第4話:闇に潜む者と「プロ」の流儀
新野の夜は深い。
街灯もない。
車の走行音もない。
聞こえてくるのは、夜風に揺れる木々の音と、城内を巡回する兵士たちの足音だけだった。
現代の夜とは、あまりにも違う。
だが、静かな夜ほど異変には気付きやすい。
俺は城壁の上から、暗闇に沈む新野の街を眺めていた。
今日から始めた夜間巡回の様子も確認しておきたい。
巡回兵の人数。
交代する時間。
見張りの死角。
そして――
「……ん?」
足音が聞こえた。
規則正しい巡回兵の足音。
その後ろに、もう一つ。
俺は耳を澄ませる。
――違う。
巡回兵ではない。
歩幅が違う。
足を置く場所も違う。
そして何より、音が少なすぎる。
(……誰かいる)
俺は城壁から身を隠した。
昼間に確認しておいた死角へ移動する。
腰に手を添える。
そこには、昨日、劉備殿から渡された短刀があった。
軍師として迎える証として与えられたものだ。
まだ手に馴染んではいない。
だが、いざという時に身を守るには十分だった。
しばらく待つ。
やがて――
木陰から人影が現れた。
黒い衣服。
周囲を警戒しながら、城内へ入り込もうとしている。
(細作か)
この時代なら、敵方へ潜り込んで情報を集める者がいても不思議ではない。
問題は――
何を調べに来たのか。
俺は後を追った。
男は兵糧庫へ向かっている。
昨日までなら、ここには何の価値もなかっただろう。
だが今は違う。
倉庫を整理し、兵糧の管理方法を変えた。
水場も整備している。
兵士の装備も調べ始めている。
外から見れば、新野の軍が短期間で変化しているように見える。
(なるほど)
俺は理解した。
敵は、その理由を探っている。
男が兵糧庫へ近づく。
俺はすぐには動かなかった。
捕らえるだけなら簡単だ。
だが――
もっと重要なことがある。
こいつが、誰から、何を命じられて来たのか。
俺は男が建物の中へ入るのを確認してから、別の入口へ回った。
そして、出口を塞ぐ。
逃げ道を一つずつ潰す。
自衛隊で学んだことは、戦い方だけではない。
相手の行動を予測すること。
そして、自分が有利な状況を作ってから動くこと。
やがて男が出てきた。
その手には、何かの書状がある。
今だ。
「――動くな」
男が振り返る。
「なっ!?」
腰の短刀へ手を伸ばした。
男も同時に短刀を抜こうとする。
俺は一歩踏み込んだ。
右手で相手の手首を押さえ、左肩を使って体勢を崩す。
「ぐっ……!」
男の身体が傾く。
俺はそのまま地面へ押さえ込んだ。
劉備殿から与えられた短刀を抜く。
だが――
刃を相手へ向けることはしなかった。
短刀を握ったまま、男の手元へ突きつける。
「抵抗するな」
男が息を呑む。
「騒げば、巡回兵が来る」
「……」
「お互い面倒なことになる」
男がこちらを睨みつける。
かなり訓練されている。
不用意に暴れない。
こちらの隙を探している。
俺も警戒を緩めなかった。
「曹操軍の者か?」
男の目が一瞬だけ動いた。
それだけで十分だった。
「……図星か」
「な、何のことだ」
「その装備だ」
俺は男の懐を探る。
書状が出てきた。
俺はそれを取り上げる。
内容を読む。
そこには、新野城内の兵数。
兵糧の保管場所。
城門の警備状況。
そして――
ここ数日の変化について記されていた。
(……見られていたか)
俺は書状を閉じた。
「これを誰に渡すつもりだった?」
男は答えない。
無理に聞き出す必要はない。
重要なのは、情報が漏れているという事実だ。
俺は短刀を鞘へ収めた。
そして、男の拘束を解く。
「……なぜだ?」
「殺す必要がないからだ」
「私を逃がすつもりか?」
「そうだ」
男が怪訝そうに俺を見る。
「一つだけ伝えておけ」
俺は書状を掲げた。
「新野を探るなら、次はもっと慎重にやれ」
「……」
「だが……」
俺は書状を懐へ収める。
「これは返さない」
男は悔しそうに俺を見る。
「お主……何者だ」
「ただの軍師だ」
「軍師……?」
「そうだ」
俺は男から視線を逸らさない。
「だから、お前の雇い主に伝えておけ」
少しだけ間を置く。
「新野は、昨日までとは違う」
男はしばらく俺を睨んでいた。
やがて、闇の中へ消えていった。
俺はその背中を見送った。
(……これでいい)
敵を一人殺すより、敵に情報を与えた方がいい場合もある。
そして今回は、こちらが何を知っているのかを悟らせないことが重要だ。
俺は手元の書状へ目を落とした。
「……さて」
問題は、こっちだ。
敵はこちらを見ている。
ならば、こちらも敵を見る必要がある。
◇
翌朝。
俺は劉備殿の執務室を訪れた。
部屋には、劉備殿のほか、関羽殿と張飛殿もいた。
「延麒、何かあったのか?」
劉備殿が尋ねる。
「昨夜、細作が城内へ入り込みました」
「何だと?」
張飛殿が立ち上がる。
「どこの者だ?」
「おそらく曹操軍です」
俺は書状を机の上へ置いた。
「兵数、兵糧、警備状況。こちらの変化も調べられていました」
関羽が書状を手に取る。
目を通していくうちに、その表情が険しくなる。
「……これほどまで調べられていたとは」
「だからこそ、今後は注意が必要です」
「その細作はどうした?」
「逃がしました」
張飛が驚く。
「逃がしただと!?」
「はい」
「なぜだ!」
「殺してしまえば、それ以上の情報は得られません」
俺は答えた。
「それに、向こうに一つだけ情報を持ち帰らせました」
「何を?」
「新野が以前とは違うということです」
関羽が俺を見る。
「わざと逃がしたのか」
「はい」
俺は頷いた。
「敵が警戒してくれれば、それだけ次の行動が変わります」
劉備が静かに俺を見つめる。
「つまり、敵の動きをこちらから変えようということか」
「その通りです」
俺は答えた。
「戦は、槍を交える前から始まっています」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、劉備殿が口を開いた。
「延麒」
「はい」
「貴殿は曹操という男をどう見る?」
俺は少し考えた。
曹操。
三国志を知る者なら、誰もが知っている人物。
英雄。
奸雄。
そして――
間違いなく、この時代で最も警戒すべき人物の一人だ。
「……おそらく、合理的な男です」
俺は答えた。
「敵を侮らない。必要なら人も物も使う。勝つためなら、手段を選ばない」
俺は書状を見る。
「だからこそ、こちらも油断できません」
劉備が頷いた。
「なるほど」
「ただ……」
俺は少しだけ笑った。
「合理的な相手なら、こちらも合理的に動けばいい」
劉備が微笑む。
「頼もしいことだ」
俺は一礼した。
「では、次の準備に入ります」
「次?」
「はい」
俺は部屋を出る前に振り返った。
「今度は、こちらから敵を見に行きます」
扉を閉める。
廊下を歩きながら、俺は腰の短刀に触れた。
劉備から与えられた短刀。
昨日までは、ただの贈り物だと思っていた。
だが今は違う。
この世界で生きていくための、俺自身の装備だ。
そして――
俺が劉備軍の一員になった証でもある。
俺は空を見上げた。
まだ朝だ。
だが、曹操軍がこちらを見ていることは分かった。
こちらも曹操軍を見る。
(……本番が近い)
俺は心の中で呟いた。
史実では、この先に博望坡の戦いが待っている。
だが、俺が知っている歴史は、すでに少しずつ変わり始めている。
ならば、油断はできない。
歴史を知っていることは、未来を知っていることではない。
俺は、その事実をまだ知らなかった。
だが、それを思い知らされる日は――
そう遠くなかった。
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