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元自衛官の俺、蜀漢の「詰み」を回避する―  作者: 岡崎 隆幸


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第12話 蔡家の企み――劉琮を巡る思惑



 劉表殿との会談から、数日が過ぎた。

 俺は、あの時に感じた違和感を忘れられずにいた。

 蔡瑁。


 そして――

 劉琦殿。

 劉表殿は、劉琦殿を嫌っているわけではないと言った。

 だが、劉琦殿は父から遠ざけられている。

 その理由を、本人すら知らない。

 ならば。

 誰かが動いている可能性がある。

 俺は劉備に、そのことを伝えた。

「延麒」

「はい」

「確かめたいのだな?」

「はい」

 劉備はしばらく考えた。

 やがて、側に控えていた一人の男へ視線を向ける。

「頼めるか?」

「お任せください」

 男は深く頭を下げた。

 劉備軍が密かに抱えている細作の一人だった。

 戦場で敵情を探るだけではない。

 商人や旅人に身を変え、町の噂や人の動きを探ることも役目としている。

「探ってほしいのは蔡家だ」

 俺は言った。

「ただし、蔡瑁だけを見る必要はない」

「承知しております」

「劉表殿の妻、蔡氏についても調べてくれ」

「蔡氏様を?」

「ああ」

 俺は頷く。

「そして、劉琮殿についてもだ」

「分かりました」

「だが、無理はするな」

 俺は念を押す。

「証拠を掴むことが目的だ。危険を冒してまで深く入り込む必要はない」

「承知しました」

 細作は一礼すると、部屋を出ていった。

 俺は、その背中を見送る。

 これで何か分かるとは限らない。

 それでも――

 今は、調べるしかない。


         ◆


 数日後。

 夜半。

 俺が領主館で書類を整理していると、控えめな声がした。

「延麒殿」

「入れ」

 扉が開く。

 先日の細作だった。

 だが、その顔には緊張が浮かんでいる。

「ご報告がございます」

「聞こう」

 細作は周囲を確認してから、静かに口を開いた。

「蔡家は、劉琦殿を次の後継者にすることを望んでいないようです」

 俺の手が止まった。

「……やはりか」

「はい」

「根拠は?」

「襄陽の蔡家と関わりの深い者たちの間で、劉琦殿について悪い噂が流されています」

「どんなものだ?」


「政務の経験が足りない。人をまとめる器ではない。荊州を任せるには不安がある――そういった話です」

 俺は黙って聞く。

「一方で?」

「劉琮殿については、別の話が広がっています」

「どんな話だ?」

「幼いながらも素直で、周囲の意見をよく聞く。蔡氏殿の血を引くこともあり、荊州の有力者たちとも関係を築きやすい――そういう評判です」

 俺は目を細めた。

「蔡氏本人は?」

「劉琮殿を次の世継ぎにしたいと考えているようです」

 その言葉に、俺は息を吐いた。

「……やはり、そこか」

「さらに」

 細作が続ける。


「蔡氏殿は、劉表殿の周囲にいる者たちにも、劉琮殿を後継者とすることが望ましいという話をしているようです」

「蔡瑁は?」

「露骨には口にしていないようです」

「だが?」

「蔡氏殿の動きを止めている様子はありません」

 俺は腕を組む。


 つまり――

 蔡氏が前面に立っている。

 そして蔡瑁も、それを黙認している可能性が高い。

「劉表殿本人は?」

「そこまでは分かりません」

「そうか」

「ただ、蔡氏殿が劉表殿の近くにいる時間が増えていることは確認できています」

 俺は黙り込んだ。

 これだけでは、まだ劉表殿が劉琮を後継にすると決めたとは言えない。


 しかし。

 蔡家が劉琮を後継にするために動いている。

 そのことは、ほぼ間違いない。

「よくやった」

 俺は細作を見る。

「この件は、誰にも漏らすな」

「承知しました」

「今後も蔡家の動きを探ってくれ」

「はい」

 細作が退室する。


 俺は一人になった部屋で、しばらく動けなかった。

 劉琦。

 劉琮。

 そして蔡家。

 歴史の記憶が、頭をよぎる。


 だが――

 俺はすぐに、その考えを打ち消した。

 知っている歴史と、今の現実を混同してはいけない。

 今ここで必要なのは、歴史の答えではない。

 目の前にある事実だ。


         ◆


 翌日。

 俺は劉備のもとへ向かった。

 部屋には劉備だけでなく、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮、龐統もいた。

「延麒、何か分かったのか?」

 劉備が尋ねる。

「はい」

 俺は席についた。

「蔡家について、細作から報告がありました」

 全員の表情が変わる。

「話してくれ」

「蔡家は、劉琦殿を次の後継者にすることを望んでいません」

 劉備の眉が動いた。

「やはりか……」

「そして」

 俺は続けた。

「蔡氏殿は、劉琮殿を次の世継ぎにしようと動いているようです」

 張飛が低く唸る。

「劉琮を?」

「はい」

 関羽が腕を組む。

「蔡氏が動いているのか」

「はい。ですがそれだけではありません」

 俺は答えた。

「蔡氏殿は、劉琮殿を後継者にすることが望ましいと、周囲の者たちにも話しているようです」

 諸葛亮が目を細める。

「なるほど」

 龐統も静かに頷いた。

「つまり、すでに後継争いを見据えて動いているわけですな」

「その可能性が高いと思います」

 劉備は黙っていた。

「延麒」

「はい」

「劉表殿は?」

「そこが分かりません」

 俺は首を振った。

「蔡氏殿が劉琮殿を推していることは分かりました。しかし、劉表殿本人がどう考えているのかまでは掴めていません」

「ならば」


 関羽が言う。

「すぐに劉表殿へ知らせるべきではないか?」

 俺は首を横に振った。

「まだ早いと思います」

「なぜだ?」

「証拠が足りません」

 俺は答える。

「蔡氏殿が劉琮殿を後継者にしたいと考えていることと、劉表殿がそれを認めていることは別です」

 諸葛亮が頷く。

「確かに」

「それに」

 俺は続ける。


「今の段階で劉表殿に蔡家の動きを伝えれば、逆にこちらが疑われる可能性があります」

「我らが蔡家を疑わせようとしている、と?」

「はい」

 龐統が口を開いた。

「それに、蔡家が本当に後継争いを仕掛けているのなら、こちらが騒げば相手も動きを変えるでしょうな」

「そういうことです」

 俺は頷いた。


「今は、こちらが何も知らないと思わせておいた方がいい」

 張飛が腕を組む。

「じゃあ、どうする?」

「劉琦殿を守りましょう」

 俺は答えた。

「そして、蔡家の動きをさらに探る」

「それだけか?」

「もう一つ」

 俺は劉備殿を見る。


「劉表殿との関係を壊さないことです」

 劉備殿は静かに頷いた。

「うむ」

「曹操がいつ再び南下してくるか分かりません」

 俺は地図を見る。

「そんな時に、荊州の内部で争いが起きれば、曹操に付け入る隙を与えることになります」

 諸葛亮が地図へ目を落とす。

「つまり、後継争いに直接介入するのではなく、劉琦殿を保護しながら情勢を見極める」

「はい」

 俺は頷いた。


「劉琦殿が劉備殿を頼っている以上、こちらが守る姿勢を見せるだけでも、蔡家は警戒するでしょう」

 龐統が腕を組む。

「ならば、我々が劉琦殿を政治の道具にしないことも重要ですな」

「その通りです」

 俺は答えた。


「劉琦殿自身が、自分の意思で立場を決められるようにするべきだと思います」

 劉備が深く頷いた。

「私もそう思う」

 そして、しばらく考えた後。

「では、今は動かぬ」

「はい」

「琦を新野に置く」

「それがいいと思います」

「そして、蔡家の動きを探る」

 俺は頷く。

「ただし、こちらから敵意を見せない」

「分かった」

 劉備が全員を見る。

「この件は、ここにいる者だけの秘密とする」

 関羽たちが頷いた。

「承知しました」


         ◆


 会議が終わった。

 俺は一人、領主館の外へ出た。

 空を見上げる。

 雲が流れている。

 新野の戦場で敵と戦った時とは違う。

 今度の敵は、姿を見せない。

 剣を持って襲ってくるわけでもない。

 人の心を動かし。

 噂を流し。

 人間関係を利用する。

 それによって、次の世継ぎを変えようとしている。

「……蔡家か」

 俺は小さく呟いた。

 だが、まだ決めつけてはいけない。

 蔡氏が劉琮を後継にしたいと思っている。

 蔡瑁も、その動きを止めていない。

 そこまでは分かった。


 だが――

 劉表殿が、何を考えているのか。

 それがまだ見えない。

 俺は地図を思い浮かべる。

 新野。

 襄陽。

 そして、その間にある無数の思惑。

 曹操の軍との戦いは、兵と兵の戦いだった。

 しかし荊州で始まった戦いは違う。

 誰が味方なのか。

 誰が敵なのか。

 それすら、簡単には分からない。

 そして俺は、まだ知らない。


 この後継争いが――

 やがて荊州そのものの運命を大きく変えることになるとは。

 俺は静かに拳を握った。

「……歴史を知っているからこそ、慎重にならないとな」

 知識だけでは、未来は変えられない。

 目の前にある現実を見て、考え、選ばなければならない。


 それが――

 この時代を生きるということなのだから。

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