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Stay Here  作者: 多手ててと
遠征

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39.京成杯(4)

ラウンジに座ってらした雪島夫人の計らいで、悠馬は彼女たちの席に招かれることになった。中山競馬場の馬主用スタンド席は2人掛け。こちらはひとりであちらは3人。だから並んで一緒に観戦しましょうということだ。


ソフィアさんは招待主である万里子さんと並ぶだろうから、悠馬は雪島夫人の隣だろうと思ったのだけれど、万里子さんは雪島夫人の隣に座った。これだとおのずと悠馬の座る席はソフィアさんの横になる。悠馬が客人ということなのかな? マナーがよくわからない。


「もう……カエシウマですね」


ソフィアさんの態度は変わらないが、5文字の日本語は少し言いにくいのかもしれない。そもそもほとんどの日本人は知らない単語だと思う。悠馬だってそれを英語で何と呼ぶのか、そもそも返し馬自体が他国でもあるかすら知らない。何らかのウォーミングアップはあると思うのだけれど。


「また雨脚が強くなりました。馬も騎手も辛そうです」


日本でも必ずしも返し馬をするわけでもない。このレースのようにコンディションが悪い日は特にそう。紗季さんも普段よりかなり短くしていた。 グランフェリスの足元の確認だけのために短く返し馬をしたのだろう。


グランフェリスにとって不利なのは大外枠なこと、芝が2戦目、中山競馬場は初めて。そして雨のレースも初めて。牧場などで聞く限り雨そのものを嫌がることはなさそうだけど、中山でここまでの不良馬場は悠馬も初めて見た。パドックの時に弱まっていた雨がまた強く降っているのがガラス越しにもわかる。


紗季さんが今日2回も騎乗できてよかった。馬はともかく騎手がこの不良馬場に戸惑うことはないはず。


他には返し馬がルーチンになっている馬もいるだろうし、ズブい(反応が鈍い)馬なら返し馬で心拍数を上げる必要があるだろう。一方で返し馬をしないのはケガの危険性を意識していたり、スタミナに不安がある馬だろう。馬によってはこの2000mを2400mぐらいの負担に感じるかもしれない。そういう意味ではグランフェリスに分がある。


他にも仕上がり具合と重賞の経験はグランフェリスに有利。小回り(内側でカーブがきつい)なので脚質的にも前からの競馬の方が分がある。


「私もですがどの陣営も不安だと思います。日本ではフタを開けるまでわからない、という言い方をします」


グランフェリスの人気は一つ落ちて5位で締め切られた。


「英語だと"It's anyone's race." アメリカだと"It's a crapshoot." と表現するでしょうね。どちらも誰が勝つかわからない、という意味です。グレイスも心配です」


「心配ですよね。でも今ひとつ、グランフェリスに有利なジンクスを思い出しました」


悠馬は思いついたことを思わず口に出してしまった。これは言ってはいけないことかもしれない。


「Jinxですか? 日本ではよいいみでも使うようですね」


英語では悪い意味でしか使わないのだろうか? それならば言わない方がいいのかもしれない。迷ったけれど悠馬は口に出した。


「グランフェリスが勝った新馬戦とサンライズカップ、どちらも現地にソフィアさんがいてくれました。いらっしゃらない時は負けています」


ソフィアさんの青い瞳がこちらを見ている。


「ソフィアさんがグランフェリスの勝利の女神なのかもしれません」


それを聞いたソフィアさんが笑った。


「Jinxは元々アメリカの言葉ですが、ふつうは悪いいみで使います。Superstition.err……いや私はグランフェリスのTalisman……だったらいいですね。ちなみにグレイスは私が見にきた時は勝てないんですよね」


このやりとりの最中にゲート入りが進んでいるのだけど、やはり手間取っている。若駒たちもこんな土砂降りの日に外で走らされるのは嫌なのだろう。大外のグランフェリスはすんなり入ってくれたのでよかった。奇数枠の後にグレイスフルウェイなどの偶数枠の馬が入るが、こちらも12番の馬がもたついている。


12番がゲートに収まるまで少し時間がかかった。そしてゲートが開く。グランフェリスがただ一頭、勢いよく飛び出した。そのままスパートをかけたみたいに他の馬を引き離していく。


「この馬場だと速すぎるかも」


このコースは皐月賞で使われることで有名、スタートしてすぐにゴール板までの急な上り坂がある。そのまま第一コーナーが終わるまでずっと上りが続く。それなのにグランフェリスは悠馬たちの前、ゴール板を単騎で通り過ぎていく。


この悪天候の中、悪路も坂路も我関せずとグランフェリスが駆け抜けていく。東スポ2歳でグランフェリスが逃げ馬だと知っているはずなのに、周囲からどよめきが起きる。


「確かにうれしそうですね。きょりを苦にしないので、サキさんが自由に走らせているのでしょうね」


「いや、これからの長い下りも心配です」


他の馬はグランフェリスは無視することにしたみたい。展開的にはサンライズカップと同じだけれど、悠馬だって他の陣営ならあれに追走しろとは言わない。明らかなオーバーペース。そのままのペースで第2コーナーからバックストレッチの下り坂を駆け下りる。


馬群とは少なく見積もっても15馬身以上差がある。作戦通りと言えばそうだけど、この不良馬場で最後まで脚が残るのか不安も大きい。そして第3コーナーに入ったところで脚が鈍った。紗季さんが息を入れた(馬を休ませるために一時的にペースを落とした)のだと思うけれど、楽しむだけ楽しんでガス欠というパターンはやめて頂きたい。


少なく見積もってもまだ10馬身は差がある。第4コーナーを抜け、これから最後の直線、グランフェリスが自分の競馬ができれば勝てるけれど、再び多くの馬を苦しませた坂道が始まる。


グランフェリスは最後の直線でスパートに入った。本来なら残り300mを逃げきるのは容易いリードがある。こんな不良馬場の急坂が無ければまったく問題ないはずだ。


頑張れ。


悠馬はグランフェリスと鞍上の紗季さんを見てまた馬群との差を確認する。グランフェリスが悠々と、心臓破りと称される中山の急坂を駆け上っていく。後ろの馬群もばらけている。先頭のペースは上がったけれど、再加速したグランフェリスとの差は、10馬身を割ったあたりからそれほど縮まらない。


馬群がばらけたのは何頭もの馬がペースについていけず脱落したから。グランフェリスにふるい落とされた形になった。紗季さんが振り向いて後ろを確認するのが見えた。そして無理をする必要がないことを知ったのだろう。手綱を持つ手も体の動きも止まった。当然ムチも入れていない。グランフェリスの加速が止まり、慣性の法則に従うようにゴールへと向かう。


後ろとの差が縮まるが、これまでに積み重ねたリードがあまりに大きい。グランフェリスがペースを保ったままゴール版を駆け抜けた。最後は5~6馬身あたりまで詰められていたけれど関係ない。圧勝と言っていいだろう。


これで「雪島スタッド稲敷」や関西の施設を使わせてもらうことができる。去年の暮れ、大晦日の前日に悠馬は場長とそういう話をしたのだ。


「よし!」


悠馬は思わず大きな声を出し、小さくガッツポーズをした。勝因は間違いなく大雨と不良馬場だろう。おかげで起立蹄きりつていが活きた。スタミナ勝負に持ち込むことができた。実力とは言い難いが運も含めて競馬なのだ。


「ソフィアさん」


ソフィアさんも持ち馬を出走させているけれど、グランフェリスのことも応援してくれていた。この喜びを分かち合えるのではないかと思った。やっぱり彼女はグランフェリスの……タリスマン?、なのではないだろうか。


だがソフィアさんはものすごく真剣にゴールを過ぎた後の第一コーナーのあたりを見ていた。いったい何を? 悠馬は注意深くソフィアさんの視線の先を追った。そこにはゼッケン6番、グレイスフルウェイがいる。本来ならまだ騎乗しているはずの騎手が下馬している。


あっ。ああっ。


赤灯を回した馬運車が第1コーナーへと向かう。悠馬が注意を払う前にコース監視員が連絡をしていたのだろう。監視員が見てわかる程の急変がグレイスフルウェイにあったということだ。


紗季さんも後ろで起きていることに気が付いたのだろう。グランフェリスをゆっくりと慎重に方向転換させると、歩調を落とし、やけにゆっくりとした足取りで粛々と第一コーナーへと引き返してきている。ウィニングランを取りやめたのだ。


「さとうさん。おめでとうございます。みごとな勝利でした」


本来なら悠馬の方からソフィアさんを労わらなければならなかった。


「ありがとうございます。でもグレイスフルウェイが……」


「みごとな勝利に……えっと、みず? 水をさしてしまいましたね。ご心配おかけしてもうしわけありません」


「いえ。そんなことはありません」


馬が故障するのはとても悲しいことだ。悠馬のような零細馬主ですらそうだ。その所有者や現場の担当者の心痛がいかほどなのかは計り知れない。


「大丈夫です。私は牧場で育ちました。ですからなれています」


勝利の喜びはとうに失せ、無力感だけが悠馬に残った。その状態で悠馬は雪島夫人にもグレイスフルウェイの無事を祈りますと声をかけた。でもそれ以上のことは今の悠馬にはできない。背中からソフィアさんの声がかかる。


「私もサチコさんも大丈夫です。佐藤さんのかおいろが一番悪いです。タフなレースを勝ちきったのですから、馬とサキさんを称えてくださいね。もしよろしければ私もごいっしょしても?」


悠馬はただうなずくことしかできなかった。随分時間が経つのが遅い気がする。グレイスフルウェイもグランフェリスもトラック内を立ち去ってから随分と時間がたってから確定のランプが付いた。


「佐藤様、おめでとうございます」


いつの間にか係員が近くに来ていた。近くに雪島夫人がいることがわかっているのだろう。声のトーンが低い。


「ウィナーズサークルにご案内します」


悠馬はうなずいた。そして思い切ってソフィアさんと雪島夫人を誘ったら、何をいまさらという感じで雪島夫人に返された。


「はい、私は生産者の代理として出るつもりおります」


確かにそれはそうですね。

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