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元自衛官の俺、蜀漢の「詰み」を回避する―  作者: 岡崎 隆幸


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第13話 劉表の病――揺れ始める荊州



 蔡家の動きを探り始めてから、しばらく経った。

 だが、俺たちは政治のことばかり考えていたわけではない。

 新野を守るためには、兵だけでは足りない。

 兵が暮らし、戦うための土地そのものを整える必要がある。

 そのため俺は、諸葛亮と龐統を交え、新野の開発について話し合っていた。

「この辺りの土地は、まだ使えると思います」

 俺は地図を広げた。

「ただ、今のままでは水が安定しません。雨が降れば水が溜まり、逆に雨が少なければ畑が乾く」

 諸葛亮が地図を覗き込む。

「水路を整えましょう」

「はい」

 俺は頷いた。

「大規模な工事を一度にするのではなく、まずは小さな水路を繋げていく。

雨が多い時には余分な水を逃がし、少ない時には水を引けるようにします」

 龐統が腕を組んだ。

「戦のためだけではない、と?」

「そうです」

 俺は答えた。

「兵糧や食糧を安定させるためです」

 兵を増やしても、食わせられなければ意味がない。

 戦が続けば、兵糧の確保がそのまま軍の強さになる。

「それと、堆肥についても試したい」

「肥を?」

「はい。家畜の糞や藁などを腐らせ、土に戻すんです」

 諸葛亮が興味深そうに目を細めた。

「土を肥やすということですね」

「そうです。ただし、量や作り方は試しながら決めます」

 龐統が地図から顔を上げる。

「なるほど。戦の備えとは、兵を鍛えることだけではない」

「その通りです」

 俺は頷いた。

「食糧が増えれば、兵を維持できる。兵を維持できれば、新野を守れる」

 諸葛亮が静かに笑った。

「延麒殿らしい考えですな」

「俺は軍人でしたから」

「軍人だからこそ、戦わぬための準備を考えるのでしょう」

 その言葉に、俺は少し黙った。

 確かにそうかもしれない。

 戦場に立っていた時、いつも考えていた。

 どうすれば負傷者を減らせるか。

 どうすれば補給を切らさずに済むか。

 どうすれば、生きて帰れる人数を増やせるか。

 戦争というものは、戦場だけで決まるものではない。

 その前から始まっている。


 そして――

「延麒殿」

 不意に、諸葛亮の声がした。

「はい?」

「この水路を作るには、人手が必要になります」

「ええ」

「兵を使いますか?」

「できるだけ民の生活を圧迫しない形にしたいと思っています」

 俺は答えた。

「兵には防衛と訓練があります。

だから、工事をするなら農民にも参加してもらい、その分の食糧や道具をこちらから出す」

 龐統が頷く。

「民を守るための工事に、民自身を参加させる」

「ただ働きをさせるつもりはありません」

 俺ははっきりと言った。

「新野を守るための工事なら、その恩恵を受けるのも新野の民です」

 諸葛亮はしばらく黙って地図を見ていた。

「……悪くありません」

 その時だった。

 外から足音が聞こえた。

 慌ただしい。

 俺たちは顔を見合わせた。

「誰だ?」

 龐統が声を上げる。

「延麒殿!」

 扉の向こうから男の声がした。

「入れ。どうした?」

 扉が開く。

 そこにいたのは、劉備軍の細作だった。

 息を整えながら、俺たちを見る。

「ご、ご報告があります!」

「何があった?」

 俺が尋ねる。

 細作は一度、諸葛亮と龐統を見る。

「襄陽から入った情報です」

 その一言で、空気が変わった。

「劉表殿が――」

 細作は声を落とした。

「お身体を崩されたとのことです」

「……劉表殿が?」

 俺は立ち上がった。

「どの程度だ?」

「詳しい病状までは分かりません。ただ、ここ数日の間に体調が急に悪化したという話が出ています」

 諸葛亮が静かに問う。

「それは確かな情報ですか?」

「複数の者から同じ話を確認しております」

 細作は答えた。

「襄陽では、劉表殿の病について話す者が増えているようです」


 俺は唇を結んだ。

 嫌な予感がする。

 いや。

 予感ではない。

 今の荊州にとって、劉表殿の病はあまりにも大きな意味を持つ。

 劉琦。

 劉琮。

 蔡家。

 そして、劉備。

 そのすべてが繋がっている。

「劉備殿に知らせる」

 俺は言った。

「すでに向かっております」

 細作が答えた。

「では、俺も行く」

 諸葛亮が顔を上げる。

「延麒殿」

「はい」

「私と龐統は?」

「新野に残ってください」

 俺は即答した。

「開発を止めるわけにはいきません。それに、二人には新野の状況を見ていてほしい」

 龐統が頷いた。

「襄陽では、政治が動く」

「そう思います」

 諸葛亮が地図へ目を落とす。

「ならば、こちらはこちらで備えておきましょう」

「お願いします」

 俺は頭を下げた。

 そして、急いで劉備殿のもとへ向かった。


         ◆


 領主館に着くと、すでに劉備が立っていた。

 その隣には趙雲がいる。

「延麒」

「劉表殿の件、お聞きました」

「ああ」

 劉備殿は静かに頷いた。

「見舞いに行く」

「俺も同行します」

 俺は答えた。

 劉備殿は一瞬だけ俺を見る。

「よいのか?」

「今の荊州の状況を考えれば、直接この目で確かめる必要があります」

 劉備は頷いた。

「分かった」

 趙雲が一歩前へ出る。

「私も同行いたします」

「頼む」

 劉備が答えた。

 俺たちはすぐに出発の準備を整えた。

 同行するのは、劉備殿、俺、趙雲。

 大人数で動けば、かえって周囲を警戒させる。

 今回は見舞いだ。

 戦に行くわけではない。


 だが――

 俺は馬に乗りながら、どうしても考えてしまう。

 劉表殿の病。

 それが事実なら、荊州の時間は一気に動き始める。

 そして今まで水面下にあった後継争いも、表へ出てくるかもしれない。

「延麒」

 隣から劉備殿の声がした。

「はい」

「何を考えている?」

「……劉表殿のことです」

「そうか」

 劉備は前を見たまま言った。

「私も同じだ」

 しばらく沈黙が続いた。

「もし、病が重ければ」

 劉備が続ける。

「荊州はどうなると思う?」

 俺はすぐには答えなかった。

 知っている歴史なら、答えはある。

 だが、それをそのまま口にすることはできない。

「まだ分かりません」

 俺は答えた。

「ただ、今まで以上に慎重に動く必要があります」

「うむ」

「蔡家も動くでしょう」

 劉備の表情が険しくなる。

「劉琦殿のことか」

「はい」

 趙雲も黙って聞いている。

「ですが、今の段階で誰かを敵と決めるべきではありません」

「分かっている」

 劉備は答えた。

「我らは劉表殿の客人でもある。病に乗じて何かを企てるつもりはない」

「その姿勢を見せることが大切だと思います」

 俺は頷いた。

「まずは見舞う。それだけです」

 趙雲が口を開いた。

「そして、劉表殿の口から話を聞く」

「そうだ」

 劉備が頷く。

 俺は前方を見る。

 遠くに襄陽へ続く道が見えてきた。


 だが――

 その先に待っているのは、ただの病人への見舞いではない。

 荊州の未来そのものが、静かに揺れ始めている。


         ◆


 夕刻。

 俺たちは襄陽へ入った。

 城内には、いつもとは違う緊張が漂っていた。

 人々の声が小さい。

 役人たちも慌ただしく動いている。

 劉備は周囲を見回した。

「……やはり、噂だけではないようだな」

「はい」

 俺も頷いた。


 趙雲は周囲を警戒している。

 やがて、劉表殿の屋敷へ到着した。

 門前には数人の家臣が立っていた。

 俺たちを見ると、一人が近づいてくる。

「劉備殿」

「劉表殿のご様子は?」

 劉備が尋ねる。

 家臣は一瞬、言葉を選んだ。

「……お休みになっております」

「お会い出来ますか?」

「しばしお待ちください」

 その言葉を聞いた瞬間。

 俺は胸の奥に、重いものを感じた。

 劉表殿は生きている。


 だが――

 その身体は、明らかに以前とは違う。

 そして、この病が本当なら。

 荊州の後継争いは、もう水面下だけでは済まなくなる。

 俺は劉備の横に立った。

 やがて案内役の家臣が戻ってくる。

「劉備殿。お通りください」

 劉備が頷いた。

 俺と趙雲も続く。

 重い扉が開かれる。


 その先に――

 病床に伏す劉表殿の姿があった。

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