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元自衛官の俺、蜀漢の「詰み」を回避する―  作者: 岡崎 隆幸


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第2話:双股剣の主と「器」の正体

新野の城は、城と呼ぶにはあまりにも粗末だった。

 石壁には幾つもの補修跡があり、ところどころ崩れかけている。

 俺がこれまで見てきた自衛隊の駐屯地と比べれば、要塞というより古びた役所に近い。


 それでも――

 ここには、現代の基地にはないものがあった。

 人の熱だ。

 兵士たちが行き交い、城壁の補修をする者がいる。

 負傷した兵を運ぶ者もいれば、濡れた衣服を絞りながら走る者もいる。


 規模は小さい。

 設備も悪い。

 それでも、ここにいる人間たちは生きていた。

「……失礼致します。我が君、偵察より戻りました」

 趙雲が声をかける。

 部屋の奥から、一人の男が顔を上げた。


「子龍か」

 穏やかな声だった。

 男はゆっくりと立ち上がる。

 耳が大きい。

 腕も長い。

 三国志の知識にある劉備玄徳の姿と重なる。

 だが、俺が最も気になったのは、その瞳だった。

 穏やかだ。

 それなのに、こちらの奥まで見透かされるような感覚がある。


「……して、その後ろにいる御仁は?」

 劉備玄徳。

 後に蜀漢を建国し、三国の一角を担う男。

 その本人が、俺の目の前にいる。

 俺は一歩前へ出た。

 自衛隊式の敬礼をするわけにもいかない。

 見よう見まねで拳を掌で包み、拱手の礼を取った。


「旅の者です」

「旅の者?」

「はい」

「名は?」


 一瞬、言葉に詰まった。

 この世界で、自分の本名を名乗っていいのか。

 そもそも、俺が現代から来たことを信じてもらえるとは思えない。

「……今は、名乗れるほどの身分ではありません」

 劉備は不思議そうに俺を見る。

 その隣から趙雲が口を開いた。


「我が君。この者は只者ではありません」

「ほう」

「先ほど新野の村を襲った曹操軍の兵を、ほとんど傷つけることなく退けました」

 張飛が反応した。


「何だと?」

 燃えるような髭を持つ大男が、酒瓶を置く。

「子龍、冗談を言っているんじゃねえだろうな?」

「無論」


 趙雲は淡々と答えた。

「敵の進路を予測し、地形を利用して隊列を崩した。さらに敵の指揮官を無力化している」

 張飛の視線が俺へ向く。


「こいつが?」

「そうです」

「……ヒョロついた旅人にしか見えねえがな」

 張飛の視線には、明らかな警戒があった。

 俺は反論しなかった。

 その方がいい。

 この時代の武人と張り合っても意味がない。

 そもそも俺は、武将ではない。

 俺ができるのは、状況を見て、生き残ること。

 そして必要なら、人を生き残らせることだ。


「信じるかどうかは、そちらにお任せします」

 俺は答えた。

「俺はただ、雨が降る前に屋根のある場所へ移動したかっただけです」

 その言葉に、張飛が怪訝そうな顔をする。

 外では、激しい雨が降り始めていた。

 古い屋根を雨粒が叩く。

 劉備はしばらく俺を見ていた。

 そして、ゆっくりと近づいてくる。


「……貴殿」

「はい」

「その手を見せてもらえぬか」

「手、ですか?」

 言われた通り、手を差し出す。

 劉備は俺の手をじっと見つめた。

「剣を扱う者の手ではない」

「……」

「だが、ただの旅人の手でもない」

 俺は黙った。


「硬い」

 劉備が呟く。

「土を掘り、縄を扱い、重いものを持つ者の手だ。それに……」

 劉備は俺の指先を見る。

「傷が多い」

「職業柄です」

「何をしていた?」

 どう答えるべきか。


 自衛官。

 そう言っても、この時代の人間には理解できない。

「……国を守る仕事をしていました」

 それだけを答えた。

 劉備の瞳がわずかに細くなる。

「国を守る?」

「はい」


 俺は一度、言葉を選んだ。

「私の故郷では、戦わずして勝つことが最良だと教えられていました」

「戦わずして……勝つ」

「そのためには、地形を見る。相手を見る。そして、自分たちが無理をしない」

 劉備は黙って聞いている。

「勝てる戦いだけをする。それが、生き残るためには一番大切です」

 しばらく沈黙が続いた。


 やがて劉備が口を開いた。

「……なるほど」

 その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。

「貴殿のような考え方をする者が、この乱世にいるとはな」

 そして――


 劉備は突然、俺に向かって深く頭を下げた。

「頼む」

「……え?」

「私に力を貸してはもらえぬだろうか」

 張飛が立ち上がった。

「兄者!」

 だが、劉備は顔を上げない。

「私は、戦乱に苦しむ民を救いたい」

 静かな声だった。

「だが、私一人の力では何もできぬ」

 劉備が顔を上げる。

「貴殿には、私たちとは違う力があるように思える」

 俺は劉備を見つめた。

 この男が劉備玄徳。

 後に蜀漢を建国する男。

 そして――


 史実を知る俺には、その未来が見えている。

 関羽。

 張飛。

 龐統。

 夷陵。

 そして、蜀漢の滅亡。

 知っている。

 このまま歴史が進めば、この男は多くのものを失う。

 最後には、国そのものを失う。

 俺は腰に触れた。

 そこにはマルチツールがある。

 これだけあれば、一人で生き延びることはできるかもしれない。


 だが――

 一人で生き延びることと、生き残ることは違う。

 少なくとも俺は、そう思っている。

「……一つ、条件があります」

 俺は静かに言った。

「俺は、あんたの駒にはなりません」

 張飛が眉をひそめる。

「何だと?」

「命令されて死ぬつもりもありません」

 俺は劉備を見る。

「ただし、あんたたちが無謀な戦いをしようとしている時は、俺のやり方で口を出させてもらう」

 劉備は黙っている。

「それでもいいなら……力を貸します」

 しばらくして。

 劉備の顔に笑みが浮かんだ。

「もちろんだ」

 即答だった。

 俺は思わず苦笑した。

「……即答ですか」

「貴殿が私たちを生き残らせようとしてくれるのなら、それを拒む理由はない」

 やはり、この男は変わっている。

 損得より、人を信じる。

 合理性だけで考えれば、とても理解できない。


だが――

 だからこそ、人が集まるのだろう。

「それで……」

 俺は少し迷ってから口を開いた。

「名無しでは、皆さんがお困りになると思います」

「確かに」

 劉備は顎に手を当てる。

「ここでの名を頂きたいのですが」

 劉備は少し考えた。

「ならば……私の姓を使うといい」

「劉……ですか?」

「そうだ」

 劉備は穏やかに笑った。

「名は……龐」

 一瞬、間を置く。

「字は、延麒としよう」

「劉龐延麒……」

 口にしてみる。

 知らない名前だ。

 だが、この世界で俺が生きていくための名前になる。

 俺は深く頭を下げた。

「有り難く頂戴致します」

 顔を上げる。


 劉備殿は、しばらく俺を見つめていた。

「延麒」

「はい」

「貴殿は、これから我らと共に行くつもりなのだな?」

「……そのつもりです」

 俺は頷いた。

 一人で生き延びることなら、できるかもしれない。

 だが、この時代で何が起こるのか分からない以上、仲間がいることは大きな意味を持つ。


 そして何より――

 目の前の男を、このまま史実通りに死なせたくはなかった。

 劉備殿は静かに立ち上がった。

 そして、腰に差していた一本の短刀を外す。

「これは……?」

「受け取ってくれ」

 差し出された短刀を、俺は戸惑いながら受け取った。

 鞘は質素だ。

 だが、手入れは行き届いている。

 俺は鞘から少しだけ刃を抜いた。

 鋭い。

 少なくとも、護身用としては十分なものだ。

「軍師として我らと共に歩むのであれば、身を守る術も必要だ」

 劉備殿はそう言った。

「貴殿は武将ではない。だからこそ、自分の身を守るためのものを持っておいてほしい」

「……よろしいのですか?」

「もちろんだ」

 劉備殿は穏やかに笑った。

「これは私から貴殿への餞別ではない」

「では?」

「仲間として迎える証だ」

 その言葉に、俺は一瞬黙った。


 仲間。

 この時代に来てから、そんな言葉を掛けられたのは初めてだった。

 俺は短刀を両手で受け直した。

「……ありがたく頂戴致します」

「大切にしてくれ」

「はい」


 俺は短刀を腰に差した。

 不思議な感覚だった。

 現代から持ってきた装備とは違う。

 この世界で初めて、俺自身がこの時代の人間として与えられたもの。

 俺は腰の短刀へ一度だけ手を添えた。

 そして、顔を上げる。

 その隣では、関羽殿が静かにこちらを見ている。

 張飛殿は腕を組みながら、まだ少し疑わしそうな顔をしていた。

 だが、昨日までとは何かが違う。

 俺はもう、ただの正体不明の旅人ではない。

 劉備軍の一員。

 その軍師として、ここにいる。

 腰には、劉備殿から授かった短刀。

 背には、現代から持ってきた背囊。

 俺の過去と、この時代。

 その二つを象徴するものが、今の俺にはある。

 俺は短刀へ、もう一度だけ触れた。

(……これから、この世界で生きていくのか)

 そう思った瞬間。

 劉備殿が笑った。

「では、延麒殿」

「はい」

「これから、よろしく頼む」

「こちらこそよろしくお願い致します」

 俺は拱手の礼を取る。


 こうして――

 俺は劉備軍の軍師となった。

 そして翌日。

 俺が最初に取り掛かることになるのは、敵軍への対策でも、兵士の訓練でもなかった。

 新野の倉庫の整理だった。志が始まった。

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