第5話 臥龍と鳳雛――そして「異物」への問い
新野の城外。
俺が兵たちに整備させている野外演習場に、二人の男が立っていた。
一人は、羽扇を手にした若者だった。
質素な衣を纏い、静かに立っているだけだというのに、不思議な存在感がある。
視線は穏やかだ。
だが、その奥には、こちらの考えを一つずつ読み取ろうとする鋭さがあった。
もう一人は、その男とは対照的だった。
身なりにはあまり頓着していない。
腰には酒の入った器を下げ、どこか世捨て人のような雰囲気を漂わせている。
しかし、その目だけは違った。
酔っているように見えて、その実、周囲を冷静に観察している。
この二人が、ただ者ではないことだけは分かった。
そして――俺は、その名を知っている。
諸葛亮、字は孔明。
そして、龐統、字は士元。
後の世で、それぞれ「臥龍」「鳳雛」と呼ばれることになる人物たちだ。
ただし。
俺の知っている歴史では、今この二人がここにいるはずはない。
だからこそ、警戒していた。
「……これが、新野の防衛施設ですか」
羽扇の男――諸葛亮が、静かに周囲を見渡す。
「土を盛り、溝を掘り、道幅を狭めている。敵の進路を意図的に限定しているようですね」
「ええ」
俺は鋤を地面に突き立てた。
「騎兵は平地なら強い。だったら、平地をそのまま使わせなければいい」
俺が整備させているのは、深い堀ではない。
騎馬の突撃を止め、速度を落とすための簡単な壕。
さらに、その周囲には杭や土塁を配置している。
敵を完全に止めるためじゃない。
勢いを削り、こちらが対応する時間を稼ぐためだ。
「なるほどな」
隣で龐統が口元を歪めた。
「敵を倒すためではなく、敵の得意な戦い方をさせぬための仕掛けか」
「そういうことです」
「面白い」
龐統はそう言いながら、足元の土を軽く蹴った。
「だが、貴殿は何者だ?」
「……何者?」
「殿のもとに突然現れ、兵の配置を変え、倉庫を整理し、水場を分け、夜間警戒まで始めた」
龐統の目が細くなる。
「聞けば、曹操軍の細作まで捕らえたとか」
一昨日のことだ。
やはり、情報はすでに広がっている。
「俺は、殿に仕える軍師です」
「それだけか?」
「それ以上でも、それ以下でもありません」
答えると、龐統が小さく笑った。
「ふむ。随分と妙な軍師だ」
その言葉に、俺は肩をすくめた。
「よく言われます」
すると、諸葛亮が初めて俺を正面から見た。
「妙、というより……異質なのでしょう」
「……」
「兵法だけではない。貴殿が見ているのは、兵そのものです」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
諸葛亮は続ける。
「兵の食事、水、休息、武具の状態。そして、夜間の警戒。戦場に立つ前の段階から、すでに戦を考えている」
「戦は、戦場に出てから始まるものじゃないと思っています」
「では、いつ始まると?」
「兵を集めた時からです」
俺は演習場の向こうを見る。
そこでは、兵たちが訓練を続けていた。
槍を構える者。
盾を持つ者。
弓を引く者。
そして、その隣で武具を整備する者。
「腹が減れば動けない。喉が渇けば判断を誤る。眠れなければ反応が鈍る。武器が壊れれば戦えない」
俺は一つずつ指を折った。
「だから、戦う前にできることは全部やる」
「……勝つために?」
「違う」
俺は二人を見る。
「死ぬ人間を、少しでも減らすためです」
龐統の表情から、笑みが消えた。
「乱世で、それを言うか」
「言います」
「敵も生きている」
「分かっています」
「ならば、敵を倒さなければ味方が死ぬぞ」
「だからこそ、戦う時は戦います」
俺は腰に差した短刀へ、無意識に手を添えた。
劉備殿から渡されたものだ。
軍師として認める証。
そして、自分の身を守るためのもの。
「俺は戦を否定しているわけじゃない」
短刀から手を離す。
「ただ、勝つために必要のない死まで増やしたくない。それだけです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、龐統が鼻で笑った。
「なるほどな」
だが、その声に先ほどまでの軽さはなかった。
「天下を語る者は多い。魏をどうする、呉をどうする、どこを攻める――そんな話ばかりだ」
龐統は演習場を見渡した。
「だが、兵が何を食うか、どこで眠るかまで考える者は少ない」
「そこを考えないと、最後に困るのは兵ですから」
すると、諸葛亮が羽扇をゆっくり動かした。
「では、一つ尋ねてもよろしいか」
「どうぞ」
「貴殿は、殿が天下を取れると考えていますか?」
不意を突かれた。
俺は少しだけ考える。
「……今のままなら、難しいと思います」
「ほう」
「殿には人がいる。志もある。でも、それだけじゃ足りない」
俺は新野の城を振り返った。
「兵糧も、兵力も、地盤も足りない。曹操と正面から戦えば、いずれ押し潰される」
諸葛亮の目が僅かに細くなる。
龐統も黙って俺を見る。
「だから俺は、勝てる戦いを増やしたい」
「勝てない戦いは?」
「避けます」
「それだけですか?」
「それだけじゃない」
俺は二人に向き直った。
「勝てない理由を探します」
「理由を?」
「兵力が足りないのか。兵糧が足りないのか。情報が足りないのか。地形が悪いのか。それとも、そもそも戦う必要がないのか」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出てきた。
「敵を倒すことだけが戦じゃない。戦わずに済むなら、それが一番いい」
龐統が、ふっと笑った。
「孔明」
「何でしょう」
「どうやら、我々が考えていたより面倒な男らしい」
「……同感です」
諸葛亮はそう答えた。
だが、敵意はなかった。
むしろ――興味。
俺という存在そのものを測ろうとしている。
「延麒殿」
「はい」
「貴殿の兵法には、我々の知るものとは異なる部分がある」
「そうでしょうね」
「その知識は、どこで得たのです?」
来た。
俺が最も恐れていた問いだった。
俺は一瞬、答えに詰まった。
自衛隊。
現代日本。
そんな言葉を口にしても、この時代の人間には理解できない。
それに――俺自身、まだ自分の置かれている状況を完全には理解していない。
「……俺の故郷で学んだものです」
「故郷?」
「ええ」
「どのような国です?」
俺は空を見上げた。
雨雲の向こうにあるはずの、元の世界。
スマートフォン。
電車。
コンビニ。
自衛隊。
そして、俺が死ぬ直前まで生きていた世界。
「……今は、話せません」
諸葛亮は追及しなかった。
ただ、静かに頷く。
「分かりました」
その対応が、逆に怖かった。
何も聞かない。
だが、何も見逃してはいない。
龐統もまた、俺をじっと見ていた。
「異物、か」
「……何です?」
「いや」
龐統は酒器を持ち上げる。
「この乱世において、貴殿は妙な存在だと思っただけだ」
そして、一口飲む。
「だが、異物だからこそ、見えるものもあるのだろう」
諸葛亮が羽扇を止めた。
「私も、そう思います」
二人の視線が交差する。
俺は、その光景を見ながら思った。
やはり、この二人は恐ろしい。
知識だけではない。
人を見る目がある。
俺が現代から来た人間だということまで、すでに疑われているのかもしれない。
だが――
それでも構わない。
俺には、守りたいものがある。
この世界で出会った人たち。
そして、この時代で生きる兵たちだ。
「……ところで」
龐統が演習場の端を指差した。
「あの少年兵は何をしている?」
「警戒訓練です」
「竹笛を持っているが?」
「あれは合図用です」
俺は短刀を触った。
先ほど作った竹笛を、少年兵に渡してある。
「声より遠くに届く。夜間なら特に役に立つ」
諸葛亮が竹笛を見る。
「なるほど。武器ではなく、情報を伝える道具ですか」
「そうです」
「貴殿は、本当に戦場を見る目が違う」
その言葉に、俺は苦笑した。
「俺はただ、知っていることを使っているだけですよ」
だが、その瞬間。
俺の脳裏に一昨日の感じた違和感が蘇った。
歴史を知っている。
だから、この先に起きることも分かる。
そう思っていた。
しかし――
もし、この世界がすでに俺の知っている歴史から外れているのなら?
孔明と龐統。
本来なら交わるはずのない場所で、今こうして俺と話している二人。
これもまた、その証拠なのではないか。
俺は無意識に腕時計へ目を向けた。
止まったままのG-SHOCK。
針は、あの日から動いていない。
それでも時間は進んでいる。
歴史も進んでいる。
そして――
俺が知っている「三国志」は、少しずつ形を変え始めていた。
諸葛亮が俺を見る。
龐統もまた、俺を見る。
その視線には、まだ答えの出ていない問いがあった。
――この男は、一体何者なのか。
そして俺自身も、同じ問いを抱いていた。
――俺は、この世界で何を変えてしまうのか。
答えは、まだ出なかった。
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