第9話 曹操軍撤退――そして荊州刺史との対面
曹操軍が、新野から完全に姿を消した。
城壁の上から北の街道を眺めていた兵たちは、しばらく誰も口を開かなかった。
あれほど大きく見えた曹操軍の旗が、少しずつ小さくなっていく。
やがて、それすら見えなくなった。
「……本当に、退いていったな」
兵の一人が呟いた。
「ああ」
「追わなくていいのか?」
「延麒殿が追うなと言っていた」
「そうか……」
兵たちは互いの顔を見る。
以前なら、敵が退けば追撃を考えただろう。
だが今は違う。
追撃しないことが、兵を守ることにつながる。
そのことを、兵たちは今回の戦いで理解し始めていた。
俺は城壁から降りる。
そして、領主館へ向かった。
今後のことを決めなければならない。
曹操軍が退いた。
それは喜ばしい。
だが、問題がなくなったわけではない。
むしろ――
ここからが問題だった。
◆
領主館の一室。
劉備を中心に、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮、龐統、そして俺が集まっていた。
机の上には、新野周辺の地図が広げられている。
「まず、此度の戦についてだ」
劉備が口を開いた。
「皆、ご苦労であった」
「兄者」
関羽が頭を下げる。
「兵たちもよく戦いました」
趙雲も頷いた。
「大きな損害を出さずに済んだのは幸いです」
劉備が俺を見る。
「延麒」
「はい」
「此度の戦、そなたはどう見る?」
俺は地図を見る。
「曹操は、新野を落とすことより、こちらの戦力や防備を探ることを優先していたと思います」
諸葛亮が頷いた。
「私も同じ考えです」
龐統が地図の北側を指でなぞる。
「正面から攻めたかと思えば、南から兵糧を狙った。そして趙雲殿が後方に現れれば退いた」
「つまり」
劉備が言う。
「我らがどのように戦うかを見ていた、と」
「おそらく」
俺は答えた。
「そして、最後には撤退した」
張飛が腕を組む。
「なら、俺たちの勝ちってことでいいんじゃねえか?」
俺は少し考える。
「戦術的には、こちらの目的を達成したと言っていいと思います」
「ほら見ろ!」
張飛が笑う。
だが、俺は続けた。
「ただし、曹操は負けたから退いたわけではないと思います」
「どういうことだ?」
張飛の顔から笑みが消える。
「情報が足りなかったからです」
俺は地図を指差した。
「敵は新野の兵力を正確に把握できていない。防備も分からない。
さらに、こちらが次にどう動くのかも分からない」
諸葛亮が静かに口を開く。
「ならば、曹操にとっては戦う理由より、戦わない理由のほうが大きくなった?ということですね。」
「そういうことです」
俺は頷いた。
「だから撤退した」
劉備が腕を組む。
「では、曹操は次にどうする?」
「おそらく、すぐには攻めてきません」
俺が答える。
「でも、次に来る時は今回の戦いを踏まえてきます」
「……敵も学ぶ、か」
趙雲が呟く。
「はい」
俺は頷く。
「俺たちだけが変わるわけではありません。
必ず、相手も学んで対策を講じて来ると思われます。」
部屋に沈黙が落ちた。
諸葛亮が羽扇を動かす。
「ならば、我々も次の手を考える必要がありますね」
「そうだ」
劉備が地図を見る。
「新野を守るだけでは足りぬ」
俺も同意した。
「その通りです」
「延麒は、何を考えている?」
劉備に問われ、俺は少し考える。
「三つあります」
俺は指を一本立てた。
「一つ目。兵糧の確保」
次に二本目。
「二つ目。兵の訓練と装備の整備」
そして三本目。
「三つ目。情報です」
諸葛亮が頷く。
「敵の情報だけではない、と?」
「はい」
俺は荊州の地図を見る。
「荊州全体の情勢を知らなければ、この先どう動くべきか判断できません」
張飛が首を傾げる。
「荊州なら、劉表殿が治めているだろう」
「だからこそです」
俺は地図の襄陽を指した。
「劉表殿とお話をする必要があります」
関羽が腕を組む。
「援軍を求めるのか?」
「それだけではありません」
俺は首を横に振る。
「今後、曹操が軍を再び南下してきた時、荊州全体がどう動くのか。それを確認したいところです」
諸葛亮が俺を見る。
「劉表殿の考えを知る必要がある、ということですね」
「はい」
劉備が静かに頷いた。
「分かった」
そして――
「私が劉表殿に会いに行こう」
◆
数日後。
新野に、一行の使者が到着した。
その中に、俺の知らない人物がいた。
いや。
正確には――
俺がこの世界に来てから、初めて見る人物だった。
「劉備殿」
使者の一人が頭を下げる。
「荊州刺史、劉表様がお越しになられました」
「ご足労痛み入ります。」
劉備が立ち上がり上座を空ける。
そして、しばらくして。
領主館の広間に、その男が姿を現した。
荊州刺史。
劉表。
穏やかな表情をしている。
だが、その目には慎重さがあった。
「玄徳」
「劉表殿」
二人は互いに頭を下げる。
俺はその様子を少し離れた場所から見ていた。
劉備殿にとっては、これが二度目の対面。
だが――
俺にとっては、初めてだ。
俺は静かに頭を下げる。
「初めてお目にかかります。劉延麒と申します」
劉表殿の視線が俺へ向いた。
「……そなたが、延麒殿か」
「はい」
「話は聞いている」
その言葉に、俺は少し警戒した。
「曹操軍を退けた軍師」
劉表殿は続ける。
「新野の兵を変えた男、とも聞いている」
「そこまで大したことはしていません」
「謙遜か、それとも本心か」
「本心です」
俺が答えると、劉表殿は僅かに笑った。
「なるほど」
だが、その目は笑っていない。
俺を測っている。
この人もまた、諸葛亮や龐統とは違う意味で人を見る人間だ。
俺は背筋を正した。
「玄徳」
劉表殿が劉備へ向き直る。
「そなたの軍が曹操の軍を退けたと聞いた」
「兵たちがよく戦ってくれました」
「その中に、延麒殿の働きもあったのだろう?」
「はい」
劉備は迷いなく答えた。
「ですが、延麒だけの功ではありません」
関羽、張飛、趙雲を見る。
「皆が、それぞれの役割を果たしてくれたからこそです」
俺はその言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなった。
劉備は、功を一人に集めない。
だからこそ、人がついてくるのだろう。
「そうか」
劉表殿は頷いた。
「では、今後はどうする?」
劉備が答える。
「曹操の軍は一度退きました。しかし、次も同じとは限りません」
「うむ」
「我らは新野を守るだけではなく、荊州全体の備えを考える必要があります」
劉表殿の表情が変わった。
「荊州全体、か」
「はい」
劉備は続ける。
「曹操が南へ目を向ける以上、荊州も無関係ではありません」
劉表殿は黙っていた。
その横で、俺は地図を見る。
襄陽。
新野。
江陵。
長江。
そして、その先にある呉。
この土地は、ただの避難場所ではない。
これから先、魏・呉・蜀の三つ巴へ繋がる場所だ。
俺は知っている。
だが――
今まで知っていた歴史は、すでに変わり始めている。
「延麒殿」
突然、劉表殿から声をかけられた。
「はい」
「そなたは、曹操をどう見ている?」
俺は少し考えた。
「強いです」
「それだけか?」
「……合理的な人物だと思います」
「ほう」
「勝てる戦いだけをするわけではない。ですが、勝てないと判断した時には、無理に戦わない」
今回の撤退を思い出す。
「だから、次に来る時は今回より厄介になっていると思います」
劉表殿は俺をじっと見た。
「なるほど」
そして、しばらく沈黙した後。
「玄徳」
「はい」
「そなたの言う通り、荊州も備えを考えるべきかもしれぬ」
劉備殿が頭を下げる。
「ありがとうございます」
劉表殿は頷いた。
だが、その表情にはまだ何かが残っている。
不安。
それとも、警戒。
俺には判断できなかった。
会談が終わり、劉表殿が退出していく。
俺はその背中を見つめた。
「……どう思う?」
劉備が尋ねてくる。
「慎重な方だと思います」
「私もそう思う」
「ですが、荊州を守ろうという意思はある」
俺は答えた。
「ただし、曹操と正面から戦う覚悟があるかは、まだ分かりません」
諸葛亮が静かに口を開いた。
「だからこそ、これからの関係が重要になります」
「そうですね」
俺は頷いた。
新野は守れた。
曹操の軍も退いた。
だが、これは始まりに過ぎない。
俺は地図を見る。
新野の先には襄陽。
襄陽の先には荊州。
さらにその先には――
曹操。
孫権。
そして、まだ俺が知らない未来が待っている。
俺は腰の短刀に触れた。
劉備殿から渡されたもの。
俺がこの世界で生きると決めた証。
「……次は、荊州そのものを考えないとな」
誰に言うでもなく呟いた。
歴史を知っている。
だからこそ、分かる。
この先に待っている戦いは――
新野の一戦より、はるかに大きい。




