37.京成杯(2)
紗季さんが次のレースに騎乗するという話をしたところ、ソフィアさんは隣にいた老婦人を少し見た。アジア系なので十中八九日本人。洋装だけど和服が似合いそうな貴婦人だ。そして胸には緑と白のコサージュを付けている。つまり悠馬と同じ今日のメインレース、京成杯の馬主ということだ。
その老婦人が無言でうなずく。言葉は無かったけれど見事に意思疎通が取れている。
「ではわたしたちも、ごいっしょしてもよろしいですか?」
コートを着た高梨調教師とふたりでも2階の馬主用パドックに行くのは少し躊躇するような荒れた天気。ご婦人方をお連れするのはやめておこうと悠馬は思った。
「ではまだ少し時間があるので、ソファで少しお話をしましょうか」
そう提案するとソフィアさんがまた笑ってうなずいてくれた。なんだか今日はご機嫌のようだ。無言でふたりの後ろに控えていた万里子さんを含め5人で馬主席エリアにあるソファに腰かけることになった。
「ソフィアさん、大変お久しぶりです。そちらのご婦人は?」
「ああ、ごめんなさい。こちらは私と……まあいっしょに馬を持っているかたで、さちこさんです」
その紹介と同時に老婦人が深々と頭を下げた。
「申し遅れました。私は雪島幸子と申します」
ご年配の方に丁寧なあいさつをされてしまった。
「ご挨拶が遅れ申し訳ありません。初めまして、佐藤悠馬と申します。こちらは調教師の高梨先生です」
「大変ご無沙汰しております」
あれ、高梨先生のお知り合い? それに加えて「雪島」というそこそこ珍しい苗字が悠馬にある可能性を思い起こさせる。雪島ファームの関係者の方では?
「佐藤さんのことは、夫の雪島から何度かお伺いしたことがございます」
悠馬が知っている雪島さんはこれまで雪島ファームの社長、雪島研史郎氏しかいなかった。目の前のご婦人はその奥様なのだろう。夫を苗字で呼ぶのはわかりにくいけれど、このご婦人の口から聞くと古風で良い響きがする。
「私こそ若輩者なのに、先日ご主人には大変良くして頂きました。ありがとうございました。ご夫婦にこうして連続でお会いできるのも嬉しいことですね」
そう言うとご婦人はくすりと笑った。真面目な優等生がちょっとした悪戯をしたような笑顔だ。
「私『も』佐藤さんとお会いできるのを楽しみにしておりました」
いやに『も』を強調されたのは夫君『も』ということ? なぜこのご夫婦が悠馬に注目するのか、それがさっぱりもって理解できない。
「もったいないことです」
そう言って悠馬は頭を下げた。
「佐藤さんは今日はグランフェリスの応援ですよね?」
「はい、そうです。今回はおかげ様で『雪島スタッド稲敷』を使わせて頂いたので良い調整ができました」
この方は雪島一族の中で馬主としても活動されている。 奥様には是非とも悠馬の味方になって頂きたい。 でも今から同じレースで対戦するんだよな。競馬新聞を見た時には気が付かなかったけれどどの馬だろう。
「雪島の評判が上がるのはとても嬉しいことです。こちらこそありがとうございます」
『雪島』が夫君のことなのか会社のことなのかは不明。
それにしても先ほどから奥様とばかり話しているけれど高梨先生もソフィアさんも気を悪くされてないだろうか? ちらっとソフィアさんを見ると相変わらず花が開いたような笑顔なので少し安心した。そしてバッチリ目が合った。一方の高梨先生はまるで存在感を消そうとしているようだ。そしてひとりだけ立ったまま、話の輪にも入らずに周囲を見渡している体も存在感も大きな万里子さん。
「今日、同じレースを走るのは……」
ここで夫人が声のトーンを下げた。
「大きな声では言えませんが、半分はこのソフィアさんの馬です」
えっ? 思わず声を上げそうになった。名義貸しはもちろん、共同馬主も日本では認められていない。また先ほどのように悪戯っぽく笑うこのご婦人も当然そのことはご存知のはずだ。
「名前は『グレイスフルウェイ』と言います。2000めーとるはかのじょには長いかもしれませんが、ちょうせんしてみることにしました」
ソフィアさんも笑っている。 確かにグランフェリス以外にもう一頭牝馬が出走している。それがこの幸子奥様とソフィアさんの馬なのか。戦績は思い出せないが1勝か2勝。新聞では目立ってはいなかったと思う。
「そうですか、グランフェリスとワンツーフィニッシュできれば最高ですね」
「ふふっ。グランフェリスは今回とても注目されてますからきたいできますね」
「おかげ様で……過大評価されているようですが……」
悠馬が見た最新情報では、グランフェリスは4番人気に食い込んでいた。やはり唯一重賞に出場経験があるというのが評価されたのだろう。しかも5着。逆に考えるとそれでも1番人気ではないというのがグランフェリスらしい。
悠馬は既に応援馬券以外に、単勝と複勝(3位までに入れば良い)に10万円ずつつぎ込んでいる。いつもは買わない複勝を買ったのは、我ながら弱気なのかもしれない。
「正直、私はグランフェリスがあっしょうすると思います」
グレイスフルウェイ。この馬の話が始まったタイミングから会話が「奥様と悠馬」から、「ソフィアさんと悠馬」にガッチャンと切り替わったようだ。しかもソフィアさんと頻繁に目が合う。悠馬も失礼だと思うのだけれど、雪深い森の中でも凍らない湖水のように青くて大きな澄んだ瞳に吸い寄せられてしまう。
明るい黄金色の長いウェーブを描く髪。真っ直ぐな鼻筋を中心に整った顔立ち。そして誰もかもを魅了するような笑顔。それらすべてが悠馬に向けられている。
こんな美人に間近で見つめられると男なら、いや女性でも正気を保つのは難しいと思う。ソフィアさんってこんなに距離感が近い人だったっけ? これまで悠馬は感じることができなかっただけで、欧米だとこの距離感が普通なの? 仮にこれが欧米のスタンダードだとしても、日本はもちろん、母国や他国でも星の数ほどの男を勘違いさせてそうだ。
「この天気もグランフェリスには有利だと思います。ヒヅメの形もヨーロッパの芝やアレた芝によく合うと思います」
そして初めて悠馬の視線に気が付いたように、また微笑む。
「どうかしましたか?」
ほんの少しだけ顔が近づいたような気がするのは悠馬の気のせいかもしれない。清楚で気高く手が届かない異国の美しいご令嬢、そんなスクリーンの向こうにしかいないような存在が、悠馬が手を伸ばせば届くところに実在して、暖かな笑顔を浮かべたと思えば、今度はじっと悠馬を見つめてくる。
これってまずくない? わかっていても勘違いしちゃわない? 馬券を買いに行くので席を外しますとか絶対言いだせなくない?
残念なことに悠馬は紗季さんが騎乗するレースすら見ることができなかった。いつの間にか高梨先生と雪島夫人が席を外していたことにも気が付かなかった。
気が付けば万里子さんだけが変わらず立ったまま、周囲へと視線を配っていた。




