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武侠小説:西域恩讐録  作者: ヤマダ


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第四話

 砂漠。そこは、地獄となんら変わらぬ拷問の地であった。


 まず、砂漠には飲み水がない。オアシス以外に水源はなく、無論、雨は降らない。喉はひび割れた大地のように乾き、唾液を飲み込むことさえ、石を呑むような激痛を伴う。


 第二に、疲れだ。砂の上は一歩踏み出すたびに足が地面に吸い込まれるため、平地の数倍の体力を削り取られる。


 さらに郝彰かくしょうは、一年前の洛陽脱出から続く満身創痍の身体だ。癒えぬ傷と蓄積した疲労はすでに限界を超え、一歩ごとに意識が遠のくのを感じていた。


 視界がボヤけ、正常な風の音を聞いたのは、いったい何日前だろうか。


 しかし、それらすらマシだと思ってしまう要因こそ、精神の瓦解だった。


 どれだけ進んでも景色は変わらず、果ては見えない。黄金の楼蘭を見たあの日から、自分は本当に前へ進んでいるのか、それとも同じ場所を円を描いて彷徨っているだけなのか。


 その疑念が、毒のように思考を駆け巡る。


(俺はなぜ……この地へ来たのだろうか)


 ただひたすら、理由が欲しかった。郝彰は強い。それは単に武術に長けているという話だけではない。精神的な強靭さという言葉も、今の彼にはどこか食い違う。


 言うなれば、郝彰は『人間』として強い。一度定めた目的のために、心身を削ってでも、駆けることのできる男だ。


 追実門で非情な任務をこなしてきた日々も、万太平まんたいへいに反旗を翻したあの一夜も、彼は、その強さゆえに足を止めなかった。


 ただ、今回は違った。目的が分からないのだ。


 「償うこと」が目的だと言い聞かせることはできる。しかし、この場合の真の問いは「どのように償うか」という具体的なものである。


 郝彰は、その方法を知らない。手がかりさえ、砂の一粒ほども見当たらないのだ。


 人は案外、物事を知っているものだ。全くの未知というものは、この世にそれほど多くはない。無論、皆無ではないが、たとえ正体不明の対象であっても、断片的に、あるいは本能的に、何かしらの輪郭を掴んでいることが多い。


 たとえば、「宇宙とは何か」という問いに対して、その全貌を知らなくとも、人は「宇宙はデカい」「宇宙は黒い」と直感的に答えられるだろう。


 それが正しい定義であるかは置いておくとして、不完全ながらも対象を捉えることを、人は「知っている」と呼ぶ。


 だが、今の郝彰にとっての「償い」は、そのデカさも、色さえも分からなかった。


 命を差し出せばいいのか。誰かを助ければいいのか。あるいは、このまま砂漠で朽ち果てることがそれなのか。


 本能さえも沈黙するほどの、完全なる空白。


 その空白を埋めるように、再び風が鳴いた。ボヤけた視界の先、砂のうねりがゆっくりと形を変えていく。


「……婉清えんせい、殿」


 現れたのは、薄桃色の衣をまとったひとりの少女だった。いや、少女と言うには、あまりにも大人びていた。


 黄金の楼蘭で見た、あの幼い笑顔の面影を残しながらも、その佇まいは凛として、闇夜に輝く月のように冴えわたっている。


 彼女はただ、そこに立っていた。


 砂漠の熱風に衣をなびかせ、感情を削ぎ落としたような静かな瞳で、郝彰を見据えている。


「──あなたが、父上を殺したのですか?」


 その一言が、郝彰の心臓を直接掴み、握りつぶした。


 市場で「剣客様」と慕っていた幻影は消え去った。今の彼女は、父を奪われ、独り年月を重ねた、生者の生き様そのものだった。


「…………そうだ」


 郝彰は、逃げなかった。砂に塗れた顔を上げ、彼女の眼差しを真っ向から受け止めた。


 宇宙がデカいことも、黒いことも知っている。だが、目の前の女性が背負ってきた「年月」の重さを、彼は知らない。知る術もない。


「俺が、陸縉りくしん殿を殺した。……正義だと信じ、その正義を守るために」


 告白する言葉が、砂に吸い込まれていく。


 大人の姿をした婉清は、怒ることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、一歩、また一歩と郝彰に近づき、その細い指先を、彼の腰にある『無鋒剣』の柄に添えた。


「ならば……その剣で、私をどうするおつもりですか? 父を殺したその手で、今度は、何を奪いに来たのですか?」


 その音の粒子一つひとつが、郝彰にとっての絶望だった。いや、絶望という言葉を使うことは許されないのだろう。彼よりも遥かに深く、絶望した相手が、目の前にいるのだから。


 郝彰は、婉清の静かな瞳と、腰に帯びた無鋒剣を交互に見やった。


「……何も奪いはしない。何かを奪うために、ここへ来たわけではないから」


 枯れ果てた声で、郝彰は絞り出した。そんな彼に対し、婉清は、さらに冷徹に問う。


「では、何のために来たのですか?」


 郝彰は迷うことなく、間髪入れずに答えた。


「償うため。そして、その方法を知らないから、知るために」


「では、もしその方法が、誰かから何かを奪うことだったら、どうするのですか?」


 郝彰の呼吸が止まった。それは、絶望とは違う。気づき、あるいは悟りと呼ばれるものだったのかもしれない。


 婉清の言葉は、これまでの郝彰の視点とは異なる問いだった。


「その方法が、誰かから奪うこと……。それは、あり得ない」


 郝彰は、砂を握りしめる拳に力を込めた。


「たとえ、そんな方法があったとしても……その方法を取るつもりは、ない」


 彼は未だ、償い方を知らない。


 だが、「してはいけない償い方」だけは、今この瞬間に理解した。


「……それしか答えがなかったら、どうするのですか?」


 郝彰の答えに納得しなかったのか、婉清は少し語気を強め、射抜くような視線で問う。しかし、郝彰が取り乱すことはなかった。むしろ、駄々をこねる子どもをあやすかのように、極めて冷静に、静かな声で答える。


「それ以外の答えを探すしかない」


「無くても、ですか?」


 婉清の問いは重い。この世の理は、往々にして残酷だ。何かを得るためには何かを捨てねばならず、誰かを救うためには誰かを見捨てねばならない。


 それがこの世の「常識」という名の限界だ。


「無いことは、ない。俺はそう──信じてる」


 根拠など、砂粒ほどもなかった。ただ、根拠にも勝る確信を、郝彰は得た。


「おそらくそれが……本当の『追実』なんだろう」


 陽炎のように消えゆく婉清を見つめて、郝彰は呟いた。

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