第14話 劉表の病――荊州の行く末
重い扉の向こう。
そこには、以前会った時とは別人のような劉表殿がいた。
寝台に横たわり、顔色も悪い。
以前と同じように威厳は失われていない。
だが、その身体からは明らかに力が抜けていた。
「劉表殿……」
劉備が静かに声を掛ける。
劉表がゆっくりと目を開けた。
「……劉備か」
「はい。お身体の具合はいかがですか?」
「見ての通りだ」
劉表は苦笑した。
「少しばかり、身体が言うことを聞かなくなってきた」
「ご無理をなさらぬように」
劉備が頭を下げる。
俺と趙雲も続いて礼をする。
「延麒も来てくれたか」
「はい」
俺は一歩前へ出た。
「ご病状を伺い、心配になりまして」
「そうか……」
劉表は俺を見る。
「新野の様子はどうだ?」
「少しずつですが、整えております」
「戦の準備か?」
「それもありますが」
俺は答えた。
「それよりも、農地や水路の整備も進めています」
「農地を?」
「はい。兵を養うには、まず民の暮らしを安定させる必要があります」
劉表はしばらく俺を見つめた。
「相変わらず、戦そのものより、その前後を考えているようだな」
「戦を避けるためにも必要なことだと思っています」
「なるほど」
劉表は小さく頷いた。
だが、その表情からすぐに笑みが消えた。
「……しかし」
低い声が部屋に響く。
「今の荊州にとって、問題は曹操だけではない」
俺は黙って劉表殿を見る。
劉備も何も言わない。
「私がこのまま病に伏せることになれば……
荊州の中で、様々な思惑が動き始める」
その言葉に、俺の胸がざわついた。
やはり。
劉表殿自身も分かっている。
「後継のことですか?」
劉備が尋ねた。
劉表はしばらく目を閉じた。
「……そうだ」
静かな声だった。
「劉琦と劉琮」
二人の名が出た。
「どちらも私の子だ」
「はい」
「だが、私がいなくなった後の荊州を考えれば、簡単には決められぬ」
俺は劉表の言葉を聞きながら、蔡家の報告を思い出していた。
蔡氏。
劉琮。
そして劉琦。
劉表はまだ、誰か一人に決めてはいない。
少なくとも、今の言葉からはそう見える。
「劉琦は……」
劉表が続ける。
「真面目な子だ」
その声には、父親としての感情が滲んでいた。
「だが、考えすぎるところがある」
「……」
「人の言葉を深く受け止めすぎる」
俺は黙って聞いた。
「劉琮殿は?」
劉備が尋ねる。
「劉琮は素直だ」
劉表殿は答えた。
「人の話をよく聞く。周囲に馴染むのも早い」
俺の中で警戒心が強くなる。
それは、先日の細作の報告と重なる。
だが、劉表殿はそれ以上を語らない。
「しかし」
劉表が言葉を続けた。
「後継者を決めるということは、その者だけの問題ではない」
「荊州全体の問題……ですね。」
俺が呟く。
「そうだ」
劉表が頷いた。
「荊州には、多くの家がある。多くの役人がおり、多くの兵がおる」
その目が鋭くなる。
「誰を立てるかによって、その者たちの立場も変わる」
俺は思わず尋ねた。
「……蔡家も、ですか?」
劉表の目が、わずかに動いた。
「蔡家だけではない」
静かな返答だった。
「だが、蔡家は荊州において力を持っている」
やはり。
劉表も蔡家の影を意識している。
「蔡瑁は、水軍のことをよく分かっている」
劉表が続ける。
「水軍を扱う力もある。蔡家と縁を持つ者も多い」
「……」
「そして、蔡氏は私の妻だ」
劉表の声に、わずかな苦さが混じった。
「妻の言葉を、私がすべて無視できるわけでもない」
俺は黙った。
それはつまり。
蔡氏が劉琮を推している可能性を、劉表殿自身も認識しているということなのか。
「劉表殿」
劉備が静かに口を開く。
「蔡氏殿は、劉琮殿を後継にと考えておられるのでしょうか?」
劉表はすぐには答えなかった。
「……女が子を案じること自体は、珍しいことではない」
曖昧な答えだった。
「だが」
劉表は目を開く。
「それと荊州の後継を決めることは、別の話だ」
俺はその言葉を聞き逃さなかった。
「ならば……」
俺が口を挟む。
「劉表殿ご自身は、まだ決めておられないのですね」
「ああ」
はっきりとした答えだった。
「まだ決めておらぬ」
俺は胸の中で息を吐いた。
細作の報告は間違っていない。
蔡氏は動いている。
しかし、劉表殿の意思までは決まっていない。
そこにはまだ、介入できる余地がある。
だが。
同時に、それは蔡家にとっても同じことだ。
「私は、蔡家を敵とは思っていない」
劉表が言った。
「だが、力を持つ家が一つの意向にまとまれば、それは無視できぬ力になる」
「……」
「だからこそ、私は慎重にならざるを得ない」
劉備が頷く。
「お考えは分かりました」
劉表はしばらく劉備の顔を見た。
「劉備」
「はい」
「私は、お前に頼みたいことがある」
「何なりと」
「劉琦を頼む」
その瞬間。
俺は息を止めた。
「劉表殿……」
「まだ後継を決めたわけではない」
劉表殿は念を押すように言った。
「だが、琦が孤立することだけは避けたい」
劉備殿は静かに頭を下げた。
「承知しました」
「そして」
劉表の視線が俺に向いた。
「延麒」
「はい」
「おぬしはどう見る?」
「何をでしょうか?」
「荊州の今後をだ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
ここで知っている歴史を話すことはできない。
ましてや、劉表の病床で未来を断言するなど危険すぎる。
「……今の荊州で、一番避けるべきなのは内部で争うことだと思います」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「曹操は一度、新野へ兵を送りました」
劉表が頷く。
「そして、いずれまた来るでしょう」
「そう思うか」
「はい」
俺は続ける。
「その時に荊州が一つにまとまっていなければ、曹操に対抗する前に内部から崩れる可能性があります」
劉表殿は黙って俺を見る。
「ならば、どうする?」
「まずは後継者を巡る争いを表面化させないことです」
俺は答えた。
「そして、劉琦殿と劉琮殿の双方を守る」
「双方を?」
「はい」
劉表がわずかに目を見開く。
「どちらか一方を敵に回せば、その者を支える者たちも敵になります」
俺は続ける。
「特に、蔡家のように力を持つ家がどちらか一方を強く支えるようになれば、兄弟の問題だけでは済まなくなります」
劉表殿は黙って俺を見た。
「……よく見ているな」
「警戒しているだけです」
「そうか」
劉表殿は小さく息を吐いた。
「ならば覚えておけ」
低い声だった。
「蔡家だけを見ていても、荊州のすべては見えぬ」
「はい」
「だが、蔡家を無視しても、荊州は見えぬ」
その言葉に、俺は目を伏せた。
それが劉表殿の本音なのだろう。
蔡家は敵ではない。
しかし、決して無視できる存在でもない。
「今はまだ、私がいる」
劉表は言った。
「だからこそ、誰にも荊州を割らせてはならぬ」
劉備が深く頭を下げる。
「承知しました」
「そして、私が生きている間は――」
劉表はそこで一度言葉を切った。
「劉琦と劉琮を争わせたくはない」
その言葉は、弱々しい病人のものではなかった。
荊州牧としての、最後の意志のように聞こえた。
その時だった。
劉表が小さく咳き込んだ。
「ご主君!」
外から慌てた声が聞こえる。
家臣が駆け寄る。
「大丈夫だ」
劉表は手を上げた。
「少し疲れただけだ」
だが。
俺には分かった。
その「少し」が、決して軽いものではない。
劉表の身体は、確実に弱っている。
そして。
この病が長引けば、後継を巡る動きはさらに激しくなる。
「今日はもう休まれた方がよろしいでしょう」
劉備が言う。
劉表は頷いた。
「そうだな。そうさせてもらおう」
劉備が立ち上がる。
「では、我らはこれで」
「ああ」
劉表は目を閉じた。
「劉備」
「はい」
「頼むぞ」
「……はい」
俺たちは静かに部屋を出た。
◆
廊下へ出ると、趙雲が小さく息を吐いた。
「かなりお悪いようですね」
「そうだな」
劉備が答える。
俺も頷いた。
「そして、劉表殿自身も後継の問題を理解している」
「うむ」
「ですが、まだ決めていないようでしたね」
俺が言う。
「ならば、これからが重要になるな」
劉備が静かに言った。
俺は歩きながら、先ほどの言葉を思い返していた。
――蔡家だけを見ていても、荊州のすべては見えぬ。
だが。
――蔡家を無視しても、荊州は見えぬ。
劉表は、蔡家の影を知っている。
そして蔡家もまた、劉表殿の病を無視することはできない。
俺は劉備を見る。
「劉備殿」
「何だ?」
「これからは、劉表殿の病だけでなく、蔡家の動きも注意して見た方がいいと思います」
劉備は頷いた。
「私もそう考えている」
趙雲が静かに口を開く。
「ですが、こちらから蔡家に手を出すべきではありませんな」
「はい」
俺は答えた。
「今はこちらから動かない。劉表殿がそう望んでいる間は、なおさらです」
劉備が足を止めた。
「延麒」
「はい」
「劉表殿は、我らに劉琦殿を託した」
「……はい」
「ならば、その信頼を裏切ってはならぬ」
俺は頷いた。
「分かっています」
襄陽の夜は静かだった。
だが、その静けさの下では。
劉琦。
劉琮。
蔡氏。
蔡瑁。
そして劉表。
それぞれの思惑が、少しずつ動き始めている。
新野では、水路を造り、農地を整えている。
だが、襄陽では別のものが動き始めていた。
人の思惑。
家同士の繋がり。
そして、後継者を巡る争い。
戦場なら、敵は見える。
だが、この戦いには敵の姿がない。
俺は静かに拳を握った。
――劉表殿の病。
それは、荊州の未来を大きく左右する。
そしてその背後には。
まだ姿を現していない、蔡家の影があった。




