第5話 名前はナギ
リビングの空気が、ふっと静まり返った。
夕暮れ時の淡い光が差し込む部屋の中央。ソファの上に浮かんでいた半透明の少女が、ゆっくりと宙を滑るようにして俺の目の前まで漂ってきた。
淡い青紫色の瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜いている。感情の起伏を感じさせない、硝子玉のように澄み切った瞳だ。
「名前、つけて」
鈴を転がすような、それでいてどこか現実離れした透明な声が、俺の鼓膜を打った。
俺は数秒間、その言葉の意味を脳内で反芻し、やがて目を瞬かせた。
「……俺が?」
「うん」
少女は短く、迷いなく頷いた。銀白色の長い髪が、無重力空間にいるかのようにふわふわと揺れている。
「いや、なんで俺なんだよ」
自分で自分の正体が分からないのは仕方ないとして、名付け親という大役を、今日会ったばかりの十五歳の少年に丸投げするのはどうなんだ。
少女は俺の問いに対し、少しの間、考えるように視線を斜め下に落とした。
記憶喪失の彼女にとって、「分からない」という言葉は一番便利な盾だ。今回もそのパターンかと思ったが、彼女は再び俺を真っ直ぐに見て、はっきりと口を動かした。
「悠真が、いい」
「…………」
俺は一瞬、言葉を失った。
「全然、理由になってなくないか?」
「?」
少女は不思議そうに小首を傾げた。彼女の中では「悠真がいいと思ったから」というだけで、それ以上の説明は必要ないらしい。
困り果てて両親を振り返ると、母さんはすでに満面の笑みを浮かべていた。
「いいじゃない。つけてあげなさいよ、悠真」
「母さん、軽く言うなよ。人間の名前だぞ!? 捨て犬や捨て猫にポチとかタマとかつけるのとは訳が違うんだからな!」
「だからこそ、あなたが責任を持って、ちゃんと考えてあげればいいでしょう? この子はあなたに名前をもらいたがってるんだから」
母さんはすっかり世話焼きモードに入っている。こういう時の母さんは無敵だ。
助けを求めるように父さんを見ると、父さんも腕を組みながら、深く、静かに頷いた。
「母さんの言う通りだ。本人が悠真につけてほしいと言っている以上、無下にするのも可哀想だろう。お前が助け、家に連れてきたんだ。最後まで面倒を見てやれ」
「父さんまでそっち側に回るのかよ!?」
外堀は完全に埋められていた。逃げ道はない。
再び正面に向き直ると、少女がじっと俺を見上げている。
「名前」
催促するような響き。
「……分かった! 分かったよ、今考えるから! ちょっと待っててくれ」
俺は深くため息をつき、頭を掻きむしった。
人間の名前を決める。
口で言うのは簡単だが、その責任の重さが急に肩にのしかかってきた。
俺は改めて、目の前で空中に浮いている少女の姿を観察した。
透き通るような白い肌。向こう側の景色が微かに透けて見える半透明の身体。風もないのに緩やかに波打つ、月明かりを溶かしたような銀白色の長髪。そして、一切の装飾を持たない簡素な白い衣服。素足。
黙って浮いているだけなら、神話を描いた絵本から抜け出してきたような、神秘的な美少女だ。
最初は、その外見の印象から適当に言葉を拾えば、名前の候補くらいすぐに出るだろうと高を括っていた。
しかし、思考を巡らせるうちに、背筋が少しだけ冷たくなるのを感じた。
これは、その場しのぎのあだ名ではないのだ。
本人が本名を思い出す保証はどこにもない。もし一生記憶が戻らなければ、彼女はこれから先、俺が今ここで口にした名前を、自分の『本名』としてずっと名乗り続けることになるかもしれない。
俺が、この子の自己を定義してしまうのだ。
そう考えると、安易な単語を口にするのがひどく恐ろしくなった。
「……ちょっと待ってろ。本気で考えるから」
「うん」
少女は素直に頷き、瞬き一つせずに俺を見つめ続けた。
沈黙が続く。リビングには、壁掛け時計の規則正しい秒針の音だけが響いていた。
一秒、二秒。
頭の中で様々な音の響きを並べては、彼女の姿と照らし合わせて打ち消す作業を繰り返す。
十秒が経過した。
「まだ?」
「だから急かすなって! 名付けを十秒で終わらせてたまるか!」
思わず声を荒げた俺を見て、横で母さんがクスクスと笑い声を漏らした。
落ち着け。まずはオーソドックスなところから攻めるんだ。
「……ユキ、とかどうだ?」
俺は第一候補を口にした。
「ユキ?」
少女が聞き返す。
「ほら。お前、髪が真っ白だろ。肌も白いし。雪みたいだから、ユキ」
安直といえば安直だが、響きは悪くないはずだ。
「可愛いんじゃない?」
母さんが合いの手を入れる。
「普通の女の子の名前としても、特に違和感はないな」
父さんも冷静に評価を下した。
「だよな」
俺は少し自信を得て、少女の反応を窺った。
少女は、「ユキ」と何度か小さな声で口の中で転がしていた。まるで、その音の響きが自分という存在にどう馴染むのかを確かめているようだった。
「……どう?」
「分からない」
「名前の好き嫌いくらい、自分の直感で分かってくれよ!」
俺がツッコミを入れるが、彼女は本当に困ったように首を傾げるだけだ。ただ、明確な拒絶反応を示しているわけでもない。
「まあいい。一応、候補一つ目として保留な」
俺は気を取り直し、別の角度から思考を巡らせた。
「じゃあ……レイ、はどうだ?」
「レイ」
少女が繰り返す。
「レイちゃん。響きは綺麗ね。どういう意味で考えたの?」
母さんが楽しそうに聞いてくる。
俺は一瞬だけ口を噤み、目の前で半透明のままプカプカと浮遊している少女をじっと見た。
「……幽霊の『霊』」
「却下」
「即答かよ!?」
「当たり前でしょう! 女の子にそんな縁起の悪い字を当てようとするなんて、デリカシーがなさすぎるわ!」
父さんも呆れたようにため息をついた。
「さすがに、本人を幽霊扱いしたままの概念を名前に組み込むのは、どうかと思うぞ、悠真」
両親からの非難を浴びていると、少女が静かに右手を挙げた。
「私は、幽霊じゃないと思う」
「お前、そこだけは毎回ちゃんと否定するんだよな……。分かったよ、レイは無しだ」
外見。存在の特異性。
考えれば考えるほど、ドツボにハマっていく気がした。名付けのボキャブラリーが枯渇し始める。
「じゃあ、もう……シロ」
「シロ」
「犬じゃないのよ」
母さんの鋭いツッコミが飛ぶ。
「だから、何もないところから名前を生み出すって難しいんだって!」
俺が頭を抱えて叫んでいると、少女は「シロ」と呟きながら、自分の白い服を見下ろしていた。
「シロ……駄目?」
「あなたも無理に受け入れなくていいのよ?」
母さんが優しく諭す。
「もっと、あなたに似合う可愛い名前にしましょうね」
「分かった」
少女は素直に頷いた。
「……なんでお前、名付け親の俺より母さんの言うことの方をすんなり聞いてるんだよ」
俺のぼやきは、完全にスルーされた。
見かねた母さんが、少しだけ真面目なトーンでアドバイスをくれた。
「ねえ、悠真。髪の色とか、浮いてるとか、そういう見た目の特徴だけで考えなくてもいいんじゃない?」
「じゃあ、何を基準にして考えるんだよ。誕生日も血液型も分からないんだぞ」
「その子が、どんな子なのか、とか。内面や性格から連想してみたら?」
「どんな子って言われても……俺、今日初めて会ったばっかりだぞ。性格なんて把握しきれてるわけないだろ」
「でも、今日一日ずっと一緒にいたんでしょう? 何か感じるものはなかったの?」
母さんの言葉に、俺は少しだけ黙り込んだ。
確かに、出会ってからの時間はまだ数時間に過ぎない。それでも、思い返してみれば妙な奴だった。あの巨大なガーディアンを前にしても怯えず、自分の正体が分からなくても取り乱さず、協会中から幽霊扱いされても平然としていた。家に来てからも普通に飯を食い、眠くなれば浮いたまま寝た。
そして今も、自分のこれからを左右するかもしれない名前を決めているというのに、少女は相変わらず空中で静かに揺らめきながら、俺の答えを待っている。
「……お前さ」
俺は、ふと口を開いた。
「なに?」
「本当に、何が起きても平然としてるよな」
「そう?」
少女は首を傾げた。その仕草すら、どこかのんびりとしている。
「そうだよ。今日一日だけで、普通の人間なら何回パニックになってもおかしくない状況の連続だったと思うぞ」
「パニック」
「頭が真っ白になって、怖がったり、大声で叫んだり、慌てたりすること」
俺が説明すると、少女は自分の胸に手を当てて、少しだけ内省するように目を閉じた。
「……あまり、しない」
「だろうな」
彼女に感情がないわけではないのだ。
俺が「役に立たねえ」と文句を言えば「ひどい」と小さく拗ねてみせた。俺の作った炒飯を食べれば満足そうにし、名前がないと困ると言われれば、自ら名前を欲しがった。
彼女の中には、確かな感情の動きがある。
ただ、外側でどんなに異常な事態が起きても、そのたびに大きく揺さぶられることがない。
常に静かで、自分のペースを崩さない。
俺は、目の前で揺らめく彼女をじっと見つめた。
銀白色の髪が、風一つない部屋の中で、まるで静かな水底にたゆたう水草のように、ゆっくりと揺れている。
静かな、波のない水面。
「……ナギ」
俺の口から、自然とその二文字がこぼれ落ちていた。
「ナギ?」
少女が聞き返す。
俺は自分自身に言い聞かせるように、もう一度、はっきりとその音を口にした。
「ナギ」
ユキでもなく、レイでもなく、シロでもない。
今までのどの候補よりも、その音の響きは、目の前の彼女の存在に妙にしっくりと馴染む気がした。
「ナギ……?」
母さんが、不思議そうに繰り返した。父さんも、興味深そうに俺の顔を見つめている。
「どういう、意味?」
少女が尋ねてきた。
「《凪》っていう言葉があるんだよ」
「ナギ」
「海で風が止まって、波が静まって、水面がほとんど動かなくなる状態のことだ」
「海……」
「海って何だか分かるか?」
少女は少しの間、視線を宙に泳がせた。
「……大きくて、青い水。知ってるような、気がする」
「まあ、海を見たことがあるかどうかは、今はどうでもいい」
俺は言葉を継いだ。
「でも、どうしてその《凪》なの?」
母さんが尋ねる。
俺は少しだけ照れくささを感じながら、頭の後ろを掻いた。
「こいつ、何が起きても妙に平然としてるからさ」
「平然」
「そう。ガーディアンっていう化け物に遭遇しても。自分の過去が何一つ分からなくても。人に超能力を与えても。幽霊扱いされて大騒ぎされても。普通にご飯を食べて、普通に眠る」
俺は少女の淡い瞳を見つめ返した。
「なんか、こいつを見てると、ずっと静かなんだよ。外でどんな嵐が吹いていても、こいつの周りだけは波が立たないっていうか、自分のペースが絶対に崩れない。だから、海が静まる《凪》」
俺がそう締めくくると、少女は真面目な顔をして言った。
「ごはんは、食べる」
「それは関係ないだろ! 今いい雰囲気で由来を語ってたのに!」
俺のツッコミに、母さんが堪えきれずに吹き出した。父さんも口元を緩めている。
だが、俺はここで「今日からお前はナギな」と一方的に決定を下すことはしなかった。
名付け親としての責任があるからこそ、最後の選択権は彼女自身に持たせたかった。
「俺としては、お前の雰囲気に結構似合う名前だと思うけど……どうだ?」
「どう?」
「お前自身の名前だよ。直感でいい。嫌だったら、また別のを一日かけてでも考える」
俺がそう言うと、少女はピタリと動きを止め、深い沈黙に落ちた。
リビングの空気が、再び静まり返る。
両親も何も言わず、ただ彼女の口から出る言葉を待っていた。
数秒の沈黙。
「……ナギ」
彼女は、確認するように小さく呟いた。
少しの間を置いて。
「ナギ」
二度目。
自分の名前として、その響きを確かめているらしい。
やがて。
彼女は顔を上げ、俺に向かって、わずかだが確かな感情の乗った声で言った。
「好き」
俺は、軽く目を見開いた。
出会ってからこれまで、彼女の口から出る言葉は「分からない」「たぶん」といった、自分自身について曖昧なものが多かった。
そんな彼女が初めて、自分のために与えられたものを、はっきり「好き」と選んだ。
「……好きなのか?」
「うん」
彼女はしっかりと頷いた。
「ナギが、いい」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
俺は胸の奥につかえていたものが、すっと軽くなるのを感じた。
「……じゃあ、決まりだな」
「ええ、とってもいい名前ね」
母さんが優しく微笑みながら手を叩いた。
「ああ。彼女の静かな佇まいに、よく似合っている」
父さんも満足そうに頷いた。
少女——いや、ナギは、半透明の両手を自分の胸元にそっと置いた。
「私は、ナギ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい、その名前が彼女に馴染んだ気がした。
「ナギ」
俺は、試しにその新しい名前で呼びかけてみた。
すると、彼女は即座に顔を上げ、俺の方を向いた。
「なに?」
「…………」
「なに?」
「……いや。呼んでみただけ」
なんだか妙に照れくさくなって、俺は視線を逸らした。
「そう」
ナギは短く答え、再び宙を漂い始めた。
だが、数秒後。
「悠真」
「なに?」
俺が振り向くと、ナギは俺の顔を見て、きっぱりと言った。
「呼んでみただけ」
「俺の真似すんなよ!」
ナギの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、ナギちゃんね」
母さんがキッチンの方へ向かいながら声をかけた。
「ナギちゃん?」
ナギが不思議そうに繰り返す。
「嫌? ちゃん付けされるの」
ナギは少し考えてから、首を横に振った。
「嫌じゃない」
「じゃあ、ナギちゃん。よろしくね」
「うん」
母さんがもう一度「ナギちゃん」と呼ぶと、ナギはすぐにそちらへ顔を向けた。
「名前が決まったのはいいが、姓はどうするんだ?」
父さんが、極めて現実的な問題を提起した。
「名字まで必要なの?」
俺が聞き返すと、ナギも首を傾げた。
「名字?」
「悠真なら『相馬』悠真でしょう? 人間の社会で暮らすなら、そういうものよ」
母さんが言うと、ナギは素直にそれを繋げてみた。
「……相馬ナギ?」
「待て待て待て!」
俺は慌てて両手を振った。
「なんかそれだと、俺の妹みたいというか、その……とにかくまだ早いだろ!」
なぜか急に照れくさくなる。
父さんが苦笑しながら助け舟を出した。
「まあ、身元が全く分からない以上、今すぐ正式な登録上の姓まで決める必要はないだろう。処遇については、明日、ハンター協会と相談してからだ。今はまだ保留でいい」
「だよな。うん、それがいい」
俺が強く同意すると、ナギも「ナギだけ」と呟き、それに納得したようだった。
相馬ナギという響きは、一旦俺の頭の奥底に封印されることになった。
*
命名の騒動が一段落し、窓の外が完全に藍色に染まる頃、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
母さんが夕食の準備を始めたのだ。
昼食に俺が炒飯を作ってから、まだ数時間しか経過していない。
「ナギちゃんも、夕飯食べる?」
母さんが鍋をかき混ぜながら聞く。
「食べる」
ナギは即答した。
「お前、昼に炒飯を大盛りで二杯食ったよな!?」
「食べた」
「まだ食うのかよ!」
「お腹、空いた」
「燃費悪すぎないか!?」
見た目は体重すらあるのか怪しいくせに、食欲だけは立派だ。
「そもそも、物理的な身体が曖昧な彼女が、何をどう消化しているんだろうな」
父さんが真顔で疑問を口にし、全員の視線がナギに集中した。
「?」
ナギはきょとんとしている。
「……本人に聞いても無駄だな」
俺たちは考えることを放棄した。
夕食の食卓。
ナギは昼間と同じように、ダイニングチェアの座面から少し浮いた状態で『座って』いた。
だが、昼間と違う点が一つあった。
彼女は最初から食器に触るつもりでいるらしく、今度は一切すり抜けることなく、ごく自然に箸やスプーンを使いこなしていた。
「ナギちゃん、これも食べてみる? 少し味が濃いかもしれないけど」
「うん。食べる」
「ナギ、そっちにあるサラダの皿を取ってくれるか?」
「これ?」
「ああ、それだ。ありがとう」
「おいナギ、そこの醤油取って」
ナギがスッと醤油差しを俺に渡す。
その光景を見ながら、俺はふと不思議な感覚に囚われた。
たった一時間前まで、彼女には名前すらなかったのだ。幽霊のような、得体の知れない『何か』だった。
それが今では、家族全員が当たり前のように「ナギ」と呼びかけ、彼女も自分の名前として反応し、食卓の輪の中に溶け込んでいる。
今となっては、彼女をナギ以外の名前で呼ぶ方が、不自然に思えるほどだった。
「……どうだった? 口に合った?」
食後、お茶を飲みながら母さんが尋ねた。
「おいしい」
ナギはスプーンを置き、満足そうに答えた。
「…………」
俺は無言でナギを睨んだ。
「どうしたの、悠真? 怖い顔して」
母さんが不思議そうにする。
「いや……昼間、俺が作った炒飯の評価は『まずまず』だったよな?」
「まずまず」
ナギが容赦なく肯定する。
「完全に差をつけられた!」
俺が嘆くと、母さんが堪えきれずに爆笑し、父さんも肩を揺らして笑った。
ナギは少しだけ気を使ったのか、俺の方を見て付け足した。
「悠真のも、おいしかった」
「今さらフォローされても遅いよ!」
「……まずまずに」
「やっぱ『まずまず』じゃねえか!」
笑い声がリビングに響き渡り、今日の狂気に満ちた出来事が嘘のように、平和な夜の時間が流れていった。
食後の団欒が終わり、ナギが何気なくリビングのソファへ腰を下ろそうとした時だった。
今度は彼女自身が、ソファに触れることを特に意識していなかったためか。
スゥッ。
彼女の半透明の身体が、ソファのクッションをすり抜け、太もものあたりまで座面にめり込んでしまったのだ。
「怖っ!」
俺が悲鳴を上げると、ナギは不思議そうに俺を見た。
「?」
「自分がソファに半分埋まってるぞ! ホラー映像か!」
ナギが視線を下に落とす。
「あ」
彼女が短く声を出し、意識を切り替えたらしい。身体がするっと上へ浮き上がり、今度は沈み込むことなく、座面すれすれの位置で普通に腰掛けた。
「物に触るのって、やっぱ頭で意識してる時だけなのか?」
「そうみたい」
「自分の身体のことなのに、本当に他人事だな……」
俺が呆れ返ると、ナギは澄ました顔で言った。
「平然」
「お前、もうその言葉覚えたのかよ!」
*
夜も更けてきた。
父さんと母さんは、明日も朝から工場と農場での仕事がある。俺も明日の朝一で、ナギを連れてハンター協会へ行かなければならない。
「そろそろ、寝た方がいいわよ。明日に備えて」
母さんが食器の片付けを終えて言った。
「そうだな。今日はマジで疲れたし」
俺が大きく背伸びをすると、ソファに座っていたナギもコクンと頷いた。
「寝る」
「お前は今日、昼飯の後にも爆睡してただろ」
「また、眠い」
「本当に寝るのが好きなんだな、お前」
まあいい。
「じゃあナギは、昼みたいにそのソファで浮いて寝ればいいだろ。毛布くらいは貸してやるから」
俺がごく自然に提案すると。
「嫌」
ナギから、予想外にはっきりとした拒絶の言葉が返ってきた。
俺は一瞬、動きを停止した。
今まで何を聞いても「うん」「分からない」「たぶん」と返すことの多かった彼女から、ここまで迷いのない『嫌』が飛び出したのは初めてだ。
「……嫌なの?」
「うん」
母さんも驚いたように立ち止まった。
「どうしたの、ナギちゃん? ソファじゃ寝心地が悪い?」
ナギは首を横に振った。そして、ごく当然のことを告げるように言った。
「一緒に、寝る」
「…………」
「…………」
「…………」
俺と父さんと母さんは、三人揃って固まった。
「だ、誰と?」
俺が震える声で尋ねると、ナギは当然のように俺の顔を見つめた。
「悠真」
「なんでだよ!?」
「一緒がいい」
「だから、なんで!?」
俺が問い詰めると、ナギは少しの間、宙を見つめて考え込んだ。
「……分からない」
「そこは分からないのかよ!」
ナギはさらに考え、一生懸命に自分の内側の感覚を言葉にしようとする。
「……悠真の、近くがいい」
その言葉は、変に飾られていない分、ひどくストレートに響いた。
「なんで、俺の近くがいいんだ?」
「分からない」
「でも?」
「近くがいい」
理由は本人にも分からないらしい。
まあ、今日出会った人間の中では俺が一番長く一緒にいる相手なのだ。名前もつけたし、飯も作った。その程度に考えておけばいいのだろう。
少なくとも、ナギ本人は自分の発言がどれだけ俺を困らせているのか、まるで分かっていない。
だが、だからといって。
「いいんじゃない?」
母さんが、あっさりと許可を出した。
「母さん!?」
「だって、自分の名前も分からない状態で、知らない家で一人ぼっちで寝るより、悠真がそばにいた方が落ち着くんでしょう?」
「こいつ、昼間は誰もいないリビングのソファで、一秒で爆睡したぞ!」
「寝られる」
ナギが即答する。
「じゃあ一人で寝られるじゃねえか!」
「一緒が、いい」
「お前の理屈は全然通じねえ!」
俺は最後の頼みの綱である父さんに視線を向けた。
「父さん、止めてくれよ!」
父さんは腕を組み、非常に現実的な顔をして言った。
「まあ、問題ないだろう」
「父さんまで!?」
「物理的に同じベッドに入って寝るわけじゃないんだろう?」
「?」
ナギが不思議そうな顔をする。
「絶対別だ! そもそもベッドは一つしかないし!」
「それに、考えてみろ。ナギは空中に浮けるんだ。床のスペースも寝床も必要ない。ただ同じ空間にいればいいだけだろう。非常に合理的だ」
「合理的な話をしてるようで、前提条件が根本的におかしいからな!?」
俺の抵抗虚しく、多数決によりナギが俺の部屋で寝ることが決定してしまった。
父さんは一応、父親としての威厳を保つように念を押した。
「いいか悠真、ナギ。もし何か変わったことがあったら、すぐに俺たちを呼ぶんだぞ」
「分かった」
ナギは素直に頷いた。俺はもはや反論する気力を失っていた。
*
俺はため息をつきながら、自室のドアを開けた。
ナギが俺の背後をフワフワとついて入ってくる。
俺の部屋は、コロニーの標準的な規格の、特別広くもない普通の部屋だ。シングルベッドが一つ、学習机、衣類を収納するクローゼット、それに情報端末とゲーム用の端末が少しばかり。
ナギは部屋の中を珍しそうに見回した。
「ここが、悠真の部屋?」
「そうだよ」
彼女は少しだけ観察した後、悪意ゼロの澄んだ声で感想を述べた。
「小さい」
「うるさいな。コロニーの一般住宅なんて、どこもこんなもんだよ!」
「そう」
俺は頭を掻きながら、部屋の真ん中に立った。
「で、一緒の部屋に来たのはいいけど、ベッドは一個しかないからな。お前、どこで寝るんだ?」
「大丈夫」
「何が?」
すると、ナギはベッドと同じくらいの高さまでスゥッと上昇し、ベッドから一メートルほど離れた空中で、そのまま仰向けに横たわった。
完全なる空中睡眠態勢。重力という概念を完全に無視している。
「…………」
「場所、いらない」
「……お前のその身体、マジで便利すぎるだろ」
とりあえず寝る場所の問題は解決したが、俺にはもう一つ、クリアしなければならないミッションがあった。
「……ちょっと待て」
「?」
空中に浮かんだまま、ナギが首だけをこちらに向ける。
「俺、これから寝巻きに着替えるんだけど」
「うん」
「だから、一回部屋から出てってくれ」
「なんで?」
「なんでって……」
ナギは本当に、俺がなぜそんなことを要求しているのか意味が分からないようだった。
「いいから、一回廊下に出てろ!」
「?」
「年頃の女の子の前で、堂々と着替えられるか!」
「私は、気にしない」
「俺が気にするんだよ!」
俺はナギを部屋の外へ追い出すように手で促し、ドアを閉めた。
急いで外出着を脱ぎ、スウェットに着替える。
ズボンに脚を通している最中、ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。
「まだ?」
「早い! せかさないでくれ!」
こういう日常的なドタバタをやっていると、彼女が人知を超えた謎の存在であることを忘れそうになる。ただの、ちょっと世間知らずな女の子が家庭に入り込んできたような、そんな錯覚を覚える。
着替えを終え、俺はドアを開けてナギを再び招き入れた。
俺はベッドに潜り込み、ナギは先ほどと同じように、ベッドから一メートルほど離れた空中に横たわった。
「電気消すぞ」
「うん」
カチッ。
部屋の照明を落とす。窓から差し込むコロニーの防壁の夜間ライトが、部屋の中を微かに照らしていた。
「おやすみ、ナギ」
少しの間があって。
「おやすみ、悠真」
静かな声が返ってきた。
部屋の中が、深い静寂に包まれる。
俺は目を閉じ、今日一日の疲労を布団の中に溶かそうとした。
……しばらくして。
なんとなく、顔のすぐ近くに『気配』を感じた。冷気のような、微かな波動のようなもの。
パッと目を開く。
「うわっ!」
「?」
俺の顔のすぐ横、距離にしてわずか十センチの空中に、横向きになったナギの顔があった。
暗闇の中で、淡く浮かび上がる半透明の少女が、俺をじっと見つめている。
「近い近い近い!」
「一緒に寝る」
「同じ部屋にいるだろ!」
「遠い」
「さっきの位置でも、一メートルしか離れてなかっただろ!?」
「遠い」
ナギは譲らない。パーソナルスペースという概念が欠如している。
中身が元サラリーマンだろうと、身体は十五歳だ。こんな距離に同年代の美少女の顔があれば、平然としていられるほど枯れてはいない。
「じゃあ……そこ」
俺はベッドの縁から五十センチほど離れた空中のスペースを指差した。
ナギは少し不満そうだったが、スゥッとその位置まで後退した。
「ここ?」
「そこなら、まあ……許容範囲だ」
「分かった」
彼女はそこで再び仰向けになった。
半透明で宙に浮いているという圧倒的な異常性のせいで忘れそうになるが、見た目だけなら俺と同年代の美少女なのだ。
「……寝ろ、俺」
俺は強引に目を閉じ、思考をシャットアウトしようとした。
さらに数分が経過した。
「悠真」
暗闇の中で、静かな声が響いた。
「……なんだ、まだ起きてたのか」
「うん」
「なに?」
ナギは、空中で天井を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「……ナギ」
「?」
「私の、名前」
「そうだよ」
「ナギ」
彼女は、もう一度、自分の名前を口にした。
「まだ確認してるのか?」
「うん」
少しの沈黙。
「ありがとう」
真正面からの、純粋な感謝の言葉。
俺は急に言葉に詰まってしまった。
最初は、見た目と雰囲気から連想して付けただけの名前だった。
でも、ナギにとっては違うのだ。
自分が誰なのかも、どこから来たのかも分からない彼女に、初めて与えられた『自分自身を指し示すもの』。
そう考えると、少しだけ照れくさくなった。
「……どういたしまして」
俺は短く返した。
「うん」
数秒後。
「ナギ?」
返事がない。
薄目を開けて横を見ると、彼女は静かに目を閉じ、すでに安らかな寝息を立てていた。
「もう寝たのかよ……」
スゥ、スゥ。
「本当に、自由な奴だなぁ……」
でも、その自由さが、今は不思議と心地よかった。
暗闇の中。
横で静かに浮いて眠るナギ。銀白色の髪が、微かな空気の流れに乗ってゆっくりと揺れている。
恐ろしいガーディアン。騒がしい協会。見知らぬ家。そして、初めての名前。
今日一日、何が起きても、彼女は大きく揺れることがなかった。
ナギ。
凪。
何があっても妙に静かで、ペースを崩さないこいつには、案外、本当にぴったりな名前かもしれない。
俺も再び目を閉じ、毛布を引き上げた。
明日の朝は、またハンター協会に行かなければならない。
地図にない未登録ゲートのこと、俺に突如発現した超能力のこと、そして、ナギの正体や処遇のこと。
考えなければならない問題は、山のように積み上がっている。
けれど、今日はもう限界まで疲れた。今はもう、何も考えたくない。
俺の意識は、深い泥の中に沈み込むように、急速に闇の中へ溶けていった。
その夜、俺は妙な夢を見た。自分ではない誰かの、ひどく古い記憶の夢を。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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