第7話 初陣――戦場を変える
北の空に、土煙が上がっていた。
新野の城壁から、それを見つめる。
風に乗って、かすかに馬の蹄音が届いてくる。
「……来たか」
俺は呟いた。
曹操軍。
数は、こちらより圧倒的に多い。
正面からぶつかれば、勝ち目は薄い。
それは俺がこの世界に来た時から分かっていた。
「延麒殿!」
城壁の階段を駆け上がってきた兵が、息を整えながら報告する。
「北東より敵軍! 騎兵を確認しました!」
「数は?」
「およそ五百!」
五百。
新野の兵力を考えれば、十分な脅威だ。
「本隊は?」
「まだ見えておりません!」
「なら、これは先遣隊だ」
俺は北の街道へ目を向けた。
「様子を見ているんだ。こちらの防備を確認している」
周囲の兵たちがざわめく。
「敵はもう、こちらの備えを知っているのか?」
「この前の細作の報告が届いたんじゃないか?」
「だが、あの壕で騎兵を止められるのか?」
不安の混じった声が聞こえる。
無理もない。
俺たちが作ったのは、巨大な城壁でも深い堀でもない。
土を掘り、盛り、杭を打っただけの簡単な障害物だ。
俺自身も、これだけで敵を止められるとは思っていない。
重要なのは――
速度を落とすこと。
進路を乱すこと。
そして、こちらが攻撃する時間を作ることだ。
「偵察兵を出しましょう」
背後から声がした。
趙雲だった。
「お願いします。ただし、深入りはさせないでください」
「承知しました」
趙雲は数名の偵察兵を選ぶ。
「敵の数だけを見るな」
彼は兵たちに言った。
「旗印、隊列、補給の動き、退路まで確認せよ」
「はっ!」
「危険を感じたら、すぐさま戻れ。功を焦る必要はない」
兵たちは頷き、城外へ走っていった。
俺は趙雲を見る。
俺の指示をただ聞くだけではない。
必要な情報を自分で考え、偵察兵に求めている。
やはり、この人は戦場を知っている。
「延麒殿」
今度は関羽だった。
「敵を迎え撃つのか?」
「正面からは迎え撃ちません」
「では?」
「敵に、こちらの戦力を正確に見せない動きをします」
俺は地図を広げた。
「敵はまず、こちらの守りを探るはずです」
街道。
壕。
土塁。
城壁。
「ならば、こちらも敵に見せる兵と隠す兵を分けます」
「囮か」
「そうです」
関羽が地図を見る。
「ならば、城外に出る部隊は?」
「関羽殿には、まだ動かないでいてほしいです」
「ほう」
「敵が南へ回った時に備えてください」
関羽は少し考えた。
「敵の狙いは新野そのものではない、と?」
「まだ分かりません」
俺は答えた。
「恐らく、兵糧を狙う可能性があります」
「なるほど」
関羽は再び地図を見つめる。
「ならば、南側の街道を押さえるとしよう」
「お願いします」
「任せよ」
関羽は兵を選び始めた。
その動きには迷いがない。
俺はそれを見て、少し安心した。
俺が全部を考え、全部を命令する必要はない。
関羽には関羽の経験がある。
趙雲にも趙雲の判断力がある。
それを生かすのが俺の役目だ。
やがて。
北の街道に黒い点が現れた。
それが次第に大きくなる。
馬。
そして――
騎兵。
「来たぞ!」
誰かが叫んだ。
緊張が走る。
兵たちが槍を握り直す。
盾を持つ腕に力が入る。
弓兵たちは矢を取り出し、弦を張る。
「まだだ!」
俺は叫んだ。
「射るな!」
騎兵が近づいてくる。
蹄が大地を叩く。
ドドドドッ――!
地面そのものが震えているようだった。
兵士の一人が唾を飲み込む。
「……怖え」
「俺もだ」
隣の兵が小さく答える。
「逃げるなよ」
「お前こそな」
震える声。
それでも、誰一人として持ち場を離れなかった。
俺はその姿を見ていた。
そして、合図を待つ。
「……まだ」
騎兵が迫る。
百メートル。
八十。
五十。
その瞬間。
「今!」
俺が手を上げた。
「放てぇっ!」
弓兵が一斉に矢を放つ。
矢が空を覆う。
騎兵が盾を上げる。
何騎かが速度を落とす。
だが、止まらない。
「来るぞ!」
「構えろ!」
兵たちの顔が強張る。
騎兵がさらに近づく。
そして――
先頭の馬が、突然、大きくよろめいた。
「なっ……!」
後続の馬も速度を落とす。
壕だ。
浅い壕と杭。
雨でぬかるんだ地面。
平地を駆け抜けるための速度が、そこで失われた。
「止まった……?」
兵の一人が呟く。
「本当に止まったぞ!」
別の兵が叫ぶ。
「今だ! 射て!」
弓兵が再び矢を放つ。
今度は敵の動きが鈍い。
馬が足場を取られ、騎兵同士の間隔も崩れている。
「すげえ……」
「昨日まで、あんなものなかったぞ」
「延麒殿が作らせたんだ」
兵たちの声が広がっていく。
だが俺は叫んだ。
「撃ち方止め!」
「えっ?」
弓兵の一人が戸惑う。
「まだ敵がいます!」
「止めろ!」
矢が止まる。
敵騎兵は、こちらの防衛線を突破できないと判断したのか、少しずつ後退を始めた。
「追撃しないんですか?」
若い兵が叫ぶ
「今なら倒せます!」
周囲にも同じ考えが広がる。
「そうだ!」
「敵は崩れている!」
「今なら追える!」
俺は首を横に振った。
「追わない」
「なぜです!」
「敵はまだ戦える」
俺は街道の先を指差した。
「ここから先は、敵の得意な場所だ」
若い兵は悔しそうに唇を噛んだ。
「……敵を倒せるのに?」
「倒せる敵を全部倒す必要はない」
俺は答えた。
「今日、ここを守ることが目的だ」
兵たちが黙る。
やがて、敵騎兵は街道の向こうへ消えていった。
その時だった。
南側から狼煙が上がった。
「南に敵!」
兵が叫ぶ。
俺は地図を広げた。
「やっぱりか」
敵は北から騎兵をぶつけて、こちらの兵力を引きつけた。
その隙に、南から別働隊を送り込んできたのだ。
「敵の狙いは兵糧だ!」
俺は叫んだ。
「関羽殿!」
「ここに!」
すぐに関羽が現れる。
「南へ向かってください。敵は三百ほどいる可能性があります」
「分かった」
関羽は地図を見る。
「だが、兵糧を守るだけでは敵を退かせられぬ」
「……どうするつもりです?」
「敵が兵糧を狙っているのなら、こちらも敵の退路を意識する」
関羽は地図上の街道を指した。
「ここだ。南から来た敵が退くなら、この道を通る」
「なるほど」
俺は頷いた。
「ただし、深追いはしないでください」
「心得ている」
関羽は二百の兵を率いて南へ向かった。
その背中を見送りながら、俺は思う。
関羽は単なる「強い武将」ではない。
自分で戦場を見て、判断できる。
だからこそ、任せられる。
「延麒殿!」
今度は別の兵が駆けてきた。
「趙雲殿から報告です!」
「聞かせてくれ」
「敵の北側部隊の後方に、補給用と思われる荷車があるとのことです!」
俺は目を見開いた。
「……補給部隊か」
ならば、まだ手がある。
俺は南の地図を見る。
北から来た敵騎兵。
南の別働隊。
そして、その後方にある補給。
「趙雲殿に伝えてくれ」
「はい!」
「敵の補給部隊を見つけても、破壊する必要はない」
「え?」
「姿を見せて、敵を警戒させるだけでいい」
兵が頷く。
「敵に、『後ろも安全ではない』と思わせるんだ」
「承知しました!」
伝令が走っていく。
ほどなくして、遠くに別の狼煙が上がった。
北。
そして、そのさらに後方。
敵陣がざわめいているのが見える。
趙雲が動いた。
敵の後方を脅かし、補給部隊へ接近する。
だが、深くは入らない。
敵が追えば退く。
追わなければ、また姿を見せる。
敵にとっては、非常に嫌な存在だ。
「……上手いな」
俺は思わず呟いた。
趙雲殿は俺の指示を、そのまま実行しているわけではない。
自分の判断で、敵を動かしている。
やがて、北側の敵部隊が動きを止めた。
そして南側でも――
関羽の部隊が敵の前に姿を現した。
「敵が止まりました!」
見張りの兵が叫ぶ。
「関羽殿が接触したようです!」
南側から、遠く戦鼓の音が響く。
ドン、ドン、ドン――。
兵たちの顔が強張る。
「戦が始まった……」
誰かが呟いた。
俺は南を見つめる。
ここからでは細かい状況は分からない。
だからこそ、余計な命令を出さない。
しばらくすると、南から敵兵がこちらへ戻ってくる姿が見えた。
「敵が退いています!」
兵たちが声を上げる。
だが、その直後。
「追うな!」
俺は叫んだ。
「関羽殿に伝えろ! 追撃は敵の退路を確認してからだ!」
伝令が走る。
ほどなくして、関羽殿から返答が届いた。
「敵の追撃は行わないとのことです!」
俺は息を吐いた。
さすがだ。
自分で敵を追う誘惑を理解している。
そして――
その判断が、兵たちを守る。
夕方。
敵軍の旗が、ゆっくりと北へ遠ざかっていった。
新野への攻撃は終わった。
兵たちは、しばらく誰も動かなかった。
「……勝った?」
若い兵が呟く。
「敵、退いていったぞ」
「本当に?」
「俺たち、生きてる……」
そこで初めて、兵たちの緊張が切れた。
何人かがその場に座り込む。
「足が震えてる……」
「俺もだ」
「敵の騎兵って、あんなに速いのかよ」
「でも、あの壕で止まった」
「……あれがなかったら、どうなってたんだろうな」
誰も答えなかった。
答えは、想像したくもないものだった。
しばらくして、関羽と趙雲が戻ってきた。
「損害は?」
俺が尋ねる。
関羽が答える。
「軽微だ。兵糧も守った」
「敵は?」
「南の部隊は退いた。深追いはしておらぬ」
続いて趙雲。
「こちらも敵の補給部隊を脅かしただけです。大きな損害は与えていません」
「それで十分です」
俺は頷いた。
関羽が俺を見る。
「延麒殿」
「はい」
「今日の戦、そなたは一度も敵陣へ踏み込まなかったな」
「はい」
「だが、敵は退いた」
「関羽殿や趙雲殿が動いてくれたからです」
俺は素直に答えた。
「俺一人じゃ何もできません」
関羽殿が僅かに目を見開く。
「……そう言えるのか」
「当然です」
俺は二人を見る。
「関羽殿には、関羽殿にしかできないことがある。趙雲殿にも、趙雲殿にしかできないことがある」
「……」
「俺は、それを生かすだけです」
趙雲が静かに笑った。
「なるほど」
関羽も頷く。
「ならば、我らもそなたを生かすとしよう」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
その時。
後ろから兵の声が聞こえた。
「延麒殿!」
振り向く。
若い兵が立っていた。
「あの……」
「なんだ?」
「明日も、あの壕は残しておくんですよね?」
「もちろん」
「……なら、俺たちも手伝います」
別の兵が口を開く。
「俺も」
「俺もだ」
次々と声が上がる。
「次に来るかもしれないんだろ?」
「だったら、もっと深くしたほうがいい」
「いや、深すぎると味方が動けなくなるぞ」
「なら杭を増やそう」
兵たちが自分たちで話し始める。
俺は、その光景を黙って見つめた。
少し前まで。
俺が作らせた壕を見て、笑っていた兵たち。
それが今は、自分たちから整備しようとしている。
――変わり始めている。
軍そのものが。
今回の戦いで、敵を壊滅させたわけではない。
大勝したわけでもない。
ただ、新野を守った。
兵糧を守った。
そして――
兵たちを生きて帰すことができた。
それだけだ。
だが、俺にとっては、それで十分だった。
俺は地図へ目を落とした。
今日の戦いは、俺が知っている『三国志』には存在しない。
ならば。
この先に起きることも、俺の記憶通りになるとは限らない。
「……歴史を知っているだけじゃ、足りないな」
腰の短刀に触れる。
劉備殿から渡された、あの短刀。
そして腕のG-SHOCKを見る。
相変わらず、針は動いていない。
それでも時間は進む。
歴史も進む。
ならば俺は――
この時代で、生き残る方法を考え続けるしかない。
北の彼方。
曹操軍の旗が、夕暮れの中へ消えていった。
「少しでも面白かったら、下部の『★★★★★』で応援していただけると執筆の励みになります!」




