれるかもしれない、と。
第11話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、回復魔法ランキング一位・エリカの素顔が明らかになりました。
腕は本物。
けれど借金持ちで、恋愛体質で、かなり自由な人でした。
それでも、患者の話になれば空気が変わる。
大河はそんなエリカに、アイの母を診てもらう約束を取り付けます。
次回、エリカはアイの母を救うことができるのか。
続きを楽しんでいただけると嬉しいです。




