第009話 銅貨の重さ
大通りの武器屋は、はなから候補に入れていなかった。
磨き上げられた硝子窓に、きらびやかな鎧。
入り口に立っているだけで、値段の桁が違うと分かる。
シャールを回っていた五日間で、それだけは嫌というほど見てきた。
だから、一本外れた通りを歩いた。
看板の古びた店。
間口の狭い店。
とにかく、安そうな店。
そうして見つけたのが、この店だった。
古びた石造りの壁に、色の褪せた看板。
看板に焼き付けられた交差した剣の絵は、半分ほどかすれて消えかけている。
ここなら、と思った。
「カイ、ずいぶん渋いとこ選ぶねー」
後ろからついてきたフィーネが、看板を見上げて言った。
「安そうなので」
「正直だねー」
カイは小さく息を吸って、扉を押した。
店の中は、鉄と油の匂いがした。
壁一面に、剣が並んでいる。
長い剣、幅の広い剣、反りのある剣。
その下の棚には槍が立てかけられ、奥には、カイの頭ほどもある刃をつけた斧まで掛かっていた。
カイは、手近な剣の値札をのぞき込んだ。
金貨一枚。
隣の札も見た。
金貨一枚と、銀貨四十枚。
その隣は、見る前に目をそらした。
懐の路銀袋が、急に軽く感じられた。
中身は銀貨十四枚。
宿代を払わなくていい分、これでもまだ多いほうだと思っていたのだ。
「……いらっしゃい」
低い声がした。
奥の作業台に、男が一人座っていた。
四十代か、五十に届くくらいだろうか。
白髪の混じった短い髪に、太い腕。
革の前掛けには、焦げ跡がいくつも散っている。
男は、立ち上がりもしなかった。
ただ、カイの頭のてっぺんから靴の先までを、ゆっくりと眺めた。
それから、カイの手に目を留める。
「手を見せろ」
「え?」
「手だ」
言われるまま、両手を差し出した。
男は、手のひらの硬くなったところを、じっと見ていた。
「畑か」
「……はい。村で、ずっと」
「加護は」
カイの肩が、わずかに強張った。
この街に来てから、何度目の問いだろう。
数えるのは、とっくにやめていた。
「ありません」
男の眉が、ぴくりと動いた。
驚いたのは分かった。
けれど、それだけだった。
笑いもしない。
聞き返しもしない。
男はしばらく黙ったまま、もう一度カイの腕のあたりを見て、それから鼻から短く息を吐いた。
「なら、長いのはやめておけ」
「長いの、ですか」
「力のない奴が重い物を持つと、物のほうに振り回される。振り回されて死ぬ」
淡々とした口ぶりだった。
脅しているのではなく、ただ事実を並べているだけの声だ。
男は作業台の脇の木箱に手を突っ込み、一本の短剣を取り出した。
飾り気のない、ありふれた短剣だった。
刀身は、手のひらを広げたより少し長いくらい。
薄く、幅も細い。
握りには革が巻かれているが、ところどころ擦り切れかけている。
同じような短剣が、木箱の中にまだ何本も転がっていた。
「量産品だ。重さも長さも、癖がない。最初の一本なら、これで足りる」
カイは、両手で受け取った。
軽い。
村で使っていた鉈より、ずっと軽い。
握ってみると、手のひらにすっと収まった。
「……おいくら、ですか」
「銀貨九枚」
十四から、九。
残るのは五枚だ。
ちらりと、棚の隅の小瓶に目が行った。
ポーション、と書かれた札が下がっている。
銀貨六枚。
……届かない。
「ねえねえカイ、私が出そうかー?」
横から、フィーネがひょいと顔を出した。
軽い口ぶりだった。
串焼きでも奢るような、何でもない調子。
カイは、静かに首を振った。
「いえ。ありがとうございます。でも、自分で払います」
「えー、遠慮しなくていいのにー」
「遠慮じゃないです」
カイは路銀袋の口を開けて、銀貨を一枚ずつ作業台に並べた。
九枚。
並べ終えると、袋はずいぶん薄くなった。
男は銀貨を数えもせずに、手のひらでまとめて引き寄せた。
それから、棚から古びた革の鞘を一つ取って、短剣の横に放る。
「鞘はおまけだ」
「え、いいんですか」
「抜き身で持ち歩かれるほうが迷惑だ」
フィーネが、作業台に両肘をついて身を乗り出した。
「おじさん、優しいねー。顔はこわいのに」
「顔で鉄は打たん」
「あはは、それはそう!」
フィーネはけらけら笑ったが、男のほうはにこりともしなかった。
ただ、もう一度だけ、カイの手元に目をやった。
「刃こぼれしたら、持ってこい」
それだけ言って、男は作業台の上の何かの部品に、また目を戻した。
店を出て、カイは腰の帯に鞘を通した。
歩くたびに、腰のあたりに慣れない重みが揺れる。
大した重さではない。
それでも、気になって何度も手を当ててしまう。
これが、自分の武器だ。
握りの革のざらつきが、指の腹に残っていた。
ギルドの窓口で、イルゼは今日も昨日と寸分違わぬ姿で座っていた。
髪のまとめ方も、ベストの皺のなさも、まったく同じだ。
もしかすると、昨日からずっとここに座っていたのではないか。
そう思えるほどだった。
「本日、迷宮に初めて入ります」
カイが告げると、イルゼは書類から顔を上げた。
「承知しました。アンファング、カイ・アッシュグレイ。初回の入場ですね」
羽根ペンが、さらさらと何かを書きつける。
「一点、助言があります」
「はい」
「最初は、一階層からをお勧めします。しばらくは、一階層を出ないことを推奨します」
「しばらく、というのは」
「慣れるまでです。期間の基準はありません」
イルゼは、ペン先を止めずに続けた。
「ギルドは、冒険者の潜る階層を制限しません。あくまで助言です。どこまで潜るかは、各シャールの判断になります」
「分かりました。一階層から、ですね」
「はい」
それで、話は終わりだった。
がんばってください、も、気をつけて、もない。
けれど、助言をくれたのは確かだった。
「イルゼちゃん、心配してくれてるんだー」
「助言は業務の一部です。それと、さん、でお願いします」
四回目だった。
迷宮の入り口は、昨日と同じように口を開けていた。
鉄の柵の切れ目に、槍を持った門番が二人。
カイが近づくと、片方の門番が手を上げて止めた。
「シャールと名前を」
「アンファングの、カイ・アッシュグレイです」
門番は、手元の分厚い帳面をめくった。
指でたどっていた行が、ある所でぴたりと止まる。
「……昨日登録の。ああ、例の」
例の、が何を指すのかは、訊かなくても分かった。
門番はカイの顔と帳面を見比べてから、何かを書き入れた。
「通っていい」
カイは小さく頭を下げて、柵の内側に一歩踏み込んだ。
ひやりとした風が、石段の下から吹き上がってくる。
昨日も嗅いだ、土と湿った石の匂い。
その後ろを、当たり前のように、軽い足音がついてきた。
「あ、ちょっと」
もう一人の門番が、槍の柄をすっと横に倒した。
フィーネの胸の前で、ぴたりと止まる。
「神様は、ここまでです」
カイは、振り返った。
フィーネが、槍の柄の向こうに立っていた。
止められたことに驚いた様子は、少しもない。
最初から分かっていた、という顔だった。
「えー」
唇を、とがらせる。
「ちょっとだけ。入り口のとこまで」
「ここが入り口です」
「むー……」
それで、おしまいだった。
フィーネはそれ以上食い下がりもせず、槍の柄からひょいと一歩下がる。
カイは、その場に立ち尽くしていた。
神様は、ここまで。
そうだ。
考えてみれば、街で見かけた神々は、みんな地上を歩いていた。
迷宮から上がってくるのは、いつも眷属たちだけだった。
知らなかったわけではない。
ただ、今の今まで、その意味を考えたことがなかった。
ここから先は、一人だ。
石段の奥の暗がりが、急に深くなったように見えた。
腰の短剣に、手が伸びる。
革の握りは、さっきと同じようにざらついていた。
「カイ」
柵の向こうから、フィーネが呼んだ。
いつもの、明るい声だった。
「いってらっしゃい」
手を振っている。
大きく、ぶんぶんと。
門番が少し迷惑そうな顔をするくらいに。
カイは、息を一つ吸った。
「……行ってきます」
言ってから、気づいた。
この街に来て、誰かにこう言ったのは初めてだ。
カイは前に向き直り、石段を下り始めた。
石段は、思っていたよりも長かった。
下りるにつれて、地上の音が遠ざかっていく。
人の声も、車輪の音も、やがて聞こえなくなった。
代わりに、自分の足音だけが、石の壁に跳ね返ってくる。
最後の段を下りたところで、カイは立ち止まった。
通路が、続いていた。
石を積んだ壁の通路。
けれど、少し先ではその石組みが途切れ、むき出しの岩肌に変わっている。
人の手で造ったような場所と、自然の洞窟とが、継ぎ目もなく混ざり合っていた。
そして、明るかった。
松明は、どこにもない。
それなのに、通路の先まで見通せる。
目を凝らすと、壁や天井そのものが、ごくうっすらと光っているのだと分かった。
夜明け前の空くらいの、ぼんやりとした明るさだ。
なぜ光っているのだろう。
考えかけて、やめた。
今、考えるべきことはそれではない。
通路を進むと、少し開けた場所に出た。
先客がいた。
カイと同じくらいの年の少年が三人。
揃いの胸当てをつけて、腰には剣を下げている。
その足元を、何か小さな影が駆け回っていた。
鼠だ、と思った。
ただし、猫ほどの大きさがある。
毛の薄い灰色の体に、長い尾。
口の端から、黄ばんだ前歯が覗いていた。
一匹が、少年の一人に飛びかかった。
少年は、見もしなかった。
半歩ずれて、剣を軽く振り下ろす。
それだけで、鼠に似た何かは地面に転がり、動かなくなった。
残りの二人も、話をしながら一匹ずつ片づけていく。
「次、奥行こうぜ」
「まだ早くね?」
「いいって。どうせここ、ヴュールラッテしか出ないし」
三人は笑いながら、さっさと通路の奥へ消えていった。
カイは、しばらくその背中を見送っていた。
速い。
動きに、迷いが一つもなかった。
あれが、加護を受けた者の体なのだろう。
村でルッツやグレタを見ていたから、知っている。
知っているはずだった。
最初の一匹は、通路の曲がり角から飛び出してきた。
キイ、と甲高い声。
灰色の影が、まっすぐこちらに向かってくる。
カイは短剣を抜いた。
抜いて、構えて——その時にはもう、相手は足元にいた。
慌てて振り下ろす。
刃は、石の床を叩いた。
手首に、じんと痺れが走る。
すねに、熱いものが食い込んだ。
「っ……!」
噛まれた。
振り払おうと足を上げた拍子に、体勢が崩れる。
背中から、石の床に倒れ込んだ。
息が詰まる。
視界の端で、灰色の影が跳ねた。
顔の前に、黄ばんだ前歯が迫ってくる。
カイは、とっさに左腕で顔をかばった。
袖ごと、腕に歯が立つ。
母が仕立ててくれた服だ、と、こんな時に場違いなことが頭をよぎった。
右手は、まだ短剣を握っていた。
振りかぶる余裕はない。
カイは、腕に食らいついた灰色の脇腹めがけて、刃を突き出した。
一度目は、毛の上を滑った。
二度目で、手応えがあった。
キ、と短い声がして、腕にかかっていた力がふっと抜けた。
カイは、仰向けに倒れたまま、荒い息をついた。
腕の上の重みが、すっと軽くなっていく。
見ると、鼠に似た魔物の体が、端のほうから崩れるように薄れていくところだった。
砂がこぼれるように音もなく、やがて、跡形もなくなる。
あとには、小さな石が一つだけ残っていた。
カイは体を起こして、それを拾い上げた。
小指の先ほどの、黒ずんだ石だった。
光にかざしてみると、奥のほうがわずかに透けている。
これが、魔石。
冒険者たちが、袋に詰めて窓口に並べていたもの。
その一つが、今、自分の手のひらの上にあった。
すねと腕が、ずきずきと痛む。
服の袖には、歯の形に穴が空いている。
それでも。
カイは、石を握りしめた。
一匹。
たった一匹だ。
さっきの少年たちが、話のついでに片づけていたのと同じ相手。
それでも、倒した。
それから、何時間潜っていたのか分からない。
ヴュールラッテは、思っていたほど見つからなかった。
一階層には、駆け出しの冒険者があふれている。
通路の先で灰色の影が跳ねたと思っても、駆けつけた頃には、たいてい誰かの剣がもう片づけたあとだった。
ようやく自分の前に出てきた一匹も、半分以上は取り逃がした。
刃をかすめただけで、ヴュールラッテは岩の隙間へ逃げ込んでしまう。
追いかけて転び、立ち上がってはまた噛まれる。
転んだ回数は、途中から数えなくなった。
噛み傷が熱を持つたびに、壁際に座り込んで息を整えた。
そうしている間にも、時間だけが過ぎていく。
刃がまともに当たるようになってきたのは、ずいぶん後になってからだ。
その間にも、何組もの冒険者がカイの横を通り過ぎていった。
誰も、こちらを笑わなかった。
ただ、誰も足を止めなかった。
カイが一匹と転げ回っている間に、彼らはもう、通路の向こうへ見えなくなっていた。
袋の中の魔石が四つになった頃、膝が言うことを聞かなくなった。
カイは、来た道を引き返した。
長い石段を一段ずつ上りながら、ふと思う。
上りは、こんなにきつかっただろうか。
塔の階段のほうが、まだましな気がした。
ギルドの買い取り窓口には、夕方の列ができていた。
並んでいる冒険者の袋は、どれもずっしりと重そうだった。
カイは、自分の袋の口を握りしめる。
中身は、手のひらに乗るくらいしかない。
順番が来て、カウンターに四つの魔石を並べた。
窓口の男性職員は、ちらりとカイの袖の穴に目をやってから、魔石を一つずつ手に取った。
「ヴュールラッテの魔石、四個ですね」
秤にも乗せず、すぐに答えが返ってきた。
「銅貨五枚です」
カウンターの上に、銅貨が五枚置かれた。
カイは、それを見下ろした。
銅貨、五枚。
「……ありがとうございます」
隣の窓口から、じゃらりと音がした。
見ると、さっき迷宮で見かけた三人組の一人が、銀貨を受け取っているところだった。
数えている指の動きからして、二十枚は下らない。
三人は肩を叩き合いながら、酒場の話をして出口へ向かっていった。
カイは、銅貨を五枚とも握り込んだ。
短剣は、銀貨九枚。
銅貨にすれば、九十枚。
一日に五枚なら、十八日。
その間に、何も食べず、何も壊さず、一度も怪我で休まなければ、だ。
計算をやめようとしても、頭が勝手に続きを数えていた。
ギルドの大扉を出ると、夕日が石畳を赤く染めていた。
「あ、カイー!」
声がしたほうを見ると、柵の脇の段差に、フィーネが腰かけていた。
カイの姿を見つけるなり、ぴょんと立ち上がって駆け寄ってくる。
「おかえりー! ……って、わっ、ぼろぼろじゃん!」
フィーネは目を丸くして、カイの袖の穴をつまんだ。
それから、すねの擦り傷を見て、腕の噛み跡を見て、顔をしかめる。
「痛い? ねえ、痛くない?」
「平気です。見た目ほどじゃないので」
「ほんとにー?」
「ほんとです」
フィーネは疑わしそうにカイの顔をのぞき込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もしかして、ずっと待ってたんですか」
「ううん、ちょっとその辺ぶらぶらしてたよー。戻ってきたのはちょっと前!」
本当かどうかは、分からなかった。
カイは、握っていた手を開いた。
「魔石、四つ取れました。さっき売ってきたところです」
手のひらの上で、銅貨が五枚、夕日を受けて鈍く光った。
フィーネが、ぱちりと瞬きをした。
「えっ」
それから、その顔が、みるみる明るくなっていく。
「初日で売れたの? すごいじゃん!」
両手で、カイの手首をつかんで揺さぶった。
「すごいよカイ! 一人で行って、ちゃんと倒して、ちゃんと帰ってきて、しかも売れたんでしょ? 初日だよ? すごいじゃん!」
カイは、言葉に詰まった。
銅貨五枚だ。
隣の窓口では、同じ年頃の少年が銀貨を数えていた。
短剣の代金を取り戻すのに、半月以上かかる額だ。
けれど、フィーネの顔には、そのどれも映っていなかった。
気を遣っている顔ではない。
慰めている顔でもない。
ただ本当に、心の底から、すごいと思っている顔だった。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
胸のつかえが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
塔への帰り道を、二人で並んで歩いた。
フィーネは、迷宮の中はどうだったのか、魔物はどんな顔をしていたのか、と次から次へと訊いてくる。
カイは、転んだ回数のことだけは黙っておいた。
石畳に、二人分の影が長く伸びている。
カイは、ポケットの中の銅貨を指先でなぞった。
五枚。
軽い。
今日一日、噛まれて、転んで、這いずり回った分の重さが、これだけだった。
足りない。
このままでは、全然足りない。
その言葉は、口には出さなかった。
隣で弾むように歩くフィーネの横顔を見ていたら、出せなかった。
カイは、銅貨をぎゅっと握りしめた。
明日も、潜ろう。
明日は、今日より一つでも多く。




