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元自衛官の俺、蜀漢の「詰み」を回避する―  作者: 岡崎 隆幸


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第15話 劉表の死――揺れ始める荊州




 それから、数ヶ月が過ぎただろう。

 新野へ戻った俺たちのもとには、襄陽から絶えず情報が届いていた。

 劉表殿の病状は、少しずつ悪化していた。

 食事の量が減った。

 起き上がる時間が短くなった。

 そして、家臣との面会も次第に減っていった。

 俺は新野の館で、届いたばかりの書状を握りしめていた。


「……まだ、持ちこたえておられるか」

 劉備殿が尋ねる。

「はい」

 俺は答えた。


「ただ、昨日から容体がさらに悪化したようです」

 隣にいた趙雲が眉を寄せる。

「劉琦殿は?」

「襄陽に留まっています」

「蔡家は?」

 劉備の声が低くなった。

「目立った動きはありません」

「目立った動きは、か」

 劉備はその言葉を繰り返した。

 俺も同じことを考えていた。


 動いていないのではない。

 表に出していないだけかもしれない。

「細作には引き続き見張らせています」

「ああ。だが、決して無理はさせるな」

「承知しました」

 その時だった。


 外から馬の蹄の音が響いた。

 続いて、慌ただしい足音。

「延麒殿!」

 扉が開く。

 入ってきた細作の顔を見た瞬間、俺は悟った。


 ただ事ではない。

「何があった?」

「……襄陽から急報です」

 細作は息を整えながら答えた。

「劉表殿が――」

 一瞬、言葉を詰まらせる。

「先ほど、お亡くなりになりました」

 部屋の空気が止まった。

「……そうか」

 劉備が静かに目を閉じる。

 俺も言葉が出なかった。

 分かっていた。

 いずれ、この日が来ることは。


 だが。

 実際に聞くと、胸に重いものが落ちてくる。

「最期は?」

 劉備が尋ねる。

「家臣と身近な者たちに見守られていたとのことです」

 細作は続けた。

「ただ……」

「何だ?」

「劉表殿が亡くなられた直後から、襄陽の空気が変わり始めています」

 俺は顔を上げた。

「蔡家か?」

「はい」

 細作が頷いた。


「蔡瑁殿を中心に、複数の重臣が屋敷に集まっているようです」

「劉琦殿は?」

「それが……」

 細作が言葉を濁した。

「劉琦殿は、父君の死を知らされた直後から、蔡家側の動きを警戒しているようです」

 嫌な予感がした。


「劉琮殿は?」

「蔡氏殿のもとにおります」

 やはり。

 俺は静かに息を吐いた。

「劉表殿が亡くなった今、蔡家は動く」

 劉備が立ち上がった。

「延麒」

「はい」

「我々も襄陽へ向かう」

「ですが――」

 俺は言葉を選ぶ。


「今、我らが大軍を率いて襄陽へ入れば、劉琦殿を支援するために兵を動かしたと受け取られる可能性があります」

 劉備殿が黙った。

「ならば、どうする?」

「少人数で向かうべきです」

 俺は答えた。


「見舞いの時と同じです。まず状況を確認するのです。そして劉琦殿の安全を確保する」

「賛成です」

 声を上げたのは趙雲だった。

「軍勢を動かせば、それだけで敵意と受け取られかねません」

 劉備はしばらく考えた。

「……分かった」

 その時。


 俺はふと気づいた。

「諸葛亮殿と龐統殿には?」

「呼びますか?」

 趙雲が尋ねる。

「いや」

 俺は首を横に振った。

「二人には新野に残ってもらいます」

 劉備が俺を見る。

「なぜだ?」

「荊州が揺れるなら、新野まで不安定になる可能性があります」

 俺は地図を広げた。

「ここを空にするわけにはいきません」

 諸葛亮と龐統。

 二人には、新野というもう一つの戦場を任せる必要がある。

「それに」

 俺は続けた。

「今後、襄陽から人が流れてくる可能性があります」

「避難民か」

「はい」

 劉備の表情が険しくなる。

「分かった。新野を頼む」

 俺は頷いた。

 そして、劉備殿、趙雲、俺の三人は再び襄陽へ向かった。


         ◆


 襄陽へ近づくにつれ、町の様子がおかしいことに気づいた。

 門の周辺には、普段より多くの兵がいる。

 通りを行き交う人々の顔にも、不安が浮かんでいた。

 劉表殿が亡くなった。

 その事実は、すでに城内だけではなく、民にも広がっている。

「劉備殿」

 門前で一人の役人が駆け寄ってきた。

「お待ちしておりました」

「何が起きている?」

 劉備が尋ねる。

 役人は周囲を見回してから声を落とした。

「重臣たちの間で、意見が割れております」

「後継のことか」

「はい」

 俺の胸が重くなる。

「劉琦殿を推す者と、劉琮殿を推す者が……」

「もう表に出ているのか」

「完全にではありません。

しかし、双方が自分たちの支持者を集め始めています」

 俺は劉備を見る。

「始まったな」

「ああ」

 劉備が頷いた。

 そして役人が、さらに声を落とした。

「蔡瑁殿は、劉琮殿を支持する者たちと動いております」

 俺は黙った。

 ついに、蔡家が表に出た。

「劉琦殿は?」

「現在、父君の屋敷におられます」

「護衛は?」

「それが……」

 役人の顔が曇った。

「一部の者が交代させられています」

「交代?」

 俺は聞き返した。

「はい。劉琦殿の身辺にいた者の一部が、別の任へ回されました」

 俺は拳を握った。

 これは偶然ではない。

 誰かが劉琦殿の周囲から人を減らしている。

「劉備殿」

「分かっている」

 劉備の顔が険しくなる。

「まず劉琦殿のもとへ行こう」

「はい」


         ◆


 劉琦殿は、父君の寝室から離れた部屋にいた。

 その顔には、深い疲労が浮かんでいる。

「劉備殿……」

 俺たちを見ると、劉琦殿が立ち上がった。

「父上が……亡くなられました」

「……はい」

 劉備が頭を下げる。

「心より、お悔やみ申し上げます」

 劉琦殿は唇を噛んだ。

「私は……父上に何も返せなかった」

「そのように思う必要はありません」

 劉備が静かに言う。

 だが、劉琦殿は首を横に振った。

「違うのです」

 その目に不安が浮かぶ。

「父上が亡くなった途端、周囲の者たちが変わりました」

「具体的には?」

 俺が尋ねる。

「これまで私に仕えていた者たちが、次々と離れていく」

「護衛もですか?」

「……一部は」

 やはり。

「そして先ほど、蔡瑁殿から使者が来ました」

「何と?」

「今後の荊州のため、私にはしばらく屋敷で静かにしていてほしいと」

 劉琦殿の声が震えた。

「私は……」

 拳を握る。

「父上が亡くなったばかりなのに、もう自分の身を案じなければならないのですか?」

 劉備殿が劉琦殿の肩に手を置いた。

「劉琦殿」

「はい」

「今は、何も決めてはなりません」

 劉備の声は落ち着いていた。

「だが、あなたの身の安全は守ります」

 劉琦殿が顔を上げる。

「……劉備殿」

 俺は周囲を確認した。

「劉琦殿」

「はい」

「ここに長く留まるのは危険かもしれません」

 劉琦殿の顔が強張る。

「私を……新野へ?」

「それも一つの選択肢です」

 俺は答えた。


「ただし、今すぐ動けば、蔡家から見れば劉琦殿を担いでいるように見える」

 劉備が頷く。

「だからこそ、慎重に動く必要がある」

 その時だった。


 廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。

 俺は反射的にそちらを見る。

「誰だ?」

 趙雲が低く尋ねる。

 しばらくして、男の声が響いた。

「劉琦殿に、蔡瑁殿よりお話がございます」

 部屋の空気が張り詰めた。

 劉琦殿がこちらを見る。

 劉備は静かに立ち上がった。

 俺は腰の短刀に手を添えた。

 抜くつもりはない。

 だが、いつでも動けるようにする。

「延麒」

 劉備が小さく言った。

「はい」

「まだ戦う時ではない」

「分かっています」

 俺は手を離した。


 これは剣で決める戦いではない。

 劉表殿が亡くなった今。

 荊州で始まろうとしているのは――

 後継者を巡る、静かな戦いだった。


         ◆


 その夜。

 襄陽の各所で、人が動き始めていた。

 蔡家に近い者たちは集まり。

 劉琦を支持する者たちは互いに連絡を取り合う。

 役人たちは、どちらにつくべきか判断を迫られていた。

 そして、その情報は少しずつ城外へ流れていく。

 俺は屋敷の窓から襄陽の夜を見ていた。

 劉表殿が生きていた時には、一つの命令で抑えられていたもの。

 それが今、一気に動き始めている。

「延麒」

 劉備が隣に立つ。

「はい」

「これからどうする?」

 俺はしばらく夜の町を見つめた。

「まず、劉琦殿を守りましょう」

 そして。

「新野との連絡を切らさない事です」

「うむ」

「それと――」

 俺は言葉を続けた。

「蔡家が何をしようとしているのか、もう一度調べます」

 劉備が頷く。

「分かった」

 俺は拳を握った。

 劉表殿が亡くなった。

 これによって、歴史の歯車は大きく動き始めた。

 だが、俺の知っている歴史と同じになるとは限らない。

 すでに新野の戦いは変わった。

 劉琦も、俺たちのもとへ助けを求めている。

 ならば――

 ここから先も、変えられる。

 ただし。

 変えるということは、同時に新しい敵を生み出すことでもある。

 襄陽の夜空を見上げる。

 その静かな闇の下で。

 荊州の動乱が、始まろうとしていた。

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