40.京成杯(5)
悠馬たちは案内されるままにウィニングサークルにやってきた。当然土砂降りなので途中で傘を手渡された。そこでは紗季さんがインタビューを受けていた。そして主役のはずのグランフェリスの姿がない。
悠馬を見つけてすぐに高梨先生がやってきた。顔色が悪いのがとても不吉に思える。
「グランフェリスは大丈夫です。2000m走った直後とは思えないぐらい元気ですし、足元も問題ありません。ただ、これほどの豪雨に晒すのは良くないとのJRAの判断です」
雨粒は大きく激しい。ウィナーズサークルのゴムチップの地面での跳ね返りが靴はもちろんズボンの裾をひざ下まで容赦なく濡らす。雪にならないのがおかしいほど冷たい。
「肩掛け(重賞などで優勝した馬の首に掛けられる優勝レイ)姿が見られないのは残念ですが、傘をさしている私たちも濡れネズミですからね」
悠馬はそう返しながら、それなら高梨先生の表情がなぜ暗いかが気になった。だって中央競馬の3歳芝の重賞で優勝。賞金は4100万円。外厩の費用なんて全然気にならない。お金があるのはとても良いこと。
さらに重要なのは春のクラシックレースとそのステップレースにほぼ無条件で出れる。丸々休んで目標のオークスに直行することも可能だ。他にも中央重賞を勝つ地方所属馬が次々に出てきたら話は別だけどその確率はほぼない。
そして圧勝したから、約束通りなら今後も雪島ファーム系列の外厩を使わせてもらうこともできる。
事故があったから大っぴらに喜べないのはわかるけれど、それだけではない気がする。まさか来年の所得税の計算をしているわけでもないだろう。
「早いうちにご報告しておきますが、紗季が斤量違反で戒告になりました。申し訳ありませんでした」
騎手はレース前に全員が規則通りの重量かを計測する。そして7着以内に入った(及び裁決委員が指定した) 騎手にはレース後にも検量がある。前者が「前検量」で後者が「後検量」。後検量で斤量違反? 前計量よりも1kg以上斤量不足なら失格なので優勝も取り消される。確定ランプが付くまで時間がかかるのはこのせい。
制裁ということは±0.5kgを超えたということだ。この土砂降りを考えると斤量超過ということだろう。勝負服はもちろんゼッケン、馬具などはできるだけ水を吸わない素材でできている。だがブーツなどは致し方ない。事故に気が付いてウィニングランを止め、第2コーナーの出口付近から常歩で帰って来るまでの間、紗季さんはずっと厳しい雨を浴び続けていた。
「状況を考えると仕方がないですよ? だから戒告なんでしょうし」
戒告は斤量違反の罰則の中では最も軽い口頭注意で、不可抗力だと認められたということだ。不可抗力なのに罰せられるのはおかしな気もするが、競馬がギャンブルだという特性を考えると仕方がないのかもしれない。1kgはもちろん、その半分でも斤量差があれば確実に勝負に影響するからだ。どこかでJRAが世界で一番厳しいと目にしたこともある。
関係者が揃ったので口取りの代わりに関係者の集合写真だけ撮って、そのまま表彰式が始まった。悠馬も所有者として優勝カップを頂いた。ものすごく誇らしいことだ。傘を肩で挟んで両手で受け取ろうとしたけれど、上手くできなかったのでタイムスケジュール優先で無作法だけど片手で受け取った。悠馬以外の関係者(高梨先生や雪島夫人)は上手く両手で受け取っていた。ここも経験の差なのだろうか。豪雨の中で優勝カップを受け取る練習なんてする人はいないだろう。
紗季さんは傘もささずずぶぬれのまま。泥だらけの勝負服に決して楽な勝利では無かったことを思い知らされる。首に掛けられたゴーグルも多分泥がかかっているだろう。インタビューは手短に行われた。
「まずはグレイスフルウェイの様子が心配です。大きな事故で無いことを願います」
そこから始まって二言三言で終わった。メインレースの前に2レース乗せてもらえたのが大きいと、他の馬主さん、調教師さんに礼を言っていたのも流石だと思う。
インタビューは悠馬がウィニングサークルに到着するまでの時間にも行われていたはずだし。なんならこの後、雨の当たらないところでも続きをするだろう。悠馬が紗季さんならさっさとシャワーを浴びて着替えたいと思うけれど、これも仕事だと諦念しているのだろう。重賞の勝利ジョッキーだけの特権と考えると悪くないのかもしれない。
予想通り表彰式が終わった後も、雨の当たらないところに移動して紗季さんへのインタビューが続く。女性ジョッキーがGⅠを勝つ時代とは言え、それでも重賞の勝利は珍しいし、それが地方所属だとなおさらだから仕方がない。
「さとうさん」
少し手持ち無沙汰だった悠馬に、先ほどの集合写真にも入ってもらったソフィアさんが話しかけてきてくれた。
「先ほどサチコ……さんとも話したのですが、この後しゅくしょうかいをしますか?」
祝勝会は考えていなかった。今日は日曜、明日は仕事があり、20時半に羽田を発つ飛行機を予約している。それでも自宅に着く頃には日が変っているだろう。今は16時半。中山競馬場から羽田まで少なくとも2時間は見ておく必要がある。
「そうですね……今夜中に帰らないといけないので1時間ぐらいしかありません。競馬場内どこかのラウンジで簡単にしましょうか。厩務員は馬主席入れないですよね」
中央競馬の祝勝会って、ホテルの広い部屋を貸し切るイメージ。それに比べるとすごくケチな馬主だ。
「担当厩務員は今大忙しなのでどっちみち参加できないですよ」
それはそうか。レースを終えたどろんこグランフェリスのお世話は大変だ。
「じゃあ馬主席で、1時間程度で簡単にさせてください。紗季さんは途中参加ですね」
幸い祝勝会は盛り上がった。サンライズカップ以上にプレスが多いのは、そのまま付いてきたからだ。
高梨調教師、ソフィアさん、幸子さん、遅れて現れた紗季さん、 みんな顔色もよくなって自然に笑顔になっていた。万里子さんは相変わらず仏頂面だけど、不快ではなさそうだ。みんなで一緒にホッカイドウ競馬の応援番組を見て盛り上がった。もちろんプレスに混じって広報担当者からの簡単なインタビューも受け付けた。
それにしてもソフィアさんはすっかり溶け込んでいるけど良いのだろうか? そう思っているとまた目が合った。だってやはり日本人(万里子さんは日系アメリカ人らしいけど)の中にひとりだけブロンドの人がいると目立つ。
「先ほど連絡がきました。まだよだんは許さないですが、グレイスはやはりSDFTでした」
「浅屈腱炎だったそうです」
Superficial digital flexor tendinitisの略称だって。そんな専門用語が訳せる万里子さんって凄くない? そして「やはり」という言葉に、あの馬主席からそれを見抜いていたのだということがわかる。跛行(びっこをひく)していたらしいけれど、靭帯に限らず蹄、筋肉、神経、骨、どこを痛めても馬の歩行はそうなる。
馬もレース中はアドレナリンが出ているので、途中で故障してもそのまま走り切ってしまう場合がある。ペースを落とし息も整いクールダウンする過程で、途端に激しく跛行が始まった。屈腱炎は比較的多いからそう感じたのだという。
「さいわいダメージが軽いので、サチコ……さんの牧場で繁殖牝馬になることができそうです」
ソフィアさんの口調が少し明るいのは、命には別条がないからだろう。でも競走馬生命は終わったということでもある。グランフェリスがそうなっていたら悠馬は耐えられないと思う。これが競馬で生きる人と、首を突っ込んだ素人の違いなのだろうか?
「お気の毒でした」
当事者のソフィアさんが淡々としているのに、悠馬はこんな態度しか取れない。そんな悠馬を見てソフィアさんが少し笑った。素人を見下すのではなくて、慰めるような優しい笑み。
「グレイスのことはまた連絡しますね。それ以外にもグランフェリスの次戦などについてお話ができればと思います。だからさとうさんの……メールアドレス以外の連絡先もおしえてもらえませんか?」
悠馬は少し面食らった。一方的にこちらが教えるわけではないだろう。悠馬が連絡先を知ってもいいのだろうか? こうしてふたりは連絡先を交換し、早速簡単な挨拶をメッセージアプリで交わした。
「北海道にいらっしゃる時には是非声をかけてください」
「それはうれしいです。来月、ホッカイドウに行く予定がありますのでぜひ」
近所にお越しの際は、的な社交辞令をしたのだけど、なんだか具体的な話になりそうだった。
翌日、悠馬は普通に出社した。通勤時の除雪された札幌市内の道路と身を刺すような寒さが、悠馬を無理やり日常に戻してくれる。もちろんグランフェリスの勝利や、高梨兄妹の活躍はネットでもコンビニで勝った競馬新聞でも大きく扱われているので、あれが現実なのはわかっている
そしてグレイスフルウェイの浅屈腱炎も。浅屈腱炎からの回復には、馬自身はもちろん関係者の懸命の努力が必要なことを羽田に行く途中に調べた。多分この時間も専用の冷却ブーツをはいたり、抗炎症剤を投与されたりしているのだろう。このまま無事で牧場に帰って欲しい。
昨日の泥臭く、ほろ苦さもありながら、それでも華々しさがある競馬の世界とは違う。悠馬の日常の世界が始まった。昼前から客先に出て事務所に戻ると社内の知らない人物からメールが届いていた。
悠馬が所属していた会社が「東邦光和」 に買収されてから、4月で3年になる。あらかじめ聞いていたように1年経ってから異動する人も出て来た。悠馬にも人事部から事前の意向調査のようなものが届いたのだろうか。それとも大口顧客の札幌支店への納品に立ち会って欲しい系の依頼か。
とりあえず考えるよりも読んだ方が早い。
「札幌第二営業部 佐藤様
広報部の湯本と申します。お世話になっております。」
えっと、広報部の人なの? 悠馬の広報部のイメージはテレビやネットでCMを流している人たち。悠馬には縁も縁もなさそう。
「突然のメールで申し訳ありません。この度は所有馬のグランフェリスの京成杯での優勝、まことにおめでとうございます。」
えっ? なぜ会社でグランフェリスの話が?
7月15日に掲載した次話の「41.京成杯(6)」の内容が本話と9割方重複していました。完全に私のミスです、申し訳ありません。「41.京成杯(6)」を削除し、代わりにそちらにだけ記載した内容、(悠馬が手出勤するところ以降)をこちらにコピペしました。
申し訳ありませんでした。




