第1話 新野の雨と鉄の匂い
この作品は、カクヨムに掲載しているものを改稿しています。
その日は、ただの休日になるはずだった。
俺は趣味のソロキャンプに向かうため、背負った背嚢《はいのう・》(登山用の大きめのバック)の重さを確かめながら歩いていた。
中には最低限のキャンプ道具、携帯食料、いざという時の救急用品。
そして、元自衛官として身につけた、いくつかの生存用具。
いつもの休日。
いつもの道。
そう思っていた。
横断歩道の信号が青に変わる。
俺は、周囲を確認して、歩き出そうとしていた。
その瞬間だった。
ーー耳をつんざくようなクラクション。
視線を向ける。
信号無視をした大型トラックが猛スピードで交差点に突っ込んできた。
その進行方向には、一人の女性がいる。
「危ない!」
考えるより先に、身体が動いていた。
女性に駆け寄り、その身体を突き飛ばした。
次の瞬間。
激しい衝撃。
視界が白く弾けた。
ーーそして。
「......ここは?」
目を開けると、そこは見覚えのない景色が広がっていた。
舗装された、道もない。
電柱も、
高層ビルもない。
あるのは、草原と木々。
遠くには山が連なっている。
「俺は、死んだのか?」
身体を動かしてみる。
少し痛みはある。
手足は動く。
出血している様子はない。
「いや......生きている」
ならば、ここはどこだ?
事故現場からどこかへ飛ばされた?
そんな馬鹿なはずはない。
それでも、目の前の光景は現実だった。
俺はまず、背嚢を確認した。
ファスナーを開き、中身を一つずつ確認した。
「......よし。大きな破損はないな」
幸いだった
趣味とはいえ、サバイバルを想定したキャンプを好んでいた。
背嚢。
タクティカルジャケット。
マルチツール。
救急用品。
食料。
そして、コンパスに双眼鏡。
今の俺にとっては、どれも貴重な装備だ。
もっともーー
「スマホは......県外どころか、電源すら入らない、か」
当然だ。
電波を探しても意味が無い。
そもそも基地局が存在するのかすらわからない。
俺は深呼吸をした。
自衛隊で叩き込まれた基本を思い出す。
まずは、周囲の状況確認。
次に安全確保。
そして、水と食料。
慌てる必要はない。
少なくとも、今のところは。
周囲を見渡した。
平地に留まるのは危険だ。
地形を確認するため、近くの小高い丘へ移動する。
周囲を警戒しながら斜面を登り、身を低くしたまま双眼鏡を覗いた。
近くと遠くを観察する。
村らしきものがある。
そして、さらにその向こう。
砂煙が上がっていた。
「......何だ?」
双眼鏡を目に当て直す。
砂煙がこちらに近づいてくる。
馬だ。
複数。
しかも、かなりの数がいる。
「騎兵......?」
俺は息を潜めた。
騎兵たちは、丘の下にある村へ向かっている。
服装も武器も現代のものではない。
弓。
槍。
剣。
そしてーー旗。
そこに描かれた文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「......まさか」
そんなはずはない。
だが、目の前の光景を説明できることばは一つしかなかった。
ここはーー
「三国志の世界......?」
あり得ない。
そんなことがあるはずがない。
だが、現実は俺の常識をすでに何度も裏切っている。
双眼鏡を下した。
そして、もう一度村を見る。
騎兵たちは村へ向かっている。
嫌な予感がした。
俺は草むらへ身を伏せ、タクティカルジャケットの上から周囲の草を引き寄せる。
目立つ必要はない。
むしろ、見つからない方がいい。
しばらくして、騎兵が村に入った。
怒号が響く。
村人の悲鳴。
その瞬間、俺の中で何かが切り替わった。
「......放っておけないな」
俺は丘を下りた。
真正面から戦うつもりはない。
俺は武将じゃない。
ましてや、漫画やアニメの主人公でもない。
相手は、武装した騎兵。
まともに戦えば、俺が死ぬ。
ならばーー戦わなければいい。
地形を使い。
音を利用する。
相手の視界を奪う。
そして、少しでも有利な状況を作る。
それが、生き残るための基本だ。
村へ続く道を確認する。
手持ちの道具を使いながら、簡単な妨害工作を仕掛けた。
派手ではない。
馬の動きを乱し、進行速度を落とさせる。
やがて騎兵たちが戻ってきた。
「来た......!」
先頭の馬が異変に気付く。
だが、遅い。
馬が足を取られ、騎兵が地面へ投げ出された。
「うわああああっ!」
後続が急停止する。
隊列が乱れた。
今だ。
物陰から投石する。
狙うのは、人間ではない。
馬の進行方向。
驚いた馬が横へ跳ねた。
さらに、隊列が乱れる。
「なんだ!?何が起きている!」
敵は混乱している。
その隙に、最も近くにいた兵士へ接近した。
殺す必要はない。
相手の腕を制し、体勢を崩し気絶させ。
地面に倒れた兵士から武器を遠ざける。
そして、そのまま離れる。
一人。
また一人。
まともに戦わない。
勝つ必要もない。
ただ、時間を稼ぐ。
「--そこまでだ!」
雷鳴のような声が聞こえた。
次の瞬間。
一頭の白馬が、砂煙を巻き上げながら戦場へ駆け込んできた。
孫背に乗っている男が、長槍を振るう。
一閃。
敵兵が吹っ飛ぶ。
あまりにも速い。
俺は思わず息をのむ。
「おいおい......嘘だろ」
白馬。
長槍。
白銀の鎧。
知っている。
いや。
知っているどころではない。
三国志を知る人間なら、一度は耳にしたことがある名前。
男は槍を構えた。
「我が名は趙子龍!」
ーー趙雲。
常山の趙子龍。
俺が何度も小説やゲームで見てきた、あの武将。
「本物......なのか?」
目の前の男が、こちらを振り返った。
鋭い眼光。
俺が潜んでいる場所を、正確に捉えている。
「......そこにいる者」
俺は動かなかった。
「敵ではないようだな。姿を見せよ」
逃げるべきか。
素直に、出るべきか。
一瞬だけ迷った。
だが、ここで逃げれば敵と誤認される方が危険だ。
ゆっくりと腕を上げ立ち上がった。
「あなたの言う通り敵ではありません」
趙雲の視線が、俺の服装へ向けられる。
「......妙な格好だな」
「よく言われます」
「この騒ぎを起こしたのは、お主か?」
俺は答えなかった。
代わりに周囲を見る。
倒れている兵士。
逃げていく騎兵。
そして、雨の匂い。
空を見上げる。
雲が厚い。
雨が近い。
俺は腕時計を確認した。
液晶は消えている。
現代なら正確な時間を刻んでいるはずの時計も、この世界ではただの黒い腕輪に過ぎない。
「......ここは、新野ですか?」
趙雲の眉が動いた
「なぜ、新野を知っている?」
やはり。
間違いない。
ここは三国志の世界。
そして、俺がいるのはーー劉備軍が拠点としていた新野。
だが、それ以上に重要なことがある。
俺は、三国志を知っている。
この先に何が起こるのかも。
劉備軍がどうなるのかも。
そしてーー
このまま歴史が進めば、蜀漢が辿る未来も。
「......子龍様」
「何だ?」
俺は目の前の男を見た。
「俺は、あなたたちがこれから迎える『敗北』を知っています」
趙雲の表情が変わった。
「......何?」
「信じてもらえないでしょう。でも、俺は知っている」
遠くで雷鳴が響いた。
雨が、一滴。
俺の」頬に落ちる。
「そしてーーそれを回避する方法を、俺は知っています。」
趙雲は黙って俺を見つめている。
わずかに、槍先が下げた。
「まずは、その奇妙な衣服をなんとかせねばなるまい」
「......え?」
「その姿では、どこへ行っても目立つ。私の屋敷に来い。装束を貸そう」
俺は、服装を見下ろした。
確かに、この時代の人間には見えないだろう。
「では......お借りします」
苦笑いをした。
見知らぬ時代。
見知らぬ国。
そして、史実の人物?たち。
俺の持っている知識が、どこまで通用するのかはわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
俺はもう、元の世界には戻れない。
ならばーー
この世界で生き残る。
そして、知っている未来を変える。
それが、俺にできる唯一のことだった。
新野に降り始めた雨が、大地を濡らしていく。
鼻をつくのは、土の匂い。
俺と劉備軍。
そして、**「予定された悲劇」**とのたたかいが、ここから始まった。
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