第11話 荊州の思惑――蔡家の影
劉琦殿が新野を訪れてから、数日が経った。
俺たちは、まだ結論を出していなかった。
劉備殿も、すぐに後見を引き受けるとは言わなかった。
それは当然だ。
劉琦殿は、荊州刺史である劉表殿の嫡子。
その後見を劉備殿が公然と引き受ければ、劉表殿との関係そのものに影響する。
だからこそ――
俺たちはもう一度、劉表と話をすることにした。
今回の目的は、劉琦殿の後見を願い出ることではない。
もっと重要なことがある。
劉表殿が、息子である劉琦殿をどう考えているのか。
そして――
なぜ劉琦殿が、父親ではなく劉備殿を頼らなければならなくなったのか。
◆
「延麒」
出発前。
劉備が俺に声をかけてきた。
「はい」
「この話、どう進めればよいかのう?」
「まだ何とも言えません」
「そうか」
「ですが、一つ気になることがあります」
「何だ?」
俺は少し考えてから答えた。
「劉琦殿は、自分が父君から遠ざけられている理由を知らないと言っていました」
「うむ」
「それが本当なら、劉表殿本人の意思なのか、それとも周囲の人間が何かを吹き込んでいるのか。それを確かめたいところです」
劉備の表情が険しくなる。
「周囲の者……」
「はい」
「誰を疑っている?」
「まだ、誰とも言えません」
俺は首を振った。
「ただ、劉表殿の周囲には多くの家臣がいます。その中には、荊州で大きな力を持つ一族もいます」
劉備は黙って俺を見る。
「延麒」
「はい」
「慎重に動こう」
「もちろんです」
俺は頷いた。
「これは戦場とは違う」
「承知しております」
俺は苦笑する。
「戦場なら、敵がどこにいるか分かりますから」
「……違いない」
劉備が僅かに笑った。
だが、その目は真剣だった。
俺たちは新野を出発した。
◆
襄陽。
荊州の中心とも言える場所。
城へ近づくにつれ、俺は周囲を見回した。
人の往来が多い。
商人。
兵士。
役人。
そして、様々な家の者たち。
新野とは違う。
ここには、人の数だけ思惑がある。
俺はそれを肌で感じていた。
やがて俺たちは、劉表殿のもとへ通された。
広間には、すでに数人の重臣がいた。
その中に、一人の男がいる。
落ち着いた表情。
整った身なり。
こちらを見つめる目には、隙がない。
「こちらは蔡瑁だ」
劉表殿が紹介する。
「荊州の水軍を預かっている」
「新野太守 劉備ですご無沙汰しております。蔡瑁殿」
「お久しゅうございます、玄徳殿」
蔡瑁が頭を下げる。
続いて、俺にも視線を向けた。
「そして……そちらが劉延麒殿ですかな」
「はい。お初にお目にかかります、蔡瑁殿。
殿から劉の姓を賜り劉延麒と申します。」
「新野で曹操軍を退けた軍師と聞いております」
「軍師というほどのものではありません」
「何を謙遜なさる」
蔡瑁は微笑んだ。
だが、その笑顔からは感情が読み取りにくかった。
俺も拱手の礼を取りながら頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
短い挨拶。
それだけだった。
だが――
俺は、この男の目が一瞬だけ鋭くなったのを見逃さなかった。
劉表殿が口を開く。
「今日は何の用かな?」
劉備殿が答える。
「劉琦殿のことでございます」
その瞬間。
蔡瑁の表情が、ほんの僅かに変わった。
目線が劉備から外れる。
俺は黙ってそれを見ていた。
「琦のことか」
劉表殿が言う。
「はい」
劉備は慎重に言葉を選んだ。
「先日、劉琦殿が新野を訪れました」
「聞いている」
「そして、私に後見を願い出られました」
広間の空気が変わった。
劉表殿は黙っていた。
蔡瑁も口を閉ざしている。
「劉琦殿は、父君との間に距離ができていると話されました」
劉備が続ける。
「私は、その理由を知りたいのです」
「……」
劉表殿は深く息を吐いた。
「玄徳」
「はい」
「琦は、少し思い込みが強いところがある」
「思い込み、ですか?」
「そうだ」
劉表殿は頷く。
「私は琦を嫌っているわけではない」
「では、なぜ政務から遠ざけられたのでしょう?」
劉備殿の問いに、劉表殿はすぐには答えなかった。
その沈黙が、俺には気になった。
「荊州を預かる者として、後継のことを考えねばならぬ」
やがて劉表殿が言った。
「そのためには、琦にも学ばせる必要があると思っている」
「ならば――」
俺は口を挟む。
「なぜ、その機会が減っているのでしょうか?」
劉表殿の視線が俺に向いた。
「延麒殿」
「はい」
「そちは、何を疑っている?」
「疑っているわけではありません」
俺は答える。
「ただ、事実を確認したいだけでございます」
蔡瑁が口を開いた。
「劉琦殿には、まだ経験が不足しております」
「それならばなおのこと今、経験をさせておくべきなのでは?
何故そのご機会が減っておられるのでしょう?」
俺は蔡瑁を見る。
「それは、、、」
一瞬。
広間の空気が止まった。
蔡瑁は穏やかな表情を崩さない。
「荊州の政務を預かる者たちが、そう判断しております」
「なるほど」
俺は頷いた。
だが、その答えでは疑問が増えただけだった。
劉琦殿本人が、自分の立場を理解できていない。
劉表殿は、彼を嫌っているわけではないと言う。
しかし、政務から遠ざけられている。
そして、その判断をする周囲の人間がいる。
その中心に――
蔡瑁がいる。
俺は心の中で整理する。
まだ、蔡家が劉琦殿を追い落とそうとしていると断定することはできない。
だが。
何かがある。
そう感じていた。
「玄徳」
劉表殿が言った。
「そなたは、琦の後見を引き受けるつもりか?」
劉備はすぐには答えなかった。
「まだ決めかねております。」
「そうか」
「私は、劉琦殿を利用するつもりはありません」
劉備は真っ直ぐに劉表殿を見る。
「ですが、助けを求めてきた者を無下にするつもりもありません」
劉表殿は黙っている。
蔡瑁も何も言わない。
やがて――
「琦を頼む」
劉表殿が言った。
俺は思わず顔を上げた。
「……よろしいのですか?」
劉備が尋ねる。
「そなたが後見人になることを認めたわけではない」
劉表殿は静かに言った。
「だが、琦がそなたを頼ったのなら、
しばらくの間はそなたのもとに置くのもよかろう」
意外な答えだった。
劉琦殿を手放す。
そう聞こえなくもない。
だが――
俺には別の意味にも思えた。
劉表殿自身が、何らかの事情で息子を手元に置きづらくなっているのではないか。
「承知致しました」
劉備が頭を下げる。
会談は、それ以上大きく動くことなく終わった。
◆
襄陽を出て、新野へ戻る道中。
俺と劉備は馬を並べていた。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
先に話したのは劉備殿だった。
「どう思う?」
「……何かありますね」
「やはりそう思うか」
「はい」
俺は頷いた。
「劉表殿が劉琦殿を嫌っているようには見えませんでした」
「私も同じだ」
「ですが、劉琦殿は何者かによって父君から遠ざけられていると思われます。」
「うむ」
「しかも、その理由を本人が知らない」
俺は振り返る。
遠ざかっていく襄陽を見る。
「そして、劉表殿の側には蔡瑁殿がいる」
劉備殿が眉を寄せる。
「蔡瑁を疑っているのか?」
「まだ、何も分かりません」
俺は即座に否定した。
「ですが、劉琦殿を巡って、蔡家や他の家臣の方からの何らかの思惑を持っている可能性は考えておいたほうがいいと思います」
「何のために?」
「それが分からないんです」
俺は答えた。
「ただ……」
「ただ?」
「もし、劉琦殿を遠ざけることで誰かが利益を得るなら、その人物は誰なのか」
劉備が黙り込む。
俺は続ける。
「そこを調べる必要があります」
「しかし、どうやって?」
「まず、人を見ることです」
「人?」
「劉表殿の周囲にいる者たちが、劉琦殿についてどう話しているのか」
俺は言った。
「誰が劉琦殿を評価し、誰が否定しているのか。
それを見れば、何か見えてくるかもしれません」
劉備は頷いた。
「なるほど」
そして、しばらくしてから口を開く。
「延麒」
「はい」
「もし本当に蔡家が劉琦殿を追い落とそうとしているのなら、どうする?」
俺はすぐには答えなかった。
俺の知っている歴史。
荊州。
劉表。
劉琦。
そして、その後に起きる出来事。
だが――
今はまだ、歴史通りではない。
「まず、証拠を集めます」
俺は答えた。
「確証がないまま動けば、こちらが荊州の内紛に巻き込まれます」
「そうだな」
「劉琦殿を守ることと、蔡家を敵に回すことは別です」
劉備が頷く。
「分かった」
俺たちは、そのまま新野への道を進んだ。
だが。
俺の頭から、蔡瑁の表情が離れなかった。
あの男は、劉琦殿の名前が出た瞬間――
ほんの僅かに目を逸らした。
偶然かもしれない。
単なる反応かもしれない。
だが、戦場でもそうだった。
小さな違和感を見逃せば、大きな損失につながる。
俺はもう一度、襄陽の方角を見る。
「……荊州は、戦場だけじゃないな」
「どうした?」
劉備が聞き返す。
「いえ」
俺は首を振った。
「これからは、人の動きも見ないといけないと思っただけです」
曹操の軍は退いた。
だが、荊州の中では別の戦いが始まっている。
剣も槍も必要ない。
ただ一言。
ただ一つの判断。
それだけで、人の立場が変わる。
そして――
その背後に、誰かの思惑が潜んでいる。
俺はまだ、その全貌を知らない。
ただ一つだけ分かっている。
劉琦殿を巡る問題は――
単なる親子の問題ではない。クリップをタップすると、テキスト ボックスに貼り付けられます。
荊州そのものを揺るがす、政治の火種になりつつあった。




