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武侠小説:西域恩讐録  作者: ヤマダ


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第六話

 唇を伝う水の冷たさに、郝彰かくしょうは意識の底から覚醒した。まぶたを持ち上げると、そこには砂漠の天を背景に、心配そうに自分を覗き込むシリンの顔があった。


「……う、……」


 郝彰が身を起こすと、シリンはびくりと肩を揺らして一歩後ずさった。


 しかし、男の瞳に先ほどの飢えた獣の光がないことを悟ると、彼女は震える手で、懐から大切に隠し持っていた乾燥したナンをちぎり、そっと差し出した。


 それは、この極限の地では命を削り取るに等しい、分け前だった。


 郝彰は一瞬、その細い指先を見つめ、それから震える手でそれを受け取った。


「……すまない。ありがとう」


 通じぬ言葉と知りながら、彼は拱手し、砂の混じった硬いパンを噛み締めた。胃の腑に落ちる熱い塊が、彼にふたたび武人としての脈動を呼び戻す。


 郝彰は無言のまま懐を探り、中原で通用する重みのある銅銭を数枚取り出した。


 西域と呼ばれるこの地で、どれほどの価値があるかは分からなかったが、今の彼が持てる精一杯の対価だった。


「ここで使えるかは分からないが、東の硬貨だ。機会があれば、使ってくれ」


 郝彰は中原の方向を指差し、シリンは最初こそ戸惑ったように首を振ったが、郝彰が強引にその掌に握らせると、観念したようにそれを懐に収めた。


 そこから、二人は焚き火も起こさぬ静寂の中で、身ぶり手ぶりを交えて対話を試みた。


 どこから来たのか。どこへ向かうのか。


 郝彰のぎこちない手の動きと、シリンの懸命な身振り。言葉の壁に阻まれ、互いの素性や過去までは届かない。


 それでも、郝彰が語る「償い」を求めるような悲痛な眼差しと、自らの食料を分け与えた少女の慈しみは、砂漠の夜風を通じて静かに混ざり合った。


(この子は……一人で生きているのか)


 シリンは、意外にも郝彰に懐いた。


 自分を殺せたはずの強者が、あえて弱り果てた自分に頭を下げ、対価を支払おうとする。その不器用な誠実さに、彼女は微かな安心を覚えたのだろう。


 郝彰のことを、この男は「良い人」なのだと、彼女は幼い心で直感した。


 だが、その安らぎを切り裂くように、夜の砂漠の向こう側から、郝彰の聞き慣れた馬の嘶きが響いた。


 それは、平穏を愛する民の馬ではない。よく訓練された、戦闘を予感させる馬の足音だった。


 夜の静寂を切り裂いたのは、荒々しい蹄の音と、下卑た男たちの哄笑だった。


 オアシスの背後、月光を背負って現れたのは、ラクダや馬を駆る十数人の男たち──この界隈を荒らしまわる西域の馬賊であった。


「……、……!」


 シリンの顔から血の気が引き、持っていた水袋を落とした。彼女がこのオアシスに潜んでいた理由を今、目の当たりにした。


「ヒヒッ、上玉だ。波斯はしの娘は高く売れるからな」


 先頭の男が湾刀を鳴らし、シリンを値踏みするように眺める。


「これで数ヶ月は安泰だが……隣の奴は何者だ?」


 馬賊の男は、郝彰を一瞥した。砂にまみれ、衣服は裂け、砂と髭で汚れた顔。男は、郝彰のあまりのみすぼらしさを確認すると、鼻で笑い、ニヤリと口角を吊り上げた。


 まるで道端に転がる家畜を見下すような蔑みの瞳が、郝彰を射抜く。


「死に損ないの物乞いか。おい、邪魔だ。さっさと失せねえと、その薄汚い首を跳ね飛ばすぞ」


 馬賊の首領格が、抜き放った湾刀の切っ先を郝彰の喉元に突きつける。だが、郝彰はその刃など、そこに存在しないかのように一瞥もくれなかった。


「……震えるな、紫鈴シリン。怖がれば怖がるほど、ああいう奴らは付け上がる。堂々と立っていろ」


 郝彰は、馬賊を完全に無視して、背後に隠れる少女に静かに言い聞かせた。


 絶望の底で自分に水を分け与えてくれた、小さな恩人。


 郝彰はシリンの震える背中を、安心させるように、あるいは武人の矜持を分け与えるように、ポンと優しく叩いた。


「あ゙!? 無視してんじゃねぇぞッ、テメェ!」


 屈辱に顔を真っ赤にした男が、咆哮と共に湾刀を振り下ろす。


 砂を噛むような沈黙。次の瞬間、空気を切り裂く鋭い風切り音が一度だけ響いた。


 ──ガキンッ!


 火花が散り、男の湾刀が根元からへし折れて砂の上に突き刺さる。


 郝彰の手には、いつの間にか抜き放たれた『無鋒剣』が握られていた。無鋒剣は、月光を反射して冷たく、重厚な輝きを放っている。


「……心配するな。君に受けた恩は、ここで返そう」


 郝彰の声は、凪いだ海のように静かだった。しかし、その動きは、荒ぶる闘神のようでもあり、静なる海神のようでもあった。


 しかし、内功は底をつき、肉体はあちこち痛みが走っている。一歩踏み出すたびに、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる満身創痍の状態。普通であれば、指一本動かすことすらままならないはずだ。


「死ねぇッ──!」


 馬賊の首領が、折れた湾刀を捨て、腰から抜いた短刀で郝彰の喉元を突く。


 しかし、それは郝彰にとって、まさしく赤子の手だった。それをひねるように、身を低くして半歩、間合いを詰め、無鋒剣を持つ手とは反対の左手で、顎を刈り取った。


「──ッ!!」


 声にならない悲鳴が、夜の静寂に消える。顎の骨を砕かれた男は、白目を剥いて砂の上にごろりと転がった。


「……生きたい奴は去れ」


 郝彰は細い目で、さらに殺気を高めて告げる。


 その瞳は、情けをかけているのではない。ただ、目の前の馬賊たちが償いの歩みを止めることさえ、許しがたい不快であると語っていた。


「……死にたい奴も去れ」


 矛盾した、しかし絶対的な命令。


 生きるも地獄、死ぬも地獄。目の前の男に関わること自体が、最大の不幸であると突きつける一言。


 周囲を囲んでいた匪賊たちは、自分たちが包囲しているはずの男の背後に、死神を見た。


 一歩踏み出せば、命を奪われることさえなく、人としての尊厳を完膚なきまでに破壊される。そんな本能的な恐怖が、彼らの膝を震わせ、武器を握る手を湿らせた。


「ひ、ひぃっ……!」


 誰かが上げた悲鳴が合図だった。


 家畜を狩りに来たはずの狼たちが、一転して、夜の闇へと散り散りに逃げ出していく。首領の遺体を回収することすら忘れ、ただ、その男から離れることだけを求めて。


 静寂が戻ったオアシス。郝彰はゆっくりと左手を下ろし、重い溜息を吐き出した。

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