第10話 劉琦の願い――荊州に生まれた亀裂
劉表殿との会談から、数日が過ぎた。
新野の城内は、束の間の平穏を取り戻していた。
兵たちは訓練を続け、壕や土塁の補修を行っている。
武具の点検も、以前よりずっと丁寧になった。
だが――
俺は知っている。
敵が去ったからといって、危機が去ったわけではない。
むしろ、これからだ。
曹操は一度退いた。
だが、次に来る時は、今回の戦いで得た情報を持ってくる。
そして荊州そのものも、決して一枚岩ではない。
そんなことを考えていた時だった。
「延麒殿」
兵士が俺のもとへ駆けてきた。
「ご主君がお呼びです」
「何かあったのか?」
「それが……荊州から客人が来られたのことです」
「客人?」
「はい」
俺は首を傾げた。
そして領主館へ向かった。
◆
広間に入ると、劉備たちが揃っていた。
劉備。
関羽。
張飛。
趙雲。
諸葛亮。
龐統。
そして――
見慣れない若者が一人。
年の頃は、俺よりずっと若い。
落ち着いた衣服を身にまとい、姿勢を正して座っている。
だが、その表情には明らかな緊張があった。
「おぉ。延麒、来たか」
「はい。……こちらの方は?」
劉備が若者を見る。
「紹介しよう」
そして、その名を告げた。
「劉琦殿だ」
「……劉琦殿」
その名を聞いた瞬間、俺は言葉を失いかけた。
劉表の長子。
荊州刺史、劉表の嫡子。
歴史を知る俺にとって、その名前は決して知らないものではない。
だが――
俺の知っている歴史と、今ここにある現実は同じとは限らない。
俺は頭を下げた。
「初めてお目にかかります。劉延麒と申します」
「こちらこそ。劉琦です」
劉琦殿も頭を下げる。
声は穏やかだった。
だが、その目には不安が浮かんでいる。
「延麒殿」
諸葛亮が俺を見る。
「先ほどから、何か気になることでも?」
「……いえ」
俺は首を振った。
「ただ何故、劉琦殿がここまで来られた理由が気になりまして」
その言葉に、劉琦殿の表情が僅かに曇った。
劉備殿が静かに口を開く。
「それについて、今から話すところです」
そして劉備殿は、劉琦殿へ視線を向けた。
「劉琦殿。ここならば、誰にも遠慮する必要はありません」
「……はい」
劉琦殿は一度、深く息を吸った。
「劉備殿」
「うむ」
「お願いがございます」
広間の空気が変わった。
「私を……後見していただけないでしょうか」
張飛が眉を上げる。
「後見?」
劉琦殿は頷いた。
「はい」
「一体、何があったのです?」
劉備の声は静かだった。
劉琦殿はしばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように言う。
「父上との間に……少し、距離ができております」
俺は黙って聞いていた。
「以前は、父上のもとで政務を学ばせていただいておりました。しかし」
「しかし?」
「最近は、そうした機会が減りました」
劉琦殿は俯く。
「私には、その理由が分かりません」
関羽が腕を組む。
「それだけで後見を願うほどのことなのか?」
「……分かりません」
劉琦殿は正直に答えた。
「ですが、私は恐れております」
その言葉に、全員の視線が集まる。
「何を?」
趙雲が尋ねた。
「自分が、荊州にとって必要のない存在になることをです」
静かな声だった。
「父上のそばにいることすら難しくなれば……私は、何を頼りにすればいいのでしょうか」
張飛が珍しく口を挟まなかった。
劉琦殿の言葉には、それだけの重さがあった。
俺は彼を見る。
この時代の荊州。
その中心にいる劉表。
そして、その後継を巡る問題。
歴史を知る俺には、その先に起きることの一端が見えている。
だが――
今の俺には、まだ断定できない。
歴史と同じになるとは限らないからだ。
「劉琦殿」
俺は口を開いた。
「一つ、お聞いてもよろしいでしょうか」
「はい」
「なぜ、劉備殿なのですか?」
劉琦殿は少し考えた。
「劉備殿は、私の父上と同じ漢室の血を引く方です」
「……」
「そして、父上が信頼している方でもあります」
劉琦殿は続ける。
「それに――」
一瞬、言葉を止める。
「新野を守った方だからです」
俺は黙った。
「曹操の軍が攻めてきたと聞きました」
劉琦殿の視線が俺に向く。
「その中で、劉備殿は兵を守り、新野を守られた」
「それは皆の力です」
劉備殿が答える。
「それでもです」
劉琦殿は言った。
「私は、劉備殿ならば……私を利用するのではなく、守ってくださるのではないかと思いました」
その言葉に、劉備殿はしばらく黙っていた。
やがて――
「劉琦殿」
「はい」
「私は、そなたの父君と争うつもりはありません」
「……はい」
「だからこそ、そなたの後見を引き受けることが、何を意味するのかを考えなければならない」
劉備殿は真っ直ぐに劉琦殿を見る。
「そなたを守ることが、劉表殿との関係を壊すことになってはならぬのです」
「……」
劉琦殿は黙って頭を下げた。
「承知しております」
その時だった。
諸葛亮が静かに口を開いた。
「劉琦殿」
「はい」
「あなたが求めているのは、軍事的な後見ですか。それとも、政治的な後見ですか?」
劉琦殿は答えに詰まった。
「……分かりません」
「ならば、まずそこから考える必要があります」
諸葛亮の言葉に、龐統も頷く。
「後見という言葉は実に重い言葉です。貴殿を守るということは、その者の敵をも引き受けることになる」
劉琦殿の顔が強張った。
俺も同じことを考えていた。
これは単なる親子の問題ではない。
荊州の後継問題に繋がる可能性がある。
そして、その問題に劉備が関われば――
荊州の勢力図そのものが変わる。
「延麒」
劉備が俺を見る。
「お前はどう思う?」
「……難しい問題ですね」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「劉琦殿を守ること自体は悪いことではありません」
「うむ」
「ですが、劉表殿との関係を考えれば、すぐに表立って後見人を名乗るのは避けたほうがいいと思います」
張飛が眉を寄せる。
「じゃあ、どうする?」
「まずは劉琦殿との関係を築き」
俺は答えた。
「それから、劉表殿とも話をする」
関羽が頷く。
「筋は通っている」
劉備殿も考え込む。
しばらくして――
「劉琦殿」
「はい」
「劉琦殿の願いを、私は軽く扱うつもりはありません」
劉備が立ち上がった。
「だが、私はそなたの父君に無断で、その立場を奪うような真似もしたくない」
「……はい」
「だから、しばらくここに滞在するといい」
劉琦殿が顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「もちろんだ」
劉備は微笑んだ。
「劉琦殿が何を望んでいるのか。何を恐れているのか。それを私も知りたい」
「ありがとうございます……!」
劉琦殿が深く頭を下げる。
その姿を見ながら、俺は胸の奥に重いものを感じていた。
歴史を知っている。
だからこそ、分かる。
この人物を巡って、荊州の情勢は大きく動く。
だが――
俺はもう、過去の歴史をそのままなぞっているわけではない。
新野の戦いも。
曹操軍の撤退も。
劉表殿との会談も。
そして、今の劉琦殿の来訪も。
俺が知っている歴史には存在しない出来事だ。
「……また、歴史が変わった」
俺は小さく呟いた。
「何か言ったか?」
趙雲がこちらを見る。
「いえ」
俺は首を振る。
「これから起こることを、もっと慎重に考えないといけないと思っただけです」
俺は劉琦殿を見る。
彼はまだ知らない。
自分が今、荊州という巨大な政治の渦の中心へ足を踏み入れたことを。
そして俺もまだ知らない。
この出会いが――
やがて、荊州だけではなく、劉備軍そのものの運命を変えることになるとは。




