第七話
「……行くか」
一夜明けた翌日。郝彰は休息を終え、オアシスを去ろうとしていた。
シリンが、恐る恐る近寄ってくる。
彼女は、郝彰の拳をそっと両手で包み込み、波斯の言葉で何度も感謝を伝えた。その掌の温もりは、郝彰にとって、この砂漠の中で、感じることのできる唯一の安寧だった。
だが、郝彰はその手を、優しく、しかし確かな拒絶を持って解いた。
「行かなければならないんだ。……君も、帰るべきところへ帰るといい」
郝彰の瞳には、シリンを突き放す冷酷さはなかった。ただ、己が道を行く、覚悟の色が宿っていた。
彼は懐から、昨夜の戦いで僅かに残った食料の欠片をシリンの掌に握らせると、一度だけ深く頷き、背を向けた。
背後で、シリンが何かを叫ぶ声が聞こえる。
だが、郝彰は振り返らない。振り返れば、その小さな温もりに縋ってしまいたくなる自分の弱さを知っていたからだ。
(あと、どれくらいだろうか……)
砂を噛むような問いが、熱風に巻かれて消える。
あとどれくらい歩けば、罪の重さは軽くなるのか。あと何人を守れば、陸縉を殺した手の汚れは落ちるのか。
答えなどない。
もし「あと数里歩けば許される」という終わりのある旅ならば、それは本当の償いではないのだ。
郝彰は、震える足に力を込め、再び砂漠のその奥を目指した。
視界の先には、逃げ水のような陽炎が揺らめいている。それが四度目の楼蘭の幻影なのか、あるいはただの死の招きなのか、彼には判別がつかない。
ただ、彼は進んだ。
………
……
…
視界が暗転し、熱砂の感覚が足の裏から消えた。
郝彰が重い瞼を持ち上げたとき、そこにあったのは、これまでで最も恐ろしい楼蘭だった。
色彩がない。
空も、街並みも、流れる水も。すべてが、雪のように白い砂、あるいは透き通った硝子で形作られたかのような、無色透明の世界。
そこには活気ある市場も、陸縉のいた書斎も存在しない。ただ、見渡す限りの「白」だった。
「……」
四度目の蜃気楼。それは、彼の心が、何も持っていないことを映し出す鏡のようだった。
ふと、街の中央へと続く真っ白な石畳の上に、一人の人物が立っているのが見えた。
薄桃色の衣は、今や白銀に輝き、大人の姿をした婉清が、抜き放たれた一振りの剣を地面に突き立てて待っていた。
その雰囲気は、並大抵の武人を凌駕するほど、覇道的な気を放っている。
その剣は、郝彰の持つ『無鋒剣』と対を成すような、鋭利な刃を持つ真剣だった。
「剣客様。……いえ、郝彰殿。あなたは砂漠を歩き、飢えを耐え、幼き命を救いました」
婉清の声は、冷たい氷が触れ合うような響きを帯びていた。
「ですが、それは『償い』ではありません。ただの、あなたの自己満足です。……あなたが救ったシリンは、あなたが殺した父の代わりにはなりません。あなたが耐えた渇きは、父が流した血を拭い去りはしません」
郝彰は黙って、突き立てられた剣を見つめた。
「『奪わない答え』を信じるのですよね。ならば、証明してください。……今、ここで、私から『復讐』という唯一の生き甲斐を奪わずに、あなたはどうやって自分を救うのですか?」
婉清が剣を手に取る。四度目の楼蘭は、今まで以上に辛く、物理的な代償を求めていた。
無色透明の空間を切り裂き、放たれた一撃。
流麗な突きは、郝彰の心臓を寸分違わずに狙い撃った。それは枝から落ちる木の葉を空中で穿つかのような、あまりにも精確で、迷いのない突き。
対する郝彰は『無鋒剣』を抜かなかった。
鞘に入ったままの鉄の棒を杖のように据え、紙一重のところで半歩下がって切っ先をかわす。通り抜ける鋭い剣気が、彼の頬を薄く切り裂いた。
郝彰は、微かに残った内功を左の拳へと収束させた。
「……ッ!」
彼は、婉清の体を打つのではなく、その白銀の剣身を横から捉えた。彼女の腕を折るのではなく、彼女が握る復讐の道具そのものを砕くために。
ガガァッ、という乾いた衝撃音が、無色の都に響き渡る。
「……なぜ、抜かないのですか。……なぜ、私を『敵』として認めないのですか!」
婉清の叫びが、郝彰の鼓膜を震わせる。
彼女の突きは、一度、二度と加速していく。一撃ごとに、郝彰の武服は裂け、その下の肌から鮮血が無色を赤に染めようと、滴り落ちていく。
だが、郝彰の瞳は揺るがない。
「……死ねないからだ。死ねば、君の憎悪は、どこへも吐き出せなくなる」
彼は知っていた。ここで彼女を傷つければ、それは五年前の雨の夜を繰り返すだけのことだ。
そして、彼女に殺されることをただ受け入れるのもまた、彼女に人殺しという名の、自分と同じ呪いを背負わせることになる。
それもまた、奪うことなのかもしれない。
「──生きていなければ、償えない」
それは、あるいは生き延びたいという己の執着なのかもしれない。しかし、死ぬのは、答えを知ってからでもいいだろう。
郝彰は血を吐きながらも、決して剣を抜かず、拳を前へ出した。
「……ただ、俺は君を認める。君のすべてを」
──内に秘めた殺意も、俺を許さぬ心も
陸婉清という人間のすべてを、郝彰は認めた。それは、彼女が築き上げてきた復讐を、たった一言で肯定する行為だった。
それもまた、傲慢かもしれない。彼女にとって、復讐の対象に認められるという行為は、屈辱に値するはずだ。
だが、それが郝彰の出した答えだった。
「認めること」──あるいは「受容」、「肯定」という、あまりにも主観的で、楽観的な一方通行の答え。
郝彰は、肩を貫く銀の剣の冷たさを、熱い血の滴りを感じながら、ただ真っ直ぐに彼女を見つめた。
彼は奪わない。
彼女が自分を殺そうとする意志さえも。
彼女が自分を許さないと決めた矜持さえも。
すべてを認めたまま、自分は消えずにここに在り続ける。許されぬまま、憎まれながら、それでも彼女の存在を全うさせるための目的として生きる。
その不毛なまでの受容こそが、彼が砂漠で見出した、不器用な『伏正』の極致であった。
「……、……!」
婉清の喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
途端に、白の世界が瓦解する。今回は、陽炎のような終わりではなく、湖に石を落とした時のように、激しい波紋を広げて、世界を粉々に打ち砕いていく。
(償う……という言葉が間違っていたのかもしれないな。一定以上の罪は、もう償うという言葉で解決できるところに、居ないのだから)
意識が遠のく中、郝彰は自嘲気味にそう思った。
五年前、陸縉という一人の人間の宇宙を永遠に奪った事実は、どれほど喉を枯らし、どれほど誰かを救ったところで、一分一厘も減ることはない。
「償い」とは、帳尻を合わせるための言葉だ。
だが、命の重さに釣り合う代価など、この世のどこにも存在しない。
ならば、今行った郝彰の行為を、何と呼ぶか。
おそらく人はそれを「責任」と呼び、「背負う」のだろう。




