第一話
郝彰は、導かれるままに、歩を進めた。
砂を踏む音はいつしか消え、足裏には石畳の冷たさが伝わってきた。
そこは、あまりに静謐な黄金の都だった。
運河のふちには色鮮やかな花が咲き乱れ、そよ風が吹くたびに甘い香りが郝彰の乾いた鼻腔をくすぐる。
行き交う人々は皆、穏やかな表情で言葉を交わし、都のいたる所に配された噴水が、絶え間なく清らかな飛沫を上げていた。
「不思議な顔をなさっていますね。楼蘭は、いつでもあなたを歓迎しますよ」
前を行く少女が、いたずらっぽく笑って振り返る。
彼女の足取りは羽のように軽く、音もなく、その背中を追ううちに、郝彰は何のために西域の砂漠へやって来たのか、忘れそうになる。
やがて、都の喧騒から少し離れた、緑豊かな一角に、その家はあった。
簡素ながらも手入れの行き届いた、木造りの邸宅。門前には一本の古木が立ち、その枝には風鈴が吊るされている。
「さあ、入ってください。父上がお待ちです」
婉清が門をくぐる。郝彰は一瞬、足を止めた。
その家構え、そして庭に漂う沈香の香りは彼が、かつて任務のために調査し、そして最後に踏み込んだ隠れ家と寸分違わぬものだった。
重い木戸が開かれる。
奥の書斎からは、紙をめくる静かな音と、誰かが咳き込む声が聞こえてきた。
「婉清か。客人を連れてきたというのかね」
その声を聞いた瞬間、郝彰の指先が微かに震えた。
それは、死の間際に義を説き、郝彰の無鋒剣に貫かれて、力尽きた男の声。
郝彰の脳裏を不意に、血に染まった男の最期の表情がよぎる。しかし、目の前の書斎から現れたのは、病にやつれた様子も、胸に傷を負った様子もない、穏やかな眼差しをした男であった。
「陸、殿……」
絞り出すような郝彰の呼びかけに、男は微笑んで頷いた。
「よくぞ参られた。若き剣客殿。歓迎しよう」
陸縉。郝彰が殺した文官であり、無実の人間だった。
「さあ、楽にしてくれ。君のような若き義士が、命を賭して汚職の証拠を守り抜いてくれた。おかげで、この国の民は救われたのだよ」
陸縉は、穏やかな手つきで茶を淹れ、郝彰の前に差し出した。
湯気と共に立ち上る芳醇な香りは、砂漠の渇きを忘れさせるほどに甘美だ。だが、郝彰はその茶碗を手に取ることができない。
──義士。
陸縉が口にしたその言葉が、郝彰の心に深く突き刺さる。
(違う。俺は……)
視界が、不意に歪んだ。黄金の都の陽光が消え、降りしきる冷たい雨の音が、遠い記憶の底から蘇ってくる。
………
……
…
五年前。首都、長安。
長安の外れにある古びた寺院だった。追実門の密殺の命を受け、郝彰は影に紛れてその男を追い詰めた。
『……愚かな。朝廷の走狗と成り果て、どんな義を為すのだ、若き剣客よ』
陸縉は書斎を背に、やつれた顔で笑みを向けた。その顔は、諦観のようにも見えれば、未だ火の灯る瞳のようにも見える。
『義を為すために、あなたを殺す。たとえ、朝廷の走狗になろうとも、不正を正す』
郝彰は雨に濡れた手で『無鋒剣』を握り、冷たい瞳で陸縉を見た。対する陸縉も、鋭い眼光を崩さなかった。
彼の手には、『匪賊と交わした密書』が握られている。郝彰は、門主から「国を揺るがす逆徒の証拠を奪え」と命じられていた。
『それは義でない。私情だ』
『……追実の剣に、私情はない』
郝彰は低く応じ、無鋒剣を正眼に構えた。
迷いはなかった。自分は悪を断ち、大義を守っているのだと、心の底から信じていたからだ。
陸縉は、武人ではなかった。ただの文官に過ぎない彼が、震える手で筆を杖にし、立ち上がろうとする。その無防備な胸元へ、郝彰の無鋒剣が容赦なく吸い込まれた。
ザシュッ──
陸縉の口から溢れた鮮血が、郝彰の白い武服を無残に汚していく。
『そなたが守ったのは、義ではない……。ただの……腐った権力だ……』
男は力尽き、泥の中に沈んだ。
「……どうかしたかね、郝彰殿?」
陸縉の柔らかな声が、彼を楼蘭へと引き戻した。
見れば、目の前の男は一点の汚れもない白い衣を纏い、郝彰を慈しむように見つめている。
「いえ……。そちらは、ご息女で?」
「ええ。名を婉清と。亡き妻が付けた名前でして、性格も私のように頑固ではなく、妻のように優しい」
「そう……ですか……」
郝彰は、それ以上の言葉を継げなかった。
婉清。清らかに、しなやかに。
その名に込められた願いを、自分は五年前、雨の夜の古寺で完膚なきまでに踏みにじったのだ。
目の前の陸縉は、あの日郝彰が奪った『密書』など存在しなかったかのように、温かな手つきで婉清の肩を抱き寄せた。
「この子は、私の唯一の宝でしてね。私が都でつまらぬ政争に明け暮れている間も、この西域の風のように、自由に、真っ直ぐに育ってくれた」
陸縉の眼差しは、自分を殺した刺客に向けるものとは思えぬほど、慈愛に満ちている。
「父上は、私の自慢なんです。民のことを一番に考えて、悪い人たちにも決して屈しない……。だから、あなたのような立派な剣客様が助けに来てくださった時、私、本当に嬉しくて」
婉清が、頬を染めて郝彰を見上げる。
彼女の言葉は、郝彰の胸の奥に潜む「許されたい」という卑小な願望を優しくなぞり、同時に、剥き出しの傷口に塩を塗り込む。
(ああ、やめてくれ)
郝彰の視界の端で、陸縉の白い衣の裾が、一瞬だけドロリと黒い雨水に濡れたように見えた。
(あなたは……不正などしていなかったのだから。俺が間違っていた。……あの密書には、あなたの不正など書かれていなかった)
ここは地獄だ。
自分が殺した男に褒められ、自分が奪った幸せの残滓に感謝される。
このまま、この優しさに溺れてしまえば、どれほど楽だろうか。
「郝彰殿。顔色が悪い。……もしや、『追実門』での激務が、お体に障っているのではないかな?」
陸縉が、心配そうに顔を覗き込んできた。
郝彰は、開きかけた口を閉じた。追実門での激務──それは、郝彰にとっての罪であり、消えない過去だった。




