第8話 郭嘉の判断――曹操軍、撤退
夜が明けた。
新野から北へ離れた曹操軍の陣。
天幕の中には、数枚の報告書が並べられていた。
その中央で、一人の男が腕を組んでいる。
郭嘉。
曹操の側近くに仕える軍師である。
彼は、昨夜から何度も同じ報告書を読み返していた。
「……妙だな」
郭嘉が呟く。
「何がでしょう?」
傍らの武将が尋ねる。
「新野の兵力だ」
郭嘉は地図を指でなぞった。
「我々は、敵の兵力を正確に把握できていない」
「ですが、おおよその数は――」
「それがおおよそでしかない」
郭嘉は首を横に振った。
「敵が少ないことは分かっている。だが、少ないということ以外が分からない」
そこが問題だった。
敵の兵力。
兵糧。
城内の備え。
指揮系統。
増援の有無。
どれも確かな情報がない。
「そこで、もう一度細作を入れる」
郭嘉は地図から目を上げた。
「昨夜の戦で、敵がどこまで変わったのか確認する」
「承知しました」
数名の細作が呼ばれた。
彼らは一般の兵士とは違う。
目立たない衣服。
地形を読む力。
敵陣へ潜り込む経験。
これまで幾度も敵地へ入り、情報を持ち帰ってきた者たちだった。
郭嘉は彼らに指示する。
「新野へ入り、城内を直接見る必要はない」
「はっ」
「兵の数を数えるな」
細作たちが顔を上げる。
「では、何を?」
「変化を見ろ」
郭嘉は続けた。
「兵の交代時間。食糧の搬入。水の運搬。武具の修理。夜間の警戒。昨日までと違うところを探せ」
「承知しました」
「そして――」
郭嘉の目が鋭くなる。
「劉延麒という男について、何か分かれば持ち帰れ」
「……あの軍師ですか」
「そうだ」
郭嘉は頷いた。
「この男が何者なのか。それが今、一番知りたい」
細作たちは夜の闇へ消えていった。
◆
新野。
城外の林。
一人の男が、木陰から城を見ていた。
曹操軍の細作だった。
「……昨夜の戦で、警戒が厳しくなったか」
男は小さく呟く。
城壁には見張り。
街道には巡回兵。
さらに、一定の間隔で交代している。
以前とは明らかに違う。
だが、男は焦らなかった。
こうした状況には慣れている。
警戒が強いなら、別の場所から入ればいい。
男は林の中を移動した。
城の南側。
そこには小さな水路がある。
兵士が少ない。
「ここなら――」
男が身を低くした。
その瞬間。
――ピィッ。
小さな音が鳴った。
「……!」
男が止まる。
周囲を見回す。
何もない。
風の音だけ。
「気のせいか……」
そう呟いて、一歩進む。
――ピィッ。
今度は、はっきり聞こえた。
男の顔から血の気が引く。
「警戒線……?」
足元を見る。
細い糸。
暗闇では見つけにくい。
踏めば音が鳴る。
殺傷用ではない。
侵入者を知らせるための仕掛けだ。
「……なるほど」
男は慎重に後退する。
その判断は正しかった。
だが――
戻ろうとした先に、人影が立っていた。
「誰だ!」
男が短刀を抜く。
「それは、こちらの台詞です」
声がした。
兵士が二人。
さらに後ろから、もう二人。
完全に囲まれている。
「……」
細作は武器を構える。
だが、兵士たちは無理に近づいてこない。
ただ、一定の距離を保っている。
「武器を捨てろ」
「断る」
「ならば、こちらも動く」
男は周囲を見る。
逃げ道がない。
だが、ここで捕まるわけにはいかない。
男は突然、地面へ煙玉を投げた。
白い煙が広がる。
「追うな!」
兵士の声。
細作はその隙に林へ飛び込んだ。
走る。
走る。
だが――
林を抜けた先で、また別の兵が待っていた。
「……!」
細作は方向を変える。
しかし、そこにも兵。
さらに別の方向にも。
まるで、最初から逃げ道を用意されていたかのようだった。
「くそっ……!」
男は歯を食いしばる。
結局。
新野の城内を見ることも。
兵糧庫を確認することも。
兵力を数えることもできなかった。
唯一持ち帰れたのは――
新野の警戒網が以前とは比較にならないほど厳しくなっているという事実だけだった。
◆
数刻後。
曹操軍の陣。
郭嘉の前に、細作が戻ってきた。
疲労した顔。
衣服には泥が付いている。
「申し訳ありません」
「何が分かった?」
郭嘉は責めなかった。
「……ほとんど何も」
「ほとんど?」
「はい」
細作は悔しそうに拳を握る。
「新野の外周警戒を抜けられませんでした」
「警戒の程度は?」
「昨夜より、さらに強化されています」
郭嘉の目が細くなる。
「具体的には?」
「侵入を知らせる仕掛けがあります」
「音か」
「はい」
「見張りの配置は?」
「一定ではありません。交代の時間も固定されていないようでした」
「兵糧は?」
「確認できず」
「兵力は?」
「分かりません」
「指揮官は?」
「分かりません」
「劉延麒は?」
細作は一瞬、黙った。
「……それも」
「分からない?」
「はい」
郭嘉は目を閉じた。
そして、静かに息を吐く。
「失敗だな」
「申し訳ありません!」
「いや」
郭嘉は首を振った。
「お前たちの失敗ではない」
目を開く。
「むしろ、重要な情報を持ち帰ってくれた」
「重要な情報……?」
「我々が、何も掴めなかったということだ」
細作が黙る。
郭嘉は地図を見る。
新野。
小さな城。
そこに劉備軍がいる。
兵力は多くない。
なのに、情報が取れない。
攻めれば壕がある。
側面を狙えば関羽が動く。
後方を狙えば趙雲が現れる。
そしてこちらが動けば――
敵は、その動きを利用してくる。
「……劉延麒」
郭嘉は再び、その名を呟いた。
「この男は、兵力で戦っているのではない」
周囲の者が黙って聞いている。
「我々の判断を一つずつ狂わせている」
「では、さらに兵を増やして――」
「駄目だ」
即答だった。
郭嘉は首を横に振る。
「兵を増やせば、それだけ補給が必要になる」
「しかし、新野は小城です」
「だからこそだ」
郭嘉は地図を指した。
「小さな城を落とすために、大軍を長期間拘束する。それこそ敵の思う壺だ」
天幕が静かになる。
「それに――」
郭嘉は北を見た。
「敵の本当の狙いが分からない」
「劉備軍の?」
「そうだ」
郭嘉の表情が険しくなる。
「これまでの劉備なら、我々の攻撃を受ければ逃げるか、正面から戦うかだった」
「ですが今は違います」
「そうだ」
郭嘉は頷いた。
「戦わなくてもいい場所では戦わない。こちらが攻めれば、地形と罠を使う。こちらが退く時は追撃させない。補給を狙えば、関羽が出てくる。後方を警戒すれば、趙雲が現れる」
そして最後に。
「情報を取ろうとすれば、細作すら何も持ち帰れない」
郭嘉は地図を畳んだ。
「これ以上、新野に兵を置く理由はない」
◆
その日の夕刻。
曹操軍本陣。
曹操は郭嘉から報告を受けていた。
「……細作が失敗したか」
「はい」
郭嘉は答える。
「新野の外周警戒を突破できませんでした」
曹操は黙って聞いていた。
「兵力は?」
「正確には不明です」
「食糧は?」
「不明」
「増援は?」
「不明」
「そして、あの軍師についても?」
「何も掴めておりません」
曹操はしばらく地図を見つめていた。
やがて口を開く。
「郭嘉」
「はい」
「お前はどう見る?」
郭嘉は迷わなかった。
「撤退をお勧めします」
曹操の目が細くなる。
「新野を落とせないと?」
「落とせるかどうかではありません」
郭嘉は答える。
「今の我々には、落とすために必要な情報が足りません」
「……」
「敵の兵力も分からない。防備も分からない。指揮官の意図も分からない。そして何より――」
郭嘉は一度言葉を切った。
「敵はこちらの動きを見て、戦い方を変えている可能性があります」
曹操は黙った。
「ならば、ここで兵を消耗させる理由はないと存じます」
郭嘉は続ける。
「新野は逃げません」
「……なるほど」
曹操は立ち上がった。
「全軍に命じよ」
周囲の武将が顔を上げる。
「新野攻略を中止する」
天幕に緊張が走った。
「全軍、撤退だ」
「はっ!」
命令が伝えられていく。
やがて、曹操軍の陣から撤退の合図が上がった。
兵たちは荷をまとめる。
補給部隊が動く。
騎兵が後方を固める。
そして――
曹操軍は、新野から完全に離れていった。
その様子を、遠くの丘から一人の兵が見ていた。
「……撤退していく」
別の兵が答える。
「本当に全部退くのか?」
「ああ」
新野の兵たちは、しばらく信じられないように曹操軍を見つめていた。
やがて、城内にもその報告が届く。
「延麒殿!」
兵が駆け込んでくる。
「曹操軍が撤退しています!」
「……全軍?」
「はい!」
俺は地図を広げた。
北側。
南側。
街道。
すべて確認する。
「……本当に退いているな」
俺は小さく息を吐いた。
勝った。
そう言っていいのかもしれない。
だが――
俺は、素直に喜べなかった。
曹操軍が撤退した理由が分からない。
いや。
正確には、いくつか理由は考えられる。
損害。
補給。
情報不足。
そして――
俺たちが何をするか分からないこと。
「……曹操は、こっちを警戒している」
俺が呟くと、隣にいた趙雲殿が尋ねる。
「それは、悪いことなのでしょうか?」
「分かりません」
俺は北の空を見る。
「ただ、一つだけ分かる」
「何でしょう?」
「次に曹操軍が来る時は――」
俺は地図を畳んだ。
「今日までと同じ敵じゃない」
その言葉に、趙雲殿は静かに頷いた。
曹操軍もまた、学習している。
こちらが変わったように。
敵も変わっていく。
俺は腰の短刀に触れた。
そして、止まったままのG-SHOCKを見る。
歴史は、もう俺の知っているものではない。
俺が変えた。
曹操も変える。
そして、これから先も――
誰かが歴史を変えていく。
俺は遠ざかっていく曹操軍の姿を見つめた。
戦いは終わった。
だが、これで終わりではない。
むしろ――
ここから、本当の戦いが始まるのだ。
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