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武侠小説:西域恩讐録  作者: ヤマダ


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第五話

 河南省、追実門・練武場。


 まだ「正義」を疑うことを知らなかった若き郝彰かくしょうは一人、木人を相手に打ち込んでいた。彼の放つ一撃一撃が、静寂を鋭く切り裂く。


 追実門に伝わる奥義──伏魔剣法ふくまけんぽう。その武術の奥深さと威力は、武林の中でも一、二を争うほどであった。


 魔を伏するための剣。


 それは、民の正義を為す白道にとっては、悪を断つための最高の商売道具であり、魔を冠する者にとっては、その名を聞くだけで恐怖に身震いする最悪の剣法であった。


 だが、その「魔」を決めるのは誰か。


 若き日の郝彰にとって、それは疑いようもなく、師門の教えそのものであった。


「いい筋だ、郝彰。……だが、その剣筋には、まだ迷いが潜んでいるな」


 背後から声をかけたのは、一番弟子の師兄・徐麟じょりんであった。


 彼は門内でも随一の伏魔剣法の使い手でありながら、その瞳には常に、どこか遠くを見つめるような寂寥感が漂っていた。


師兄しけい。……私はただ、教えの通りに魔を伏せたいだけです。私情を捨て、義に殉じれば、迷いなど消えるはずではないのですか?」


 郝彰の問いに、徐麟は自らの剣を鞘に収め、空に浮かぶ欠けた月を見上げた。


「伏魔……。言葉は美しいがな、郝彰。もし、俺たちが『魔』と呼ぶ相手が、実は自分たちよりも真っ当な義を抱いていたとしたら、どうする? その時、俺たちの振るう剣は、一体何を伏せていることになると思う?」


「……? その人を『魔』と呼ぶには、あまりにもひどくありませんか? 真っ当な義を抱いているのなら、俺はその人を斬り伏せたくはありません」


 郝彰は、本気でそう答えた。


 彼にとって『伏魔剣法』は、弱きを助け、真実を濁す「悪」を討つための聖なる技だった。真っ当な人間を魔と呼ぶなど、そんな矛盾がこの世に存在するはずがないと、まだ信じていたのだ。


「はは……。お前は本当に、雪のように真っ白だな、郝彰」


 徐麟は力なく笑った。その笑みには、郝彰の純粋さを愛おしむ気持ちと、それゆえに彼がいつか味わうであろう絶望を予感した悲しみが混ざっていた。


「そうか……そうだな。それがいい。自分で見極めろ。相手が、『正』か、もしくは『魔』か。その上で、斬るかどうかを選びなさい」


 徐麟の手が、無意識に腰の剣の柄に触れる。その指先は、微かに震えていた。


「はい、師兄!」


 その後、徐麟は任務に出た先で、死んだ。


………


……



 砂を噛むような後悔と共に、郝彰は目を開けた。


 視界を焼くのは、過去の練武場の月光ではなく、容赦のない西域の残照だ。


 一歩、また一歩。師兄に「はい!」と答えたあの日の無垢な自分を、今のボロボロになった自分が冷ややかに見下ろしている。


 自分で見極める──その言葉に従った結果が、この乾ききった果てしない地獄だ。


 ふと、陽炎の向こう側に、一点の深緑が揺らめいた。


(……幻か)


 自嘲気味に呟いた。蜃気楼が見せる幻は、己の心の弱さが原因だ。そう断じて、歩き続けること数分。そこは、本物のオアシスであった。


 郝彰は、崩れ落ちるように水際へと這い寄った。


 水面に映った自分の顔は、かつての面影など微塵もない。砂と無精髭に覆われ、眼光だけが異常に鋭い、一匹の飢えた獣のようだった。


 両手で水を掬い、喉に流し込む。石が皮膚を削るような痛みが走るが、それが「生きている」という残酷な実感を彼に呼び戻す。


「……ふぅ、はぁ……」


 一息つき、音を立てて水面から顔を上げた時だ。対岸の岩の影に、自分と同じように水を求めて辿り着いた先客の姿があることに気づいた。


 それは、蜃気楼の見せる幻か。


 それとも、この熱砂がもたらした実存する命か。


 まだ断定はできないが、郝彰が確実に捉えた事実があった。対岸のその人物が、食料を持っているということだ。


 年齢は十代半ばほど。華奢な体に、陽光に焼かれた見事な小麦色の肌。男か、女か見当もつかないほどに中性的で、異国情緒を漂わせる美しい顔立ち。


 その切れ長の瞳は恐怖に満ち、郝彰を見つめている。細い腕で懐にある何かを必死に隠そうとしていた。


 郝彰の腹の底から、久しく忘れていた飢餓の衝動が突き上げてくる。


 五臓六腑が軋みを上げ、目の前の食料を奪えと叫んでいた。満身創痍と言えど郝彰だ。指一本動かすだけで、その子供からすべてを奪い取ることができる。


(……暗愚なことを)


 己の内に芽生えた醜い餓狼の衝動を、彼は自嘲と共に切り捨てた。


 償い方を知るために、この砂漠へ来た。


 ならば、ここで何かを──たとえ、奪っても問題にならないものであろうと──奪えば、それはこれまでの歩みをすべて泥に塗すことと同義だ。


 師兄に、陸縉に、そして婉清に、どの面を下げて向き合えるというのか。


 郝彰は最後の力を振り絞って、口角を上げた。それは、おそらく言葉が通じないであろう異国の少年への、彼が持ちうる最大限の会話であり、敵意がないことを示す唯一の証だった。


 それを機に、郝彰は意識を失った。


 そんな郝彰を見つめる少女──シリンは、恐る恐る彼の下へ、近寄った。


 砂の上に力なく投げ出された、泥まみれの大きな体。その腰に帯びられた、刃のない奇妙な鉄の棒。つい先刻まで、この男からは飢えた獣のような凄まじい殺気が立ち昇っていた。


 シリンは、奪われることを覚悟し、持っていた乾燥したナンを胸元で強く抱きしめていた。


 だが、男は奪わなかった。


 それどころか、死の淵にあるはずの顔を歪め、ひどく不器用な、しかし確かな慈しみを含んだ笑みを向けてきたのだ。


「Xūb hī?」


 シリンは波斯はし(ペルシア)の言葉で何かを呟きながら、郝彰の顔を覗き込んだ。


 深く刻まれた眉間の皺と、閉じられた瞼の端に残る砂。シリンは震える手で、懐から大事に隠し持っていた水袋を取り出した。


 それは、この砂漠では命そのものだ。


 見ず知らずの、自分を殺しかねなかった異国の男に分けるには、あまりにも危険で、愚かなことだ。無論、ここはオアシスであるが……。


 シリンは迷った。だが、あの不器用な笑みが、彼女の心を動かした。彼女の父も、母も、かつて砂漠で命を落とした人々は皆、最期にそんな顔をしていたからだ。


 彼女は郝彰の頭を膝に乗せると、乾ききった彼の唇に、少しずつ水を垂らし始めた。

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