第二話
一年前。河南省、追実門総山。
その夜、空には不気味なほどに白い月が掛かっていた。
郝彰は門主の私邸近く、竹林の影に身を潜めていた。長安から訪れた高官との密談に偶然出くわし、門主にも秘密のまま、護衛を行なっていた。
追実門の「武より義」「剣より心」という教えを、彼は疑わなかった。義のために陸縉を斬ったあの日から、彼は自らの手を汚すことで世の平穏を守っているのだと、自分を鼓舞し続けてきた。
だが、開け放たれた書斎から漏れ聞こえてきたのは、彼の魂を凍りつかせる哄笑だった。
「……それにしても、四年前の西域軍費の件は上手くいきましたな、門主殿」
肥え太った官僚が、酒杯を揺らしながら下卑た声を出す。
「陸縉という男は実に厄介だった。我々が軍費を私物化している証拠を掴み、長安へ持ち込もうとしていたのだから。……それを、貴殿の門弟が鮮やかに仕留めてくれた」
「ふむ。あの時の若造──郝彰でしたかな。奴は今も、自分が『国を売る大悪人』を正義のために成敗したと信じ込んでおりますよ。純粋な『正義漢』ほど、御しやすい駒はありません」
門主、万太平の声だった。郝彰が父のように仰ぎ、その言葉を天命と信じてきた男の、冷徹な裏切りの言葉。
「陸縉が最期まで握りしめていたあの『密書』……。実際は、我々の不正を克明に記した上奏文だったというのに。奴はそれを『匪賊との通じ合いの証拠』だと言い含められ、疑いもせずに燃やしてしまった。滑稽な話です」
竹林を吹き抜ける風が、突然、刃のように郝彰の肌を切り裂いた。
耳の奥で、あの日の雨音が蘇る。
『そなたが守ったのは、義ではない……。ただの……腐った権力だ……』
泥の中で息絶えた陸縉の最期の言葉。
あれは、負け惜しみでも、呪詛でもなかった。血を吐きながら彼が伝えたかったのは、残酷な真実だったのだ。
郝彰は、腰の『無鋒剣』の柄に手をかけた。指先が、怒りと屈辱で激しく震える。
自分が「義」と信じて命を奪った相手は、実はこの国で最も清廉な士であり、自分が「師」と仰いだ男は、その血を啜って肥え太る魔物であった。
彼は、償い方を知らなかった。
どうすれば陸縉に許してもらえるのか。許されなかったとしても、何をすれば彼に対する謝罪となるのか。
彼には剣しかなかったのだ。
──「武より義」「剣より心」
何も成していなかった。義を忘れて武を取り、心をなくして剣を握った。
ドゴォォンン──!
郝彰は無鋒剣を抜き放ち、邸宅の壁を蹴破った。
「なっ──!? お、お前は郝彰!?」
万太平が椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。その肥えた顔には、先ほどまでの余裕に満ちた嘲笑が、醜い驚愕となって張り付いている。
郝彰の手に握られた無鋒剣が、月の光を浴びて鈍く、重く沈み込んでいた。
「……聞いておったのか。郝彰よ、これが『大義』だ。一人の文官を殺して、朝廷の秩序と追実門の繁栄が守られるなら、それこそが真の義ではないか」
郝彰は何も発さず、ただ静かに無鋒剣を振りかぶった。
刹那、彼の丹田から溢れ出した練り上げられた内功が剣身へと奔り、大気を震わせる。
──劈風斬
目に見えぬ真空の刃が、万太平の鼻先を掠めて背後の書斎を襲った。凄まじい衝撃波が走り、紫檀の机も、壁に掛けられた名画も、一瞬にして微塵に斬り刻まれる。
しかし、邸宅の柱一本、瓦一枚に傷はつかない。内力を一点に収束させ、標的のみを粉砕する「精妙なる力加減」──それこそが、追実門で郝彰が研鑽してきた武の極致であった。
「お前も、その手柄で今の地位を得たのだろう?」
万太平は眉一つ動かさず、鼻で笑った。
彼はゆっくりと右掌を突き出し、そこにドス黒いまでの重厚な内功を収束させる。
──混元気功
万太平が放った掌風が、郝彰の放った余波を正面から呑み込み、相殺する。ボボォンッという、空気が爆ぜるような重低音が室内に響き渡った。
悪党と言えど、一派の門主として数多の修羅場を潜り抜けてきた男だ。その内功の深さは、若き郝彰の斬撃と互角以上に渡り合っていた。
「愚かな弟子よ。武を極めれば極めるほど、心などという不確かなものは邪魔になる。剣はただ、勝つために振るえばよいのだ」
万太平の掌から、さらに高密度な圧力が郝彰を押し包む。
郝彰は足元の石畳を数寸沈み込ませながら、無鋒剣を支えにその重圧に耐えた。
これまで「義」の象徴だと信じていた師の武が、今はただ、どす黒い欲望を隠すための巨大な壁として立ちはだかっている。
「私たちは子どもじゃないんだ。分かるだろう? 何もかも正義だなんだと騒ぎ立てたところで、帰ってくるのは、空虚な真実だ。……クククッ、死んだが愚か。生きるが解よ!」
万太平の口から漏れる哄笑には、長年積み上げられた厚い内功が孕まれていた。笑い声が衝撃波となって周囲の空気を歪ませ、装飾品が次々と粉砕される。
万太平が一歩踏み出す。ただそれだけの動作で、郝彰の背中を氷の刃でなぞられたような悪寒が走り抜けた。
郝彰は本能的に無鋒剣を身体の前面に立て、内力を凝縮させて防御の型を取った。もし一瞬でも気を緩めていれば、万太平の放つ気圧だけで五臓六腑が押し潰されていただろう。
「お前が斬った陸縉は、その『空虚な真実』に殉じて塵となった。対してお前はどうだ? 泥を啜り、嘘を吐いて生き延びてきたからこそ、今の腕があるのではないか!」
万太平が右手を幽霊のように揺らす。指先から放たれる『透骨打』の勁力が、目に見えぬ礫となって郝彰の防壁を叩く。
ガガッという鈍い振動が剣を伝い、郝彰の手首の骨が悲鳴を上げた。
──その通りだった。
万太平の言う通り、嘘に塗れ、泥を啜りながらも生き長らえてきたからこそ、今の腕があった。
師を信じ、義を信じ、がむしゃらに剣を振るい続けた数年間。その積み重ねだけは、皮肉にも裏切られることのない力として、郝彰の血肉に刻み込まれていたのだ。
郝彰は、丹田の内功をさらなる深淵へと深化させた。無鋒剣の切っ先から、凍てつくような蒼白い剣気が立ち昇る。
それはもはや、ただの気の放出ではない。剣気は意思を持つかのように幾重にも重なり合い、細く鋭い『剣絲』となって郝彰の周囲を埋め尽くした。
その銀の糸の渦は、万太平が放つ濁った圧力を微塵に切り刻み、周囲の気を寄せ付けぬ絶対的な反発力を為す。
一振り。郝彰が静かに腕を薙いだ。
万太平の放った重厚な勁力が、まるで薄紙を裂くように容易く弾け飛ぶ。余波だけで重い瓦礫が粉々に砕かれた。
二振り。間髪入れず、逆方向から剣を跳ね上げる。
暴風のごとき剣気が万太平の防壁を正面から圧殺し、巨大な邸宅の屋根を天に向かって一直線に貫いた。月光が、ぽっかりと空いた天井から降り注ぐ。
「な、なんなんだ、その剣法はッ──!? 追実門に、そのような技は伝わっておらんはずだ!」
万太平の顔から、ついに余裕が消え失せた。
彼が知る郝彰の武術は、あくまで追実門の枠内にあった。しかし、今の郝彰が放っているのは、愚直に正義を信じ、それを信じたが末に、裏切られた絶望の境地だった。
伏正剣法──正を伏し、己を断ち切る剣──
郝彰の瞳から、熱い涙が一筋流れた。
それは、自分を欺き続けた師、万太平に対する、わずかばかりの決別の情だったのか。
はたまた、これほどまでに無惨な真実を、命を賭して信じ抜いてしまった己の愚かさに対する悔恨だったのか。
彼にも、その答えは分からなかった。
無鋒剣が地を裂き、その先で、一つの命を喰らった。




