第10話 エリカ診療所
第10話です。
アイの母を救うため、大河たちは回復魔法ランキング一位のエリカを探すことになります。
しかし、その人物は想像していたよりもずっと近くにいました。
回復魔法ランキング一位、エリカ。
その名前は、協会の巨大な掲示板の一番上に、淡い光をまとって浮かんでいた。無所属。千ポイント。三大派閥の誘いをすべて断りながら、なお回復魔法の頂点に立ち続けている人物。アイの母を救えるかもしれない唯一の可能性。
大河は翌朝、その名前を頭の中で何度も反芻しながら協会へ向かっていた。石畳の通りには朝の光が差し込み、露店の布屋根が色とりどりに揺れている。焼き菓子の甘い匂い、薬草を干した青い匂い、馬車の車輪が小石を弾く音。街はいつも通り動いているのに、大河の意識はどこか一つの名前に引っ張られていた。
隣ではポルポルがふわふわと飛んでいる。今日はいつもより少しだけ真面目な顔をしていた。朝食の時も肉の追加を一皿で我慢したくらいなので、本人なりに気を引き締めているのだろう。
「まずは協会で情報を聞くのがいいのです。エリカは有名人なので、居場所くらいは分かると思うのです」
「有名人なら、逆に簡単には会えないんじゃないか」
「それはたぶんそうなのです」
ポルポルはあっさり認めた。大河は小さく息を吐いた。昨日、アイの母親を見た時の光景がまだ胸の奥に残っている。薄暗い部屋。使われなくなった食堂。寝台に横たわる痩せた女性。母親の手を握っていたアイの小さな指。
あの子は泣かなかった。
泣く余裕さえないように見えた。
だからこそ、大河は何とかしたいと思ってしまった。自分はまだ魔力すらまともに扱えない。剣も使えず、格闘ではローランカーに敗れた。できることは少ない。それでも、エリカという名前に辿り着いた以上、何もしない理由にはならなかった。
協会の建物が近づいてくる。白い石の外壁は朝日を受けて眩しく光り、尖塔の先端にはランキング協会の紋章が掲げられていた。いつものように入口へ向かおうとした大河は、ふと足を止めた。
視界の端に、見慣れないものが映った。
協会の向かい側に建つ四階建ての古いビル。その屋上に、大きな看板が出ている。昨日まではまったく意識していなかった。いや、もしかすると前からあったのかもしれない。大河が気にしていなかっただけで、街の人々にとっては当たり前の景色だったのだろう。
看板には、丸みのある文字でこう書かれていた。
エリカ診療所。
その横には、銀髪の少女らしき人物のイラストが描かれていた。大きな瞳、にこりと笑う口元、白衣のような服。絵柄はやけに可愛らしく、伝説の回復術師という言葉から想像する厳かな雰囲気とは少し違っていた。看板の下には小さく「どんな痛みも、まずはご相談ください」と添えられている。
大河はしばらく無言で見上げた。
「……あったな」
ポルポルも隣で固まっていた。紫色の尻尾が、空中で妙に中途半端な角度で止まっている。
「ありましたね」
「探すまでもなかったな」
「協会の目の前なのです」
二人は顔を見合わせた。昨日の重い空気を思い出すと笑う場面ではないのだが、あまりにもあっさり見つかりすぎて、大河は思わず力が抜けた。山奥の隠れ家でも、王城の奥でも、三大派閥の本部でもない。回復魔法ランキング一位の人物は、ランキング協会の向かいで普通に診療所を開いていた。
「前からあったのか?」
「たぶんあったのです。ポルポルも、エリカの診療所がこの街にあるとは聞いていたのですが、まさか協会の目の前とは思ってなかったのです」
「神様から教わった情報にもなかったのか?」
「有名なランカーや危険人物の最低限の情報だけなのです。場所までは全部知らないのです」
ポルポルは少し悔しそうに頬を膨らませた。大河は看板をもう一度見上げる。イラストのエリカは、誰にでも優しそうに笑っている。もしこれが本人に似ているなら、十代の少女にしか見えない。数百歳だとか、伝説級の回復術師だとか、そんな情報は今の大河はまだ知らない。ただ看板だけを見ると、少し派手な町医者の宣伝にしか見えなかった。
それでも、入口付近の人の流れが普通ではなかった。
ビルの一階には小さな扉があり、その前にはすでに何人もの人が並んでいた。杖をついた老人。腕に包帯を巻いた冒険者。眠る子供を抱いた母親。顔色の悪い商人風の男。皆、どこか緊張した顔をしている。ここがただの診療所ではないことは、その列を見ればすぐに分かった。
大河とポルポルが近づくと、扉の上に掲げられた小さな札が目に入った。
本日の通常診療受付終了。
大河は思わず眉を寄せた。
「朝なのに?」
列の最後尾にいた老人が、大河の声に気づいて振り返った。白い髭を胸元まで伸ばした、背の低い老人だった。片手には木の杖を持ち、もう片方の手で腰を押さえている。
「若いの、エリカ先生に診てもらうつもりかい?」
「あ、はい。できれば」
「普通に診てもらうなら半年は待つぞ」
「半年……」
大河の声が沈んだ。横でポルポルの耳もぺたりと下がる。
「緊急なら別だが、それでも先生が診るかどうかは先生次第だ。金を積んでも順番は変わらん。そこがいいところでもあり、困るところでもある」
老人はそう言って、小さく笑った。笑いには諦めと信頼が混ざっていた。半年待ち。それでも並ぶ人がいる。エリカという人物がどれほど信頼されているのか、その一言だけで十分伝わった。
大河は扉の奥を見た。アイの母親に半年の猶予があるのかどうかは分からない。だが、ポルポルが「普通の病気ではない」と言った時の表情を思い出すと、悠長に待っていい状態とは思えなかった。
「とりあえず中で聞いてみるか」
「はいなのです」
扉を開けると、薬草と清潔な布の匂いがした。診療所の待合室は思ったより広く、白い壁と木の床で落ち着いた雰囲気に整えられている。窓際には鉢植えの薬草が並び、淡い緑の葉が朝の光を受けていた。壁には回復魔法ランキング一位の認定証らしきものが飾られ、その下にいくつもの感謝状が並んでいる。
待合室には十数人の患者が座っていた。腕を吊った青年、顔色の悪い女性、足に包帯を巻いた子供。皆、静かに順番を待っている。痛みや不安があるはずなのに、空気は不思議と荒れていなかった。ここに来れば何とかなるかもしれない。そんな期待が、待合室全体を薄く包んでいるようだった。
受付には、きっちりと髪を結った若い女性が座っていた。白い制服を着ており、表情は穏やかだが、目には仕事に慣れた冷静さがある。大河が近づくと、彼女は丁寧に頭を下げた。
「エリカ診療所へようこそ。本日の通常診療は受付終了しております。予約のご相談でしょうか」
「予約ではなく、急ぎで相談したいことがあって来ました」
受付の女性は少しだけ眉を動かした。何度も同じような頼みを受けているのだろう。困ったような、それでいて慣れた表情だった。
「緊急症状の方ですか?」
「本人はここにはいません。知り合いの母親が病気で、ポルポルが診たところ普通の病気ではないと言っていました。上級回復魔法が必要かもしれないと」
受付の女性の視線がポルポルへ移る。空中に浮かぶ紫色の小さな生き物を見て一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに表情を戻した。ランキング世界では、珍しい存在にも慣れているのかもしれない。
「エリカ先生への直接相談は、原則として予約制です。緊急診療枠もございますが、現在は埋まっております」
「どのくらい待ちますか」
「通常予約ですと、現在はおよそ半年先になります」
分かっていた答えなのに、改めて聞くと重かった。大河は唇を結んだ。半年。アイの母親の細い呼吸が頭に浮かぶ。あの静かな部屋で、半年待ってくれと言えるのか。言えるはずがない。
ポルポルが前に出た。
「本当にどうにもならないのです?」
受付の女性は申し訳なさそうに首を横に振った。
「エリカ先生は一日に診られる人数を決めています。無理をすれば先生自身の魔力が枯渇しますし、重症患者の対応にも支障が出ます。どなたも深刻な事情を抱えて来られますので、順番を変えることはできません」
正論だった。だからこそ、反論できなかった。大河は待合室を見回した。包帯の子供を抱く母親も、顔色の悪い女性も、腰を押さえた老人も、それぞれ切実な事情を抱えている。アイの母だけが特別だと言い張ることはできない。
大河の胸に、焦りに似たものが滲んだ。
五十メートル走で一位になった。百万マールの足場も得た。だが、それで何でもできるわけではない。ランキング一位の回復術師に会うことすら、簡単にはできないのだ。
「診療費は高いんですか」
大河が尋ねると、受付の女性は少し意外そうに瞬きした。
「症状によります。軽症であれば一般的な回復術師より少し高い程度です。重症や特殊症例の場合は、必要な魔力と治療時間によって変わります。ただ、エリカ先生は支払えない患者を追い返すことはあまりありません」
「それなのに借金があるって噂は本当なのです?」
ポルポルがぼそっと言った瞬間、受付の女性の表情がぴたりと固まった。大河は横目でポルポルを見た。今それを聞くのか、という顔になっていたと思う。
受付の女性は一つ咳払いをした。
「その件については、診療所としてはお答えできません」
「答えたようなものなのです」
「ポルポル」
大河が小声で止めると、ポルポルは慌てて口を閉じた。受付の女性は深く追及することなく、書類へ視線を戻す。だがその頬にわずかな疲れが見えた気がした。エリカという人物は、どうやら評判通りの聖人ではない部分もあるらしい。
大河がどうするべきか考えていると、待合室の奥にある診察室の扉が開いた。
まず出てきたのは、足に包帯を巻いた少年だった。母親に支えられながらも、先ほどより顔色が明るい。少年は何度も後ろを振り返り、小さな声で「ありがとう」と言った。母親も涙ぐみながら頭を下げている。
その奥から、白い服を着た少女が姿を現した。
大河は最初、彼女が助手か何かだと思った。
銀色の髪が肩のあたりで柔らかく揺れている。肌は透けるように白く、瞳は淡い緑色。見た目は十代半ばほどにしか見えない。白い外套の袖は少し大きく、胸元には小さな薬草の刺繍がある。看板に描かれていたイラストよりも実物の方がずっと整っていたが、その顔立ちはどこか人形めいた冷たさも持っていた。
待合室の空気が変わった。
「エリカ先生」
誰かが小さく呟いた。
大河の背筋に緊張が走る。彼女がエリカ。回復魔法ランキング一位。千ポイント。三大派閥の誘いを断り続ける無所属の回復術師。見た目だけなら、ランキングの頂点に立つ存在には見えない。けれど、待合室の患者たちが向ける視線が、その正体を証明していた。
エリカは少年と母親に軽く手を振った。
「しばらく無理しないこと。走り回るなら三日は待って。いい?」
声は思ったより軽かった。もっと厳かな声を想像していた大河は、少し拍子抜けした。少年が大きく頷くと、エリカは満足そうに笑った。その笑顔は看板のイラストによく似ている。
だが次の瞬間、受付の方を向いた彼女の表情は、まるで別人のように淡々としていた。
「次」
「先生、本日の通常診療は残り三名です。その後、午後の重症枠が」
「分かってる。逃げないからそんな顔しないで」
受付の女性は無言で書類を整えた。どうやら普段から逃げることがあるらしい。大河は内心で少し引っかかったが、今はそれどころではなかった。
エリカの視線が、待合室を何気なく流れていく。老人、女性、子供、冒険者。患者たちの状態を一目で確認しているような、鋭くも退屈そうな目だった。男の冒険者の前を通った時など、彼女はほとんど興味を示さなかった。軽く見て、すぐ視線を外す。その冷たさには、患者への無関心というより、個人的な興味のなさがにじんでいた。
そして、その視線が大河で止まった。
本当に、止まった。
エリカは一度、大河の顔を見た。次に、頭から足元までをさっと確認した。さらにもう一度、顔を見る。淡い緑の瞳が、わずかに見開かれていく。
大河は反射的に姿勢を正した。
「……?」
ポルポルも異変に気づいたのか、大河の横で小さく首を傾げた。受付の女性も、エリカが動かないことに気づいて顔を上げる。
「先生?」
エリカは返事をしなかった。
さっきまで淡々としていた表情が、少しずつ崩れていく。驚き。困惑。興味。それらが順番に浮かび、最後にはどこか楽しそうな光が瞳の奥に宿った。まるで、長く探していた珍しい薬草を道端で見つけたような顔だった。
大河は何か言うべきか迷った。回復魔法のことを頼まなければならない。アイの母親の病気のことを説明しなければならない。だが、エリカの視線があまりに真っ直ぐで、言葉の出る隙間を見失っていた。
エリカは一歩、大河に近づいた。
待合室の患者たちが、わずかにざわめく。受付の女性は何かを察したように、こめかみを押さえた。ポルポルの尻尾がぴんと立つ。
エリカは大河の前で立ち止まり、じっと見上げた。彼女の方が少し背が低い。見た目は少女なのに、その瞳の奥には年齢の読めない深さがあった。けれど、その深さの上に、今は妙に浮き立った光が乗っている。
数秒の沈黙。
そしてエリカは、小さく息を呑んだ。
「えっ……」
それだけだった。
だがその一言は、診療所の空気を不思議な方向へ傾けるには十分だった。大河は困惑したまま、目の前の回復魔法ランキング一位を見つめ返す。
伝説の回復術師エリカ。
大河がようやく辿り着いたその人物は、なぜか大河を見たまま、完全に固まっていた。
第10話を読んでいただき、ありがとうございました。
ついに回復魔法ランキング一位、エリカが登場しました。
三大派閥の誘いを断り、無所属のまま頂点に立つ回復術師。
そんな彼女は、なぜか大河を見た瞬間に固まってしまいます。
アイの母を救う手がかりは見つかるのか。
そして、エリカが大河に反応した理由とは。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




