第3話:戦わずして勝つための「基礎(ベース)」
劉備殿の軍師として迎えられた翌日。
俺が最初にやりたいと言い出したことは、敵情視察でもなければ、兵士の訓練でもなかった。
「……倉庫の整理、だと?」
関羽が、立派な長髯を揺らしながら俺を見た。
その隣には張飛殿もいる。
二人とも、明らかに納得していない顔をしていた。
「倉庫の整理だけではありません」
俺は手近な木板に炭で書いた項目を示した。
「炊事場の衛生確認。飲料水の確保。厠の位置の見直し。それから、兵士の装備品を一度すべて確認します」
「……それが戦と何の関係がある?」
関羽殿が尋ねる。
「大いにあります」
俺は即答した。
「むしろ、戦をする前にやるべきことです」
昨日、新野の城へ入ってから、俺は城内を一通り見て回った。
そして、改めて思った。
――ひどい。
武器には錆が浮いている。
兵糧を入れた袋には、鼠に齧られた跡がある。
水場の衛生状態も良くない。
さらに、兵士の中には腹を壊している者までいた。
これでは戦う以前の問題だ。
「おい、延麒!」
張飛殿が声を荒らげる。
「俺たちは戦をしに来てんだ! 掃除や片付けをするために兵を集めてるんじゃねえ!」
「翼徳殿」
俺は落ち着いて答えた。
「腹を壊した兵士が、戦場で本来の力を出せますか?」
「……」
「錆びた武器で、敵と戦えますか?」
張飛殿が口を閉じた。
俺は木板に数字を書き込む。
「昨日から今朝にかけて、体調を崩した兵士を何人か確認しました」
「何人か、か」
関羽が言う。
「まだ全員を調べたわけではありません。だから正確な数字は出せません」
俺は木板を見ながら続けた。
「ですが、無視できない数です」
自衛官だった頃、部隊の状態を確認するとき、銃や弾薬だけを見ていたわけではない。
兵士の体調。
食事。
水。
睡眠。
装備。
補給。
どれか一つが崩れれば、部隊全体の能力が落ちる。
戦場で重要なのは、勇敢な兵士の数だけではない。
最後まで動ける兵士の数だ。
「戦力というのは、槍を持っている兵士の数だけじゃありません」
俺は二人を見る。
「百人の兵がいても、そのうち二十人が病気で動けなければ、実際に戦えるのは八十人です」
関羽殿が腕を組んだ。
「つまり、衛生を改善すれば……」
「少なくとも兵士を増やさなくても、実質的な戦力を増やせます」
「……理にかなっている」
関羽が呟いた。
だが、張飛殿はまだ納得していない。
「それで戦に勝てるってのか?」
「勝てるとは言っていません」
「何だと?」
「ただ、負ける要因を一つ減らせます」
俺は張飛を見る。
「戦は、一度の奇策だけで決まるものではありません」
これは、自衛官として学んだことでもある。
装備を整える。
体調を整える。
情報を集める。
補給を維持する。
そして――
当たり前のことを、当たり前に続ける。
「派手な策を考えるのは、その後です」
俺はそう言って倉庫へ向かった。
「まずは、この城が何を持っているのか。それを確認しましょう」
◇
倉庫の扉を開けた瞬間、むっとした臭いが鼻を突いた。
「……これは」
兵糧の袋。
木箱。
武器。
雑多な物資。
何がどこにあるのか、一目では分からない。
俺は袖をまくった。
「まず、使える物と使えない物を分けます」
「それだけでいいのか?」
関羽が尋ねる。
「いえ。そのあと種類ごとにまとめ、数量を記録します」
「数量を?」
「はい」
俺は木板に数字を書き込んでいく。
「今、この城に何がどれだけあるのか。それを把握します」
「……兵糧が足りぬことは分かっている」
「足りないことと、何がどれだけ足りないのかを把握していることは別です」
俺は関羽を見る。
「何日分の食料があるのか。武器は何本あるのか。弓矢は何本あるのか。馬は何頭いるのか」
一つずつ確認していく。
「これが分からなければ、補給の計画も立てられません」
関羽はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷く。
「確かに……」
次に俺が向かったのは水場だった。
ここも問題が多い。
濁った水。
汚れた容器。
そして、人が集まる場所と排泄場所が近すぎる。
「まず、水を分けましょう」
「分ける?」
「飲むための水と、それ以外の水です」
俺は竹を使って簡単な濾過器を作った。
砂と炭を利用して、水の濁りを減らす。
張飛が興味深そうに覗き込む。
「これで飲めるのか?」
「これだけでは駄目です」
「何?」
「濾過した後、必ず煮沸してください」
俺は濾過した水を見ながら言った。
「目に見えない原因で病気になることがあります。だから、できるだけ火を通してから飲む」
「目に見えぬもの?」
「そうです」
微生物という言葉を説明しても、この時代では理解されにくい。
だから、俺は必要なことだけを伝えた。
「病気を防ぐためです」
張飛殿は濾過器を見つめる。
「……妙な道具を作りやがる」
「道具より、使い方が大事です」
そして次は食料だ。
干し肉。
雑穀。
保存の効く食材。
これらを組み合わせ、少量ずつ固める。
「これは?」
劉備殿が尋ねた。
「行軍用の保存食です」
「行軍用?」
「はい。火を起こせない場所でも食べられます」
俺は一つ差し出した。
「保存性を考えてあります。味は……期待しないでください」
劉備殿が笑った。
「それは残念だな」
そう言いながらも、劉備殿は躊躇なく口に入れた。
しばらく咀嚼する。
「……うむ」
「どうです?」
「思ったより悪くない」
その言葉を聞いた張飛が手を伸ばした。
「俺にも寄越せ」
「翼徳、勝手に取るな」
関羽がたしなめる。
「いいじゃねえか」
張飛が口に入れる。
「……おっ、こりゃ悪くねえ!」
関羽も一つ手に取った。
「確かに、行軍には使えそうですな」
「そういうことです」
俺は頷いた。
「火を起こせない状況でも食べられる。保存できる。そして、食事に必要な時間も減らせます」
俺は三人を見る。
「兵士にとって、飯は武器と同じくらい重要です」
室内が静かになった。
俺は木板に、いくつかの項目を書き込む。
整理。
整頓。
清掃。
清潔。
そして、これらを続けること。
現代なら、特別なことではない。
だが、この時代では違う。
(まずは、ここからだ)
剣を強くするより先に。
兵士を鍛えるより先に。
死なない軍隊を作る。
「延麒」
劉備の声がした。
「はい」
「お主の考えは分かった」
劉備は倉庫を見渡した。
「兵を強くするのではなく、兵が本来持っている力を失わせないのだな」
「その通りです」
劉備殿は微笑んだ。
「面白い」
そして、関羽と張飛を見る。
「雲長、翼徳」
「はっ」
「延麒の指示に従ってくれ」
「兄者、本気か?」
張飛が驚いた顔をする。
「本気だ」
劉備殿の声に迷いはなかった。
「戦とは、敵と槍を交えることだけではないのだろう」
俺は劉備殿を見る。
「兵を生かすこともまた、戦なのだ」
「……はい」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
こうして、新野城の改革が始まった。
◇
夕刻。
俺は一人、城壁の上に立っていた。
眼下では、兵士たちが倉庫の整理を続けている。
まだ粗末な軍だ。
装備も足りない。
兵糧も十分ではない。
訓練も必要だ。
それでも――
昨日よりは、一歩だけ前に進んだ。
俺は北の空を見上げる。
曹操の軍が本格的に動くのは、まだ先だ。
だが、時間は多くない。
(まずは、5S……)
頭の中で、現代の営内を思い浮かべる。
整理。
整頓。
清掃。
清潔。
そして、それを維持する習慣。
(まさか三国志の世界で、こんなことをやることになるとはな)
俺は苦笑した。
だが、笑ってはいられない。
この城にいる兵士たちの命がかかっている。
そして、その先には――
俺が知っている歴史が待っている。
俺は遠く北の空を見つめた。
曹操。
荊州。
そして、やがて訪れる劉備軍の危機。
俺はその未来を知っている。
だからこそ、変える。
剣を振るうだけではない。
奇策に頼るだけでもない。
まずは、一人でも多くの兵士を生き残らせる。
それができれば――
歴史は変えられる。
俺は城壁から新野の街を見下ろした。
「……さーて」
小さく息を吐く。
「次は、兵士たちそのものを見てみるか」
新野の夜が、静かに訪れようとしていた。
その先に待つ戦いへ向けて。
劉延麒の軍師としての最初の仕事が、始まった。
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