第三話
「郝彰殿、少し顔色が悪いようだ。婉清と共に、楼蘭の市場でも歩いてくるといい。この都の活気は、どんな薬よりも心を癒やしてくれる」
陸縉の穏やかな勧めに、郝彰は抗うことができなかった。
市場は、目も眩むような色彩に満ちていた。
西域の香料、色鮮やかな絹織物、そして人々の屈託のない笑い声。
かつて長安の闇で、あるいは追実門の冷たい石畳の上で、郝彰が決して触れることのなかった生の輝きがそこにはあった。
「郝彰さん、あれ! とっても綺麗ですね」
婉清がはしゃいだ声を上げ、並ぶ露店を指差す。
彼女の笑顔は、砂漠の渇きを癒やす清水のように清らかだ。だが、郝彰がその景色に馴染もうとすればするほど、腰の『無鋒剣』が、重い鉛のように彼の腰を沈ませる。
逃げた先で見つけた黄金郷。そこは、過去の罪を忘れさせるどころか、鮮明に思い出させる現実の夢であった。
(……俺は、ここにいていい人間ではない)
自責の念を振り払うように顔を上げると、通りの突き当たりに、天を突くほどに巨大な黄金の宮殿が聳え立っていた。
それは、蜃気楼の核とも言うべき、この世の美を結集したような威容を放っている。
無意識だった。
吸い寄せられるように、あるいは楼蘭という巨大な意志に背中を押されるように、郝彰は婉清と共に宮殿の重厚な門へと一歩を踏み出した。
カツン、と。石畳を踏み締めた硬い音が、不自然に響き渡る。
「……郝彰さん?」
婉清の声が、霧のように薄れていく。
次の瞬間、華やかな喧騒が、鼓膜を破ったような静寂へと反転した。
黄金の壁は崩れ落ち、色鮮やかな絹織物は灰となって風に舞う。
隣にいたはずの婉清のぬくもりも、引き合っていた手も、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
目を開ければ、そこには都も、市場も、陸縉の家もない。足元に広がるのは、見渡す限りの死した砂の海。
先ほどまで頬を撫でていた花の香りは消え、鼻腔を突くのは、古びた寺院のカビ臭さと、混じり気のない血の匂いだった。
「……若き剣客よ。君はなぜ、ここへ来た。許されに来たのか? それとも、死にに来たのか?」
五年前。あの時の、陸縉の声だった。
声だけではない。その姿も、冷徹なまでに郝彰を射抜く雰囲気も、そして、降りしきる雨に濡れ、赤黒いシミを広げたあの日の服までも。
目の前に立つのは、楼蘭の陽光に守られた穏やかな隠居人ではない。郝彰が自らの意志で、その夢を、未来を、家族を奪った犠牲者その人であった。
「……陸殿」
郝彰の喉が、砂を噛んだように掠れた。
砂漠の熱風が吹き抜けるはずの場所で、そこだけが異常なほどに冷たい。足元の砂はいつしか、あの夜の古寺のぬかるみへと変じ、郝彰の足を掴んで離さない。
「追実の剣に、私情はない……。そう言ったのは、君だったな」
泥を纏った陸縉が一歩、また一歩と近づいてくる。彼の手には、武器ではない。郝彰が焼き捨てたはずの、あの血塗られた『民を救うはずだったあの上奏文』が握られている。
「君は『義』のために私を斬った。だが、その義はどこにある? 君が守った長安の秩序は、民の涙で築かれた砂の城だ。……答えろ。君のその剣は、今、何を斬るためにあるのだ?」
郝彰は、腰の剣に手をかけた。
だが、抜けない。
万太平を圧倒したあの『伏正剣法』の蒼い剣気さえ、真実の前では、ただの虚勢に過ぎなかった。
「俺は死にに来たのではない……。だが、許される資格がないことも、知っている」
郝彰は震える膝を突き、砂の中に崩れ落ちた。
彼は知るために砂漠へとやって来たのだ。
万太平を殺し、門派を捨て、あてどない逃亡の日々を選んだのは、死に場所を求めたからではない。
ただ、償い方を知らなかったからだ。
どうすれば陸縉に、そして彼が守ろうとした民に詫びることができるのか。許されなかったとしても、何をすれば彼らに対する謝罪となるのか。
答えの見えぬ問いを抱えたまま、彼はどこまでも生き長らえた。追手から逃げ、時にはかつての同門を殺し、ただ、いつか見つかるはずの償いの方法を探し求めて、この地獄のような渇きの中に身を投じた。
「……ならば、行け。進むのだ。この果てしない砂漠を、ただ進め」
泥に濡れた陸縉の幻影が、低く、しかし峻烈な声で告げた。
「……陸、殿」
郝彰が顔を上げた瞬間、激しい砂嵐が視界を白く染め上げた。古寺の残骸も、雨の匂いも、そして陸縉の姿も。すべてが猛烈な風に巻かれ、虚空へと消え去っていく。
嵐が止んだあと、そこには楼蘭の面影など微塵もなかった。
あるのは、地平線まで続く無慈悲な砂のうねりと、容赦なく照りつける西域の朝日だけだ。
郝彰は、進んだ。
足元の砂がぬかるみのように彼を絡め取ろうとも、それを一歩ずつ踏み越えていく。喉が裂けるように渇き、視界が白く濁ろうとも止まらない。足が痺れ、感覚を失っても、彼は『無鋒剣』を杖にして進み続けた。
その先に、答えがあると信じて。
………
……
…
一年前。万太平の邸宅が崩壊し、立ち上る土煙の中で郝彰は一人、立ち尽くしていた。
背後では、廃人と化した門主を囲み、門弟たちの悲鳴と怒号が飛び交っている。
郝彰の右手は、万太平のどす黒い内功を弾き飛ばした際の熱を帯び、いまだに細かく震えていた。
(……終わった。いや、始まったのだ)
彼には帰る場所がない。追実門は今この瞬間から、彼の師門ではなく、彼を討つべく血の涙を流した猟犬へと変貌した。
「郝彰ッ! 貴様、正気か! 門主を……門主をこれほどまでに!」
瓦礫を掻き分け、数人の師兄が抜剣して立ちはだかる。彼らの瞳にあるのは、かつて郝彰も抱いていた「盲目的な正義」と、裏切り者に対する剥き出しの殺意だった。
「……どいてください、師兄」
郝彰の低い声は、雨音に消え入りそうだった。
だが、そこに込められた重圧は、並み居る同門の剣士たちを一歩後ずらせるに十分な鋭さを孕んでいた。
「何を抜かすかッ! お前はもはや、同門殺しという鉄の掟を破った大罪人だ。生かしてはおかん!」
師兄の一人が咆哮し、剣を正眼に構える。追実門に伝わる精妙な剣技が、四方八方から郝彰を包囲した。
彼らの目に映るのは、自分たちの信じてきた正義を壊した絶対的な悪であった。
郝彰は軽く息を吐いた。
肺腑に溜まった淀みをすべて吐き出すような、深い呼吸。
次の瞬間、彼は地を蹴った。
無鋒剣が一閃される。そのあまりの速さに、師兄たちは己の死を覚悟し、思わず目を閉じた。
しかし、郝彰の放った一撃が、師兄たちに届くことはなかった。
剣気は彼らの脇をすり抜け、その背後──瓦礫の陰から逃げ出そうとしていた長安の官僚を、正確に撃ち抜いたのだ。
「が、はっ……」
口からどす黒い血を吐き出す。万太平の傍らで甘い蜜を吸っていた腐敗の象徴が、郝彰の放った重厚な勁力に内臓を粉砕され、物言わぬ肉塊と化す。
──そこからの記憶は、欠けていた。
降りしきる雨の音さえ聞こえぬほどの、耳鳴り。
視界を埋め尽くすのは、追実門の白装束と、それを汚していく赤黒い飛沫。
襲いかかる同門を斬ったのか、あるいはただ叩き伏せたのか。ただ、ひたすらに、偽りの正義を叩き壊すかのように剣を振り回した。
肺が焼けるような呼吸の熱と、腕に伝わる骨の砕ける振動。
意識が戻ったときには、背後に広がる洛陽の街明かりは遠く、冷たい風が吹き抜ける荒野に立っていた。
その頭上には、まだ沈みきらぬ月が、冷たく彼を見下ろしていた。




